97話 桃色盤外戦術
サキュバスのさっちゃんは、優雅に一礼すると、その優雅な仕草で、纏っていた外套の留め具に指をかけた。
するすると黒いローブを脱いでいく。
「――は?」
「ちょっと、ここ暑くて。」
「──なぜ暑いからといって、服を脱ぐ!?!?」
北方要塞学院の生徒が、初めて明確な動揺を見せた。
観客席もざわめく。
「え、ちょ、待って何して」
「お、おい、審判! 止めろ止めろ!!」
実況席も、完全に沈黙していた。マイクを握ったまま、誰も言葉を発せない。
サキュバスは、外套を肩から滑り落としながら、審判へのコミュニケーションををはじめた。
心なしか、うるうると瞳を潤んでいる。
「……お兄さん、お仕事、お疲れ様です。
こんな大きな大会の審判なんて、責任重大ですよね。
毎日、大変でしょう。誰にも、労われずに。」
「は?
な、なんの話だ……」
「わかりますよ。私も、昔は誰かに必要とされてたんです。
私、こう見えて、長く生きてるんです。
何百年も群れを率いて、縄張りを守って、誰かに頼られる立場でした。
でも今は、こうして……体を、使うことでしか、価値を認めてもらえない。
お兄さんも、そうじゃないですか?
ルールを守らせる側なのに、誰も、お兄さんの本当の気持ちなんて、見てくれない。」
「い、いや、俺は普通に仕事を……」
「わかります。わかりますよ、その孤独。
私にだけは、話してくれていいんですよ?
だって、守れると思ってた仲間も、居場所も、一晩で消えてしまう。だったら火傷してもしょうがないのかなって。」
「ま、待て!!なんの話だ!?
勝手に話を進めるな!!」
「それから私、気づいたんです。
腕力でも、地位でもなく、誰かに必要とされることが大事なんだって。
私。お兄さんに必要とされたい……」
観客席から、ざわめきとも失笑ともつかない声が漏れ始めた。
「な、なにあれ……」
「審判をバチクソ口説いているみたいになってない?」
「とゆーか設定が……重すぎるだろ……」
実況席でも、困惑の声が上がる。
「え、えー……戦況が、全く動いていません。
サキュバス選手、なぜか審判に重めの身の上話をし始めました……
あ、資料が届きましたね……
サキュバスの魅了は、恋愛感情を植え付けるものではなく……対象の、思考への"抵抗力"そのものを、低下させる効果、だそうです……」
そのやり取りの裏で、さっちゃんは、するりと外套を完全に脱ぎ捨てた。
淡い光を纏う肢体が、競技場の照明の下に晒される。
非常に危うい。
北方要塞学院の選手の視線が、完全に、そこに縫い止められた。
「が、はっ……」
その場での存在感が消えてしまったエルディアは、その光景を見ながら、内心で戦慄していた。
(……こいつ。天才か?)
審判を過去の話で懐柔しつつ、その隙に服を脱いで北方要塞学院の選手の目を釘付けにする。心理的な隙と視覚的な追撃を同時に、会場の視線を思考をも奪う。
やってる事は限りなくアホだが、まさかの三方面作戦。
ただ同時に、エルディアは別のことも思っていた。
(どうしよう。予想以上にエロい。非常に、出した事を後悔している……)
そして魅了により判断力を鈍らせ、とうとう膝を折りかけた北方要塞の選手を前に、エルディアが静かに呟いた。
「……勝負、あったかな」
審判が、たまらず声を張り上げる。
「ま、待て! 待て待て待て!!
た、対戦相手が明らかに動揺している!!これは戦術的にどうなんだ!!」
「ん?正当な魅了魔術だけど。
精神魔術はルール上、禁止されてないよね?」
エルディアが、涼しい顔で答える。
審判が、震える手で規定集をめくる。
「い、いや、確かに、精神干渉系の術式に関する明確な禁止条項は……ないが……」
「でしょ。」
「ま、待て、これは、卑怯……」
「卑怯とは失礼な。れっきとした戦術だよ」
「これは、学生の大会だぞ!未成年も観戦している公的な競技場で、そんな……そんな、公序良俗に反する真似が、許されるはずが――」
「公序良俗?
そんな条項、規定のどこにあるの。」
「じょ、条文でなくても、常識として――」
「常識は、ルールブックに書いてないよね。
大会規定、第一条から最終条まで、全部読んだけど。"公序良俗に反する行為の禁止"なんて条文、一つもなかったよ。
確認してよ。」
「そ、そんなはずは……」
審判が、慌てて自分の手元の規定集をめくり始める。だが、めくってもめくっても、該当する条文は見当たらなかった。
「な、なぜ、こんな重要な条項が……」
「多分、"当たり前すぎて誰も書かなかった"んだと思うよ。
でも、書いてないなら、それはルール上、禁止されてないってことでしょ。」
「い、いや、それは、屁理屈というものでは」
「屁理屈じゃなくて、これが"ルールを守る"ってことだよ。書いてあることは守る。書いてないことは、自由。それだけ。お兄さんはこれを咎められない。なぜならル―ルにないから。
それにお兄さんはルールに基づいて勝敗を下す。
それ以外は出来ない。なぜならルールにないから。
第十二条の三も読んだ?
"選手は、対戦相手の戦闘能力を低下させるいかなる正当な手段も、これを妨げられない"。」
「い、いや、それは、そういう意味では――」
「じゃあどういう意味? お兄さんの解釈、聞かせてよ。
条文の文言、ちゃんと説明できる?
できないなら、それはお兄さんの"感想"であって、"ルール"じゃないよね。」
審判の手が、わなわなと震え始めた。
やがて、審判は、絞り出すように呟いた。
「……上に、確認します。」
そう言い残し、逃げるように控え室の方へと駆けていった。
会場の観客は、思った。
(逃げた)
(逃げたな)
(完全に、逃げた)
エルディアは、審判が去っていった方向を、満足げに眺めた。
「よし。時間稼ぎ成功。
そうだ。さっちゃん、審判どっか行ってる間に、セクシーポーズで、相手の子の精神をついでに終わらせておいて。」
「かしこまりました。
ご主人様の、仰せのままに♡」
さっちゃんは、すでに構えに入っていた。
片手を髪に、もう片手を頬に添える、完成された仕草。
北方要塞学院の中堅選手は、その仕草を正面から浴びた瞬間、糸が切れたように膝をつく。
エルディアは、崩れ落ちた相手を見下ろしながら、少し遠い目をした。
ちょれえ……
控え席では、リリアが、担架の上から、力なく笑っていた。
「……あはは。エルディア、完全に吹っ切れてるね……」
「リリア、笑い事じゃないです……アーカムの品格が、今問われているんです!!
今すぐあの間違ったクソガキを引き摺り下ろして謝りましょう!!」
「うーん、勝ってるから正しいは正しいんだけど……
なんていうか、勝ち方が、もう、学院の品位とか、そういうレベルの話じゃなくなってきてるよね……
非常にお下品……」
ディオンは、額を押さえたまま、深く長いため息をついていた。
「……あいつ、色仕掛けからのルール論破からの、審判逃亡からの、追撃。
一体、何個の攻め手を同時に回してるんだ。
しかも全部、規定違反にならないように、綺麗に計算ずくだぞ」
ディオンが、そう突っ込みながらも、視線はずっと、控え席から一歩も動かないエルディアの背中に向けられていた。
(……あいつ。何か、別のことを、やってるな。)
エルディアは、指先を、そっと地面に触れさせた。
「――シェイド。行ってきて」
ぷるぷるぷるぷる
囁くような音と共に、彼女自身の影が、僅かに揺らいだ。
輪郭のない、黒い染み。それは彼女の足元から静かに滑り出すと、競技場の喧騒――サキュバスに翻弄される中堅、抗議する審判、どよめく観客――その全ての「注目」から完全に外れた形で、地を這うように移動していく。
(相手方の胸にある刻印……初めて見る。強化刻印の型じゃない。
この私が知らないなんて……)
エルディアに、シェイドから情報が送られてくる。
(あ、当たり。
なるほど。これがベルクの『悪巧み』の正体か。)
危険で、悍ましい。
人道的にも、間違いなく踏み越えてはいけない一線を越えている。
それは分かっている。分かった上で。
(――喉から手が出るほど、欲しいな、この術式)
「エルディア様……? 何を、笑って……」
さっちゃんが、恐る恐る尋ねる。
「んー? ああ、ごめん。ごめん。」
意味がわかってしまえば、普通ならここで嫌悪感の一つも覚えるところだった。
けれどエルディアの中に湧き上がったのは、嫌悪よりも、もっと純粋な――技術者としての昂揚だった。
喧騒の裏で、静かに、一つの禁忌の設計図がエルディアの手の中に、形を成し始めていた。




