1
規則正しく響く馬車の車輪の音が、まるで私の処刑へのカウントダウンのように聞こえていた。
窓の外を流れる景色は、私の故郷である辺境の領地から遠く離れ、今や帝都の洗練された、しかしどこか冷たい石造りの街並みへと変わっている。豪奢なビロードが張られた座席に身を沈めながら、私はきつく両手を握りしめた。ドレスの柔らかな絹地が皺になることも構わず、ただひたすらに、これから待ち受ける凄惨な未来に向けて心の準備を整えていた。
私の名前はリウィア。
かつては名門と謳われたものの、祖父の代からの度重なる投資の失敗と不作によって、今や莫大な借金を抱え、没落の淵に立たされている子爵家の長女である。
借金の返済期限が迫り、悪名高い金貸しや、好色で知られる年老いた伯爵の愛人にされるという絶望的な選択肢しか残されていなかった我が家に、三日前の夜、一通の勅書が届いた。
差出人は、帝国の絶対的支配者である皇帝アウグストゥス陛下。
黒蝋で封がされた禍々しい勅書に記されていたのは、簡潔にして絶対の命令だった。
『子爵家令嬢リウィアを、余の妻として後宮に迎える。拒否権はない。直ちに帝都へ出立せよ』
家族は泣き崩れた。無理もない。
皇帝アウグストゥスといえば、即位してわずか数年で周辺諸国を武力で平定し、逆らう貴族は容赦なく粛清したことで知られる「冷酷無比なる悪の暴君」である。
その血塗られた刃のような瞳に見つめられれば、屈強な騎士でさえ恐怖にすくみ上がると噂されていた。女色に溺れるような人物ではないと聞いていたが、それゆえに不気味だった。なぜ、辺境の貧乏貴族の娘などが指名されたのか。
「きっと、何か新しい拷問の実験台にされるのよ……!」
妹はそう言って泣き叫んだが、私は静かに運命を受け入れた。私が生贄となって後宮(という名の牢獄、あるいは処刑場)に入ることで、少なくとも皇帝からの莫大な持参金により、家族は借金地獄から救われるのだから。
「……到着いたしました、リウィア様」
冷ややかな声で馬車の扉が開かれた。
そこに立っていたのは、皇帝の側近であり、戦友でもあるという宰相カシアス様だった。銀色の髪を几帳面に撫でつけ、感情の読めない氷のような眼差しを持った美青年である。彼がわざわざ迎えに来たこと自体、この召喚がいかに「逃げ場のない」ものであるかを物語っていた。
「さあ、陛下がお待ちです。その……粗相のないようにお願いいたしますよ」
カシアス様の言葉の端に、微かなため息が混じったような気がした。きっと、「どうせすぐに陛下に殺される哀れな娘だ」と見下しているか、同情しているのだろう。
私は大きく深呼吸をし、震える膝に鞭打って馬車から降りた。
見上げるような白亜の皇宮は、美しさよりもその巨大さで私を圧倒してきた。大理石の回廊を歩くたび、カツン、カツンという自分の足音が死の舞踏の拍子に思える。すれ違う近衛騎士たちは皆一様に無表情で、彫像のように微動だにしない。
ああ、ここは地獄の入り口なのだ。私は今日、あの冷酷な皇帝に引き裂かれ、尊厳を踏みにじられ、そして闇に葬られる。せめて、泣き叫んで無様な姿を晒すことだけは避けよう。貴族の娘としての最後の誇りだけは守り抜くのだ。
「こちらです」
カシアス様が足を止めたのは、黄金の装飾が施された、ひときわ巨大で重厚な扉の前だった。玉座の間。いよいよだ。私の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、息をするのさえ苦しい。
重々しい音を立てて扉が開かれると、広大な空間の最奥、数段高くなった豪奢な玉座に、その男は座っていた。
皇帝アウグストゥス。
夜の闇を切り取ったかのような漆黒の髪。そして、凍てつく湖面のような、鋭く冷たい青玉の瞳。均整の取れた恐ろしいほどの美貌は、人間というよりは冷酷な神の彫像のようだった。
玉座に深く腰掛けた彼は、頬杖をつきながら、開かれた扉から入ってくる私を射抜くように見つめている。その瞳には一切の感情が読み取れない。ただ、圧倒的な威圧感だけが空気を震わせ、私の肌をチリチリと焼いた。
「よく来たな、リウィア」
低く美しい声が玉座の間を満たす。
私はカシアス様に促されるまま前に進み出ると、震える足で深くカーテシー(淑女の礼)をとった。
「お、お初にお目にかかります、陛下。辺境の……」
「挨拶は不要だ」
冷たく遮られ、私はビクッと肩を震わせた。やはり、私の言葉など聞く耳も持たないのだ。ただのモノとして、力ずくで私を奪い、弄ぶつもりなのだ。
アウグストゥス様はスッと立ち上がった。長身に纏った漆黒の軍服が、彼の威圧感をさらに増幅させている。カツン、カツンと、軍靴の音が私に向かって近づいてくる。
「カシアス。人払いだ」
「……承知いたしました」
カシアス様が静かに一礼し、玉座の間から退出していく。衛兵たちも音もなく姿を消し、巨大な扉がバタンと重い音を立てて閉ざされた。
密室。
皇帝と私だけの空間。
とうとうこの時が来てしまった。私はギュッと目を閉じた。叩かれるのか、それとも無理やり服を引き裂かれるのか。どんな苦痛にも耐えてみせる。家族のためだ。私は……!
――ダァンッ!!
突如、私の目の前で、何か重いものが大理石の床に激突する凄まじい音が響き渡った。
ひっ、と短い悲鳴を上げて身をすくめる。
しかし、予想していた痛みは一向に訪れない。それどころか、先ほどまでの冷たく張り詰めた空気が、なぜか急速にどこかへ霧散してしまったような気がする。
恐る恐る、きつく閉じていた瞼を薄く開いた。
そして、私は自分の目を疑った。
私の足元、数歩先の床。
そこに、先ほどまで玉座で冷酷なオーラを放っていた帝国最高の権力者、皇帝アウグストゥス様がいた。
……床に額をこすりつけるようにして、両手両膝をつく、いわゆる『土下座』の体勢で。
「え……!?」
間抜けな声が私の口から漏れた。幻覚だろうか。恐怖のあまり、私の脳がついに狂ってしまったのだろうか。
しかし、土下座をしている黒髪の男は、ワナワナと肩を震わせながら、悲痛な声で叫び始めたのだ。
「すまなかったぁぁぁっ!! リウィア!! 本当に、本当に申し訳ないっ!!」
「……は、はい?」
「怖かっただろう!? あんな、脅迫状みたいな勅書をいきなり送りつけられて! 処刑されると思ったか!? それとも慰み者にされると思ったか!? 違う、違うんだ!! 断じて違う!! 君のその怯えた顔を見るだけで、私の心臓は千々に引き裂かれそうだ!! ああっ、俺という奴は、なんて愚かな男なんだ……!!」
床に額を擦り付けたまま、皇帝陛下が号泣している。
先ほどの地を這うような低音ボイスはどこへやら、今の彼はまるで、母親に叱られた子供のように声を裏返して泣きじゃくっている。
私は混乱の極みに達していた。
えっ? 待って。冷酷無比な氷の暴君は? 逆らう者を容赦なく切り捨てる皇帝陛下は? 串刺し皇の異名は?
「あ、あの……陛下? いったい、何を……」
「陛下などと呼ばないでくれ! アウグストゥスと、いや、幼い頃のようにアウグと呼んでほしい! ……ああ、でも今の私にはそんな資格はない! 君をこんなにも怯えさせてしまったのだから! カシアスの奴が『もっと穏便な手順を踏むべきです』と五時間も説教してきたのを無視して、『今すぐでなければ彼女が誰かのものになってしまう!』と無理やり勅書を出した私の浅はかさを、どうか、どうか許してくれ……!」
顔を上げたアウグストゥス様の美しい顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。氷のように冷たかった青玉の瞳は、今は捨てられた子犬のように潤み、情けないほどに私を見上げている。
「……誰かのものに?」
「そうだ! 君の父親が抱えた借金のせいで、あの好色な豚男(※隣領の伯爵のことらしい)が君を愛人にしようと借金の肩代わりを申し出たという報告を聞いたのだ! その瞬間、私の頭は真っ白になった! 帝国の軍隊を総動員してあの豚をミンチにしてやろうかと思ったが、それでは君を怯えさせてしまう(※十分に怯えている)。だから、皇帝の絶対権力をもって、誰にも文句を言わせず君を私の庇護下に置く手段を取ったのだ……!」
つまり、あの無理難題のような勅書は、私を借金取りや好色爺から救うための、彼なりの緊急措置だったということだろうか。
「だ、だったら、なぜあんな脅すような文面で……『拒否権はない』だなんて」
「それは……っ!」
アウグストゥス様はビクッと体を震わせ、耳まで真っ赤にして顔を覆った。
「そ、それは……普通に求婚して、もし君に『嫌です』と拒絶されたら……私はその場でショック死してしまうと、思ったからで……。権力で縛り付けでもしないと、こんな血塗られた皇帝のもとに、太陽のように愛らしい君が来てくれるはずがないと……ウッ、ヒグッ、あああ、すまない! 卑怯な男ですまない、リウィア!!」
再び床に突っ伏して泣き始める帝国最高の権力者。
私は、処刑の恐怖から解放された安堵よりも、目の前の現実を処理しきれない疲労感に襲われていた。力が抜け、床にへたり込む私。
……どうやら私は、殺されるわけでも、弄ばれるわけでもないらしい。
しかし。
ズリズリと床を這って近づいてきたアウグストゥス様が、私の手を、まるで女神の衣でも扱うかのように震える手でそっと握りしめ、熱っぽい、ひどく執着に満ちた瞳で見上げてきたとき、私は別の意味で背筋が凍るのを感じた。
「十年前の建国祭の夜、迷子になって泣いていた私に、君がハンカチを貸してくれて微笑みかけてくれたあの日から……。私の心臓は、血肉は、魂のすべては、君だけのものだ、リウィア。君を守るために力をつけ、皇帝にまで登り詰めた。もう二度と離さない。私の愛のすべてを君に捧げよう。君が望むなら星さえも撃ち落としてみせる。だから、一生、私のそばで笑っていてくれ……!」
重い、重すぎる。
愛の質量が、物理的な重さを持って私にのしかかってくるようだ。
権力にものを言わせて力ずくで奪われる恐怖は去った。しかし、新たに直面した問題は――この皇帝陛下の愛が、私の許容量をはるかに超えるほどに「重すぎる」ということだった。
「……あの、とりあえず、一緒に床から立ち上がりませんか? 陛下」
「嫌だ! 君が私を『アウグ』と呼んで、この頭を撫でて許してくれるまで絶対に、テコでも動かん!!」
「……」
私は玉座の間の巨大な扉の向こうにいるであろう、苦労人カシアス様の顔を思い浮かべながら、小さく、誰にも聞こえないため息をついたのだった。




