第二十話:大陸中へ広がる食堂の噂
お日様が東の空からゆっくりと顔を出し、辺境の町フロンティアの大通りが少しずつ明るくなり始めた頃。
私の買い取った古い建物を改修して作った『食堂 しゃーろっと』の厨房には、ほかほかとしたお米の甘い匂いと、香ばしい磯の匂いがたっぷりと満ちていた。
昨日のお昼に大規模な商隊の長から大量の注文を受けてから、私はコテツちゃんと一緒に夜遅くまで作業を続けていた。
厨房にある巨大な土鍋をいくつも使い、お水を何度も入れ替えて大量の白いお米を研いだ。そして、コテツちゃんが夜中ずっと火の面倒を見てくれたおかげで、お水加減も火加減も最高の状態で、ふっくらとしたご飯を次々と炊き上げることができた。
炊き上がった温かいご飯を大きなお椀に移し、粗塩を少しだけ手につけて、一つ一つ丁寧に三角形に握っていく。
中に入れるのは、商隊の人たちが旅の途中でしっかりと元気を出せるように、生姜とお醤油で味付けしたお肉だ。
そして、建物の裏手にある空き地で天日干しにした黒い海藻を、かまどの弱い火でサッと炙る。
パリッ、チリチリという小さな音が鳴るたびに、海苔の香ばしい匂いが立ち上った。それを白いおにぎりの周りにぐるりと巻きつけると、お米の湯気を受けて海苔が少しだけしんなりとして、とても美味しそうな海苔巻きおにぎりが完成する。
私はその作業を夜通し繰り返し、広い作業台の上には、きれいな三角形の海苔巻きおにぎりが山のように積み上げられていた。
それらを、市場で買っておいた通気性の良い大きな木の箱に、崩れないようにきれいに並べて詰めていく。
「ふう……なんとか間に合ったわね」
私は額の汗を白いエプロンで拭い、大きく息を吐き出した。
徹夜での作業だったけれど、疲労感よりも、これほどたくさんの和食を作り上げたという大きな達成感の方が強かった。
かまどの前では、コテツちゃんが静かに立って私を見守ってくれている。土と岩でできた大柄な彼は、夜遅くまで火の管理をしてくれたにもかかわらず、全く疲れた様子を見せない。
私の足元では、真っ白でふかふかの毛並みを持つハクが、大きく伸びをしてから「わふぁ」と小さな声で欠伸をした。彼はずっと厨房の隅で寝転がりながら、私が作業をする様子を見守り、時々お肉の端っこをもらって嬉しそうに尻尾を振っていた。
ガラガラ、ヒヒーン。
表の通りから、重たい車輪の音と馬の鳴き声が聞こえてきた。
お店の前に大きな荷馬車が止まる気配がする。
「お嬢ちゃん、約束の品はできているか!」
入り口の重い引き戸が開き、とても派手な色合いの服を着た大柄な男性が入ってきた。昨日おにぎりを大量に注文してくれた、商隊の長だった。
彼は朝早くからの出発に向けて、とても活気のある顔をしている。
「はい、商隊の皆さんの分、すべて用意できましたよ」
私が厨房から答えると、商隊の長は作業台の上に並べられた木の箱を見て、目を大きく開いた。
「おおっ! これがあの黒い紙で巻いた飯だな! 一晩でこれほどの数を作ってくれるとは、本当に大した腕前だ!」
彼は木の箱の蓋を少しだけ開け、中に入っている海苔巻きおにぎりの匂いを深く吸い込んだ。
磯の香りと、お米の甘い匂いが合わさった素晴らしい匂いに、彼の顔が嬉しさで綻んだ。
「冷めても美味しく食べられるように、お塩の量を少しだけ多めにしてあります。お肉も中に入っているので、旅の途中で食べればしっかりと元気が出ますよ」
私が説明すると、商隊の長は我慢できないというように、箱の中からおにぎりを一つ手に取った。
そして、大きなお口を開けてガブリと端っこを噛みちぎる。
パリッ。
海苔がちぎれる小気味良い音が、静かな朝の土間に広がった。
彼はモグモグと口を動かし、ゆっくりと味わってから、とても大きな声を出した。
「……うまい! 一晩経って冷めているはずなのに、白い穀物は硬くなっていないし、この黒い紙の匂いが最高に食欲を刺激する。中に入っている肉のしょっぱさも絶妙だ。これがあれば、過酷な長旅でも大丈夫だろう!」
彼は興奮した様子で、あっという間にそのおにぎりを一つ平らげてしまった。
「コテツちゃん、この箱を外の荷馬車まで運んであげてね」
私が声をかけると、コテツちゃんは無言で大きく頷き、作業台の上にある木の箱を一度にいくつも抱え上げた。
大人が二人で持ち上げるような重たい箱を、彼は軽々と持って、外の荷馬車へと運んでいく。
その見事な働きぶりに、商隊の長や外で待っていた商人たちも感心したように声を上げていた。
「お嬢ちゃん、本当にありがとう。この恩は必ず返すぞ」
商隊の長は、改めて私に向かって深く頭を下げた。
「これほど奇跡のように美味い料理だ。私たちが立ち寄る大陸中の都市で、このお店の噂をうんと広めてやろう。いずれ私たちが向かう遠くの王都にも、このフロンティアにあるすばらしい食堂の名を必ず届けてみせるからな!」
彼は力強く宣言し、大きな手で私の頭をポンポンと優しく叩いた。
「気をつけて、良い旅をしてくださいね!」
私がお店の外に出て大きく手を振ると、商隊の長は荷馬車に乗り込み、大きな声で出発の合図を出した。
重たい車輪の音が鳴り、何台も連なった巨大な荷馬車が、朝の光に照らされた大通りをゆっくりと進んでいく。
私は彼らの姿が見えなくなるまで、ハクとコテツちゃんと一緒にお店の前で見送っていた。
◇
それから、さらに数週間の時間が経過した。
お日様が高く昇るお昼の営業時間は、私の食堂にとって一日の中で最も忙しく、活気にあふれる時間である。
「いらっしゃいませ! 空いているお席へどうぞ!」
私が大きな声で案内すると、お店の入り口から次々とお客さんが入ってきた。
冒険者ギルドのガンツさんたちや町の人たちはもちろんのこと、最近はお店の外に、見慣れない服装をした人たちの姿がとても多くなっている。
大陸中を巡る商人や、遠方からやってきた旅人の人たちだ。
「ここが噂の食堂か。本当にあんな大商隊の長が絶賛するほどの飯が出るのか?」
「並んででも食う価値があるって話だぜ。なんでも、黒い紙で巻いた飯と、赤い魚の料理が絶品らしい」
客席に座った彼らは、期待に満ちていた。
商隊の口コミ効果は、私の想像をはるかに超えるものだった。彼らが立ち寄った先の都市や町で私のお店のおにぎりの話をしてくれたおかげで、様々な土地から噂を聞きつけた人たちが、連日のようにフロンティアの町へ足を運ぶようになっているのだ。
私は厨房の作業台の前に立ち、忙しく手を動かし続けていた。
巨大な土鍋の中では、ふっくらとした白いご飯が炊き上がり、甘い匂いを立てている。
その隣の厚い土のお鍋では、赤いお魚がお醤油とすりおろした生姜、甘い果物の汁の中でコトコトと煮込まれている。お魚の脂が甘辛いタレの中に溶け出し、表面がツヤツヤと光って、厨房の中は香ばしい匂いでいっぱいだ。
そして、別のお鍋では、お肉の骨から取った出汁と自家製のお味噌を合わせた温かいスープの中で、鮮やかな緑色のワカメがたっぷりと泳いでいる。
「コテツちゃん、三番のテーブルと四番のテーブルに配膳をお願いね」
私が木のお皿にお魚の煮付けと海苔巻きおにぎりを乗せ、お椀にワカメのお味噌汁をよそうと、コテツちゃんはすぐにお盆を受け取った。
両手に一つずつ、そして平らな頭の上にもう一つお盆を乗せ、汁を一滴もこぼさずに客席へとお食事を運んでいく。
初めて彼を見る旅人たちは、大きなゴーレムが繊細な配膳をする様子に驚いて大きな声を上げていた。
「わふっ! わんっ!」
入り口のそばでは、ハクが大きな尻尾を左右に振りながら、お客さんたちの間を愛嬌たっぷりに歩き回っている。
旅人たちも、彼のふかふかの毛並みを見ると自然と笑顔になり、お肉の端っこを少しだけ分けてあげていた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。海鮮和食定食です」
初めて私のお店の料理を見る人たちは、一様に同じ反応をする。
おにぎりに巻かれた黒い海苔や、お味噌汁に浮かぶ緑色のワカメを見て、得体の知れないものを見るような顔をするのだ。
けれども、ガンツさんたち常連のお客さんが「騙されたと思って食ってみろ」と声をかけると、彼らは恐る恐るお椀を持ち上げる。
そして、一口飲んだ瞬間に、動きがピタリと止まるのだ。
「なんだこのスープは……! ただの塩味じゃない、とんでもなく奥深い味がする!」
「この緑色の草、ツルッとしていてすごく美味いぞ!」
お味噌の深い香りと、ワカメの海の風味に圧倒され、彼らは次々とお魚の煮付けやおにぎりへと手を伸ばす。
「この魚のタレ、最高だ! しょっぱさと甘さが一つになって、魚の脂とものすごく合っている!」
「この黒い紙みたいなやつ、良い磯の匂いがする! 白い穀物の甘みをものすごく引き出しているぞ!」
疑いの顔はすぐに驚きと喜びに変わり、みんなが満面の笑みでお食事を口に運び、勢いよく容器を空にしていく。
お昼の営業のピークが過ぎ、巨大な土鍋のご飯も残り少なくなってきた頃。
お店の入り口に、目立たないくすんだ色の服を着た一人の男性が現れた。
彼は長旅用の大きな鞄を背負い、少しだけ疲れたような顔をしている。
「キースさん! いらっしゃいませ!」
私が厨房から大きな声で挨拶をすると、仕入れ屋のキースさんは肩をすくめながら店内を見回した。
彼はしばらくフロンティアの町を空けて、別の困難な依頼をこなすために遠くへ行っていたのだ。
「少し町を離れている間に、とんでもないことになっているな。大通りの外まで行列ができているのを見て、最初は自分の目を疑ったぜ」
キースさんは、ちょうど空いたばかりの席に腰を下ろした。
「色々な土地から、噂を聞いてお客さんが来てくれるようになったんです。キースさんもお腹が空いているなら、食べていきますか? 今日は海の幸を使った海鮮和食定食ですよ」
私が提案すると、キースさんは少しだけ目を見開いた後、口の端を上げて笑った。
「海の幸だと? 内陸のこの辺境の町で、そんなものを出すとはな。いいだろう、俺が命がけで探したあの白い穀物と茶色い豆が、どんな料理に合わさっているのか、じっくりと味わわせてもらうぜ」
私はすぐに新しいお盆を用意した。
ふっくらとした白いご飯に、火で炙ったばかりのパリッとした海苔を巻いたおにぎり。
お肉の出汁と自家製のお味噌に、つるんとしたワカメをたっぷり入れたお味噌汁。
そして、赤いお魚をお醤油で甘辛く煮付けたもの。
コテツちゃんがお盆を運び、キースさんの目の前に置いた。
「さあ、どうぞ」
私が言うと、キースさんは腕を組んで、お盆の上の料理を観察するような鋭い目で見つめた。
「ほう……この黒い紙みたいなものと、スープに浮いている緑色のものはなんだ。この前に、俺が頼まれた食材じゃないな」
「市場のお魚屋さんで手に入れた海藻です。海の植物を干したり戻したりして作っているんですよ」
私が説明すると、キースさんは「なるほどな」と小さく呟き、木製のフォークを手に取った。
まずは赤いお魚の煮付けの身を少しだけ崩し、お醤油のタレを絡めて口の中へ入れる。
彼のような一流の職人は、食事の時も無駄な動作をしない。
ゆっくりと数回噛み、味わいを確認してから、静かに息を吐き出した。
「……驚いたな。このタレの味、お嬢さんが魔法のように作ると言っていた調味料か。塩味だけの魚とは、全く次元が違う。魚の脂の旨味を、この味が極限まで引き上げている。文句のつけようがないすばらしい味だ」
キースさんは静かな声で絶賛し、次にお椀を持ち上げてワカメのお味噌汁を飲んだ。
「このスープもいい。あの茶色い豆が、こんなに深い香りの汁に変わるとは。長旅の疲労が一気に抜けていくようだ」
そして、最後に海苔巻きおにぎりを手に持ち、端っこを噛みちぎった。
パリッ。
良い音が鳴り、キースさんは大きく頷いた。
「この黒い海藻、良い磯の匂いがするな。俺が苦労して探してきた白い穀物は、こうして食べると本当に美味い。甘みがあって、柔らかくて、この海藻の香ばしさと最高に合っている。これなら、大陸中の商人が目の色を変えて買い求めるのも当然だ」
キースさんは満足そうにおにぎりとお魚を食べ進め、あっという間にお盆の上の料理をきれいに平らげてしまった。
木のお茶碗をテーブルに置いた後、彼は少しだけ真剣な顔になり、声の調子を落として私に話し始めた。
「お嬢ちゃん、一つ教えておいてやることがある」
彼が急に改まった態度になったので、私は作業台を拭く手を止めて彼の方を見た。
「俺は今回、依頼のためにかなり遠くの都市まで足を伸ばしてきたんだが……その道中、どこへ行ってもこの食堂の噂で持ちきりだった」
キースさんは腕を組み、私の顔を真っ直ぐに見つめた。
「商隊の連中が、立ち寄る先々で『フロンティアに奇跡のように美味い飯を出す店がある』と言いふらしているおかげでな。その噂は、今や大陸中どころか、遠く離れた王都の貴族たちの耳にまでしっかりと届いているぜ」
王都。
その言葉を聞いて、私は少しだけ胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「王都の連中も、辺境の町にある見たこともない食材を使った飯の話に、かなり興味を持っているらしい。暇を持て余している貴族なんかは、わざわざ使いを出してその真偽を確かめようとしているって噂だ」
王都のエヴァンス伯爵邸には、私を理不尽な理由で家から追い出した家族と、元婚約者のユリウスがいる。
彼らが、私がこの辺境の町で食堂を開いて大繁盛していると知ったら、一体どう思うだろうか。
土属性魔法を泥遊びだと馬鹿にし、台所に入ることも許さなかった彼らが、私の料理の噂を聞きつける。
でも、すぐにその冷たい気持ちを頭から追い出した。
彼らがどう思おうと、私にはもう全く関係のないことだ。
私には今、このすばらしい厨房がある。私の作ったお料理を美味しいと言って、笑顔で食べてくれるお客さんたちがたくさんいる。
ハクがいて、コテツちゃんがいる。このフロンティアの町こそが、私の本当の居場所なのだ。
「王都の人たちがどう言おうと、私にはこの厨房での生活が一番大切ですから。これからも、毎日美味しいご飯を作り続けるだけですよ」
私が真っ直ぐな声で答えると、キースさんは少しだけ驚いたような顔をした後、面白そうに口の端を上げて笑った。
「はっ、お嬢ちゃんらしいな。どんなに名声が広がっても、自分のやるべきことを見失わない。そういうところ、俺は嫌いじゃないぜ」
キースさんは立ち上がり、食事の代金をテーブルに置いてから、軽く手を挙げてお店を出ていった。




