98話 桃色盤外戦術 サキュエラ
「うふふ……もう、ほとんど終わりですね」
中堅が、力なく地面に膝をつく。
しばらくして、慌ただしく戻ってきた審判が、疲れ切った声で告げた。
「……公式回答が来ました。"現行規定に明文化された禁止条項がない以上、当該行為を反則と認定することはできない"、とのことです」
「――ほらね。」
「――しょ、勝者、アーカム魔術学院!」
エルディアが、にっこりと笑った。
その一言と同時に、中堅の相手が、力なく崩れ落ちた。
その声が響いた瞬間、競技場全体が、深いため息にも似た、なんとも言えない空気に包まれた。
観客の誰もが、勝敗の結果よりも、「ルールブックに書いてないから許される」という理屈そのものに、言葉を失っていた。
「なんだったんだ、今の試合……」
「魅了って、そういう意味の反則じゃないの……?」
観客のざわめきが、いつまでも収まらなかった。
アーカム魔術学院の控え席では、ディオンが両手で顔を覆っていた。
◆
リリ・ヴァルフェリア。
魔の深淵に座す、数多の魔族を統べる者。
その名を口にすることさえ、格下の魔族には躊躇われるほどの存在。
サキュエラは、その眷属の中でも上位に位置する者の一体だった。
魅了と精神干渉における能力は、同族の中でも群を抜いており、かつては小規模な縄張りを一任され、配下を率いる立場にあった。
だが、ある日。
何の前触れもなく、リリ・ヴァルフェリアからの「下賜」の沙汰が下った。
「さっちゃん。人間の器に献上するから。」
理由は、告げられなかった。
魔族にとって、上位者の決定に理由を問うことは許されない。
サキュエラは、己の誇りもこれまで積み上げてきた地位も全て置いたまま、人間の少女――エルディアの元へと送られた。
初めて対面した時のことを、サキュエラは今でも鮮明に覚えている。
エルディアは、サキュエラを一目見るなりこう言った。
「んー……ちょっと、倫理的にアウトだって。ごめん。畑送りで。」
「な……?」
「ごめんね、さっちゃん。うちの経済産業大臣カトレアの許可が降りなくてさ。
君は規格外すぎる。訪れたファミリーをぶち壊してしまうんだ。
というかよくよく考えたら、すでに視覚的にも、もう、こう、色々規制に引っかかりそうっていうか。」
「わ、私は、リリ様より、直々に献上された身……」
「わりっけ。」
そうしてサキュエラは、その日のうちに災厄モンスター、リッチの元へと預けられ、畑仕事に従事することとなった。
来る日も来る日も、土を耕し、種を蒔き、烏を追い払い、水をやる。
かつて配下を率いていた魔族の指先が、今は、ただ、土にまみれていた。
「……私はいったい、何のためにここにいるのだろう。
帰りたい……。迷い込んだものを出口のない道に惑わせるサキュバスとしての本懐に……」
耕された畑を見つめながら、サキュエラは幾度となくそう自問した。
リリ・ヴァルフェリアに見限られたのか。
それとも、これもまた、何らかの試練なのか。
答えは、誰も、教えてくれなかった。
ただ静かに、畑仕事の毎日だけが過ぎていった。
そして、時は流れ――
「さっちゃん。役目ができたよ。
未来ある若者をたぶらかしてほしい。」
それは悪魔の誘いであると同時に、長く続いた名もなき日々の終わりでもあった。
◆
しばらく葛藤するような沈黙の後、審判は諦めたようにそれを振り下ろされる。
なぜなら沈黙、それ自体がサキュバスの肉体を視界に収める時間が増える事を意味している。
「副将戦開始」
その声と同時に、サキュエラによる桃色の魔術陣が展開。
淡く、甘やかな光。まるで夕暮れの残照のような、儚くも蠱惑的な輝き。
サキュバスはやはり服を脱ぎはじめ、競技場は困惑に包まれた。
「……く、くるな」
「うふふ……力を抜いてくださいまし……」
「な、なんで……!?」
サキュバスが、さらに一歩、間合いを詰める。
北方魔術学院の理性は、はっきりと警鐘を鳴らしていた。目を逸らせ。距離を取れ。今すぐ、術式を編め。
分かっている。分かっているのに。
足が、動かない。
いや、正確には――動いてはいた。
ただ、意志とはまったく逆の方向へ。
自分の身体が、まるで別の何かに操られているかのように、ゆっくりと、彼女の方へと引き寄せられていく。
観客席が静まり返っていた。
実況も、言葉を失う。幾度目だろうか。
「こ……これは……」
「精神抵抗をやすやす突破されているな……。
あの桃色の魔術陣の効果か?ここまで一方的な魅了は……私も初めて見る……
うらやま……いや、なんと恐ろしい。」
「ぐわあああああ!!!」
それは抗えない自分自身への悲鳴だった。
「おいしそう……じゅるじゅる」
「食べてもいいけど、夜とかにしてね。コンプラにひっかかるから。」
「はあい。」
理性は最後まで抵抗しているのに体は言うことを聞かない
まさに精神と肉体の乖離。
(まあ、耐えるのは無理でしょ。さすがに、)
北方要塞学院の選手たちに施してある『悪だくみ』は、単純な身体強化に留まらない。
闘争本能の強制的な昂進。痛みを感じさせない、精神への直接的な干渉。
恐怖を麻痺させ、痛みを置き去りにして、本能で殴り合う獣へと作り変える術式。
だからこそ、それを刻まれた者は、ライゼルトの雷撃すら意に介さず、ディオンの読みすら通用しない、異様な粘りを見せる。
だが、その術式はあくまで"闘争"という一点にのみ、極端に特化していた。
思春期真っ只中の、青年の内に抗いようもなく渦巻くリビドーまでは、当然、想定されていない。
闘争本能で塗り替えられた精神の、その隙間に、するりと入り込むサキュバスの甘い誘惑。
痛みや恐怖を感じない体は、同時に、その手の"快楽"に対して、あまりに無防備だ。
だって痛みも恐怖も感じないんだから。
エルディアが、この作戦に踏み切る前、唯一危惧していた点は、たった一つだった。
――相手が、女子だったら意味なかったんだけどね。
その場合、この戦術は、恐らく何の意味も成さなかった。
つまり、北方要塞学院は、実力でも、対策でもなく――ただの"運"に敗れた。
それに、この刻印……ただ力を与える刻印じゃない。
通常の刻印なら、術者の感情が乱れれば、魔力供給も同じように乱れるはずだ。恐怖、混乱、動揺――それらは魔力の"ノイズ"として現れる。
けれど、目の前の刻印は、違った。
副将の表情には、魅了に対する明らかな動揺が浮かんでいる。
精神干渉にあてられ、頬を赤らめ、足元さえおぼつかない。
なのに――刻印から流れる魔力だけは、一切乱れない。
まっすぐに。淀みなく、まるでそこだけ本人の感情から切り離された、別の回路であるかのように魔力を生み出し続けている。
(精神と痛みと魔力、三つを同時に外部制御できる刻印なんて、聞いたことない。
理論上は不可能なはず。たけど、あそこで実際に動いてる)
つまり『誰か』が、不可能を可能にする術式を、もう組んでるってこと。
それ、盗めたら――ううん、"解析"できたら手持ちの刻印術式が、丸ごと一世代進む。
まあ、その『誰か』とはベルクだろうが。
やがて副将は屈した。
次は大将戦。
北方要塞学院。紅一点。
グレイス・ヴォルフハルト




