2
大理石の床に額を擦り付けたまま動かない、帝国最強の男。
その光景を前に、私は唖然とするしかなかった。先ほどまで私が覚悟していた「陵辱」や「処刑」という言葉は、どこか遠い世界の彼方へ吹き飛んでしまったかのようだ。
代わりに私の脳内を占拠しているのは、「この人をどうやって立ち上がらせればいいのか」という、極めて世俗的で、かつ困難極まる問題だった。
「あの……アウグ様?」
恐る恐る、幼い頃に一度だけ呼んだ愛称を口にしてみる。その瞬間、床に伏せっていた漆黒の頭がビクンと跳ね上がった。
アウグストゥス様は、涙で濡れた顔をパッと輝かせ、まるで救済の光を見た巡礼者のような瞳で私を見上げた。
「今、アウグと……アウグと呼んでくれたのか!? ああ、リウィア! 君の声はなんて美しいんだ。その唇から私の名がこぼれるだけで、枯れ果てた大地に雨が降るようだ! もっ、もう一度言ってくれ、いや、あと百回ほど復唱してくれないか!?」
その時。
「ええい! 見苦しいですよ陛下! 少しは自制というものを覚えてください!」
絶妙なタイミングで扉が開き、カシアス様が鋭い声と共に再入場してきた。その後ろには、数人の侍女たちが困り果てたような、あるいは「またか」と諦めきったような表情で控えている。
カシアス様は、私のドレスの手を握りしめたままのアウグストゥス様の後襟を、まるで駄々をこねる子供でも扱うかのような手つきで掴み、強引に引き剥がした。
「リウィア様、お見苦しいものをお見せしました。この男、戦場では鬼神のごとき強さを発揮するのですが、あなたのこととなると、知能指数が生まれたての小鹿並みに低下するのです」
「カシアス、貴様っ……! リウィアの前で余の威厳を損なうような真似を! 大逆罪で首をはねてやろうか!?」
「はねられるものならどうぞ。いつも冷静さを取り戻し、謝るお方は? それに、帝国の政務は完全に停止し、陛下は愛しのリウィア様と愛を語らう時間さえ削って書類の山に埋もれることになりますが」
「うっ……。わ、わかった、今回は許してやる。その代わり、今すぐリウィアのために用意した最高の離宮へ彼女を案内してくれ」
アウグストゥス様は、カシアス様に掴まれたまま、必死に服の皺を伸ばして威厳を取り繕おうとした。だが、目はまだ真っ赤だし、鼻先もほんのりピンク色だ。全然怖くない。むしろ、大型犬が叱られてシュンとしているようにしか見えない。
「リウィア、君の部屋はここから少し離れた『薔薇の離宮』に用意させた。君の好みに合うよう、十年前の記憶を頼りに改装させたつもりだが……もし気に入らなければ、その場で爆破して建て直しても構わない。君の不快なものは、この帝国に存在してはならないのだから」
「ば、爆破……!? い、いえ、滅相もございません。陛下が用意してくださったお部屋なら、私などには十分すぎるほどですわ」
私は引きつった笑顔で答えた。爆破って。この人、愛の表現が物騒すぎる。
私は侍女たちに導かれ、玉座の間を後にすることになった。立ち去り際、アウグストゥス様が「リウィア、後で必ず会いに行くからな! 寂しくて死ぬなよ! 私はもう寂しい!」と叫んでいたが、カシアス様が手際よく彼の口を塞ぐのが見えた。
……陛下、皇帝としての教育、どこかで間違えませんでしたか?
案内された『薔薇の離宮』は、もはや「部屋」という概念を超越していた。
皇宮の敷地内でも最も日当たりの良い場所に位置するその建物は、壁一面が繊細な彫刻で飾られ、庭園には季節外れの薔薇が魔法の力か何かで咲き乱れている。
中に入れば、足が沈み込むほど柔らかな異国の絨毯が敷き詰められ、家具はすべて最高級の白檀で作られていた。
「リウィア様、こちらが寝室でございます」
侍女の言葉に従い、奥の部屋へ足を踏み入れた私は、思わず絶句した。
広い。広すぎる。
そして、部屋のいたるところに置かれている小物を見て、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「これ……」
棚に飾られているのは、私が幼い頃に集めていたのと全く同じ種類の、希少な貝殻のコレクション。
壁に掛けられているのは、私がかつて「いつか見てみたい」と家庭教師に漏らした、帝都の有名な画家の風景画。
そして極めつけは、机の上に置かれた、小さな、古びた銀の箱だった。
震える手でその蓋を開けると、中には、洗濯されてはいるものの、端が少しほつれた子供用のハンカチが入っていた。
それは、十年前の建国祭の夜、私が迷子の少年に貸してあげた、私の刺繍入りのハンカチだった。
「……本当に、持っていたのね」
アウグストゥス様の言葉に嘘はなかったのだ。
あの日、路地裏でうずくまっていた薄汚れた少年が、まさか政変で身を隠していた当時の第一皇子だったなんて、幼い私は露ほども思わなかった。ただ、泣いているのが可哀想で、持っていたハンカチを差し出し、「大丈夫ですよ」と声をかけた。
彼は、その些細な出来事を十年間、一度も忘れることなく、執念深く……失礼、一途に想い続けてきたというのか。
「リウィア様、お着替えの準備が整いました」
侍女たちが持ってきたドレスを見て、私はまたしても頭を抱えたくなった。
金糸と銀糸がふんだんに使われ、宝石が散りばめられたそれは、もはや歩く財宝である。これを着て転ぼうものなら、我が家の借金がもう一度増えるレベルだ。
「あの、もう少し地味なものは……」
「陛下より『リウィア様の肌に触れるものは、世界で最も柔らかく、尊いものでなければならない。粗悪な布を彼女に着せる者は万死に値する』との厳命が出ておりますので」
万死。語彙がいちいち極端すぎる。
結局、私は着せ替え人形のように着飾られ、夜の晩餐へと引きずり出されることになった。
晩餐の会場は、これまた目が眩むような豪華な食堂だった。
長いテーブルの端と端に座らされるのかと思いきや、なぜか椅子は二つ、ぴったりと隣り合わせに並べられている。何かがおかしい。
「待っていたぞ、リウィア! ああ、なんという美しさだ。先ほどのドレスも良かったが、今の君はまるで月光から生まれた妖精のようだ! 私の目は、君を映すためだけに存在していると言っても過言ではない!」
食堂に入るなり、アウグストゥス様が猛烈な勢いで立ち上がり、私の手を取って椅子へと優しくエスコートしてくれた。
彼の距離が近い。近すぎて、彼が纏う高貴な白檀と、微かな香水の匂い――戦場を渡り歩いてきた男特有の、勇ましさが鼻をくすぐる。
顔を向ければ、そこには至近距離で、世界最高の彫刻家が精魂込めて彫り上げたような絶世の美貌がある。……性格さえあんなに残念でなければ、間違いなく腰が抜けてしまうほどの色香だ。
「さあ、存分に食べてくれ。君の故郷の味を再現させるために、辺境から料理人を三名、高給でスカウトしてきた。毒見はすべて済ませてある。いや、もし君の口に合わなければ、それは毒と同じだ。その時は料理人全員を――」
「いえ! 好き嫌いはありませんので。料理人さんは許してあげてくださいね、陛下」
「リ、リウィアがそう言うなら、今回は不問に付そう! ああっ、君はなんて慈悲深いんだ! 聖女か!? 聖女なのか!?」
アウグストゥス様は、私が一口食べるたびに、自分の食事も忘れてじっと私を見つめてくる。
「美味しい……です」
「そうか! 良かった! ああ、もっと食べてくれ。君が嬉しそうに食事をする姿を見ているだけで、私の魂は浄化されていくようだ。君が幸せを取り戻している姿は最高だ。リウィア、あーん、してあげようか?」
「け、結構です、陛下。自分でできます」
「そうか……。残念だな……」
目に見えてガッカリする皇帝陛下。
すると、彼は急に真面目な顔(※イケメン度が五割増しになる)をして、私の手をそっと握りしめた。
「リウィア。……家の借金のことは、もう心配いらない。今日、完済の手続きを済ませた。君の父上には、帝都近郊の豊かな領地を新しく与え、妹君たちの教育も帝国が責任を持って行うと約束した」
「……陛下」
「君はもう、誰の生贄でもない。……私を、利用してくれていいんだ。君の家族が幸せになるための道具として、この帝国の権力を使い倒してくれ。その代わり……」
彼の指が、私の頬を、壊れ物に触れるような優しさで撫でる。
その瞳に宿っているのは、昼間の泣きじゃくっていた姿からは想像もつかない、深く、暗く、澱んだほどの執着だった。
「私のそばにいてくれ。逃げようなどとは、思わないで欲しい。もし君がいなくなれば……私はこの帝国ごと、塵になってしまうだろうから」
それは、甘い愛の言葉というよりは、呪いに近かった。
彼がどれほど本気で、この愛に命を懸けているか。それが伝わってきて、私は思わず息を呑んだ。
権力で奪われることよりも、この重すぎる愛の海に沈められることの方が、ずっと逃げ場がないような気がする。
「……陛下、一つだけよろしいですか?」
「なんだい? 私の心臓が欲しいなら、今すぐここで取り出してみせるが」
「いえ、そんなものは要りません。……とりあえず、その、握っている私の手を、少しだけ緩めていただけますか? 骨が、みしりと言っています」
「ハッ!? す、すまないっ!! 私としたことが、君の羽毛のような繊細な骨を損なうところだった!! あああ、私は万死、万死に値する!! カシアス、剣を持ってこい! 腹を切る!!」
「陛下、食事中ですよ!!」
感動的な雰囲気は一瞬で台無しになった。
私は慌てて自分のお腹に剣を突き立てようと試みる皇帝(と、それを無表情で止めるカシアス様)を見ながら、明日からの生活に、また一つ大きな不安を抱くのだった。
皇帝陛下の愛は、重い。
物理的にも、情緒的にも、そして……何より、その「愛」の方向性が、常に斜め上を突き抜けていることが一番の問題だった。
(私、この皇宮で、まともに生きていけるのかしら……)
私は、お皿に残った最高級の鹿肉を口に運びながら、遠い目をしてそう呟いた。でも、料理はどれも美味しい。




