93話 準決勝 北方魔術学院
──北方要塞学院。
迷宮 第五区画にて(回想)
王国の記録上、いまだ正式な地図が存在しない領域。
境界線を越えた瞬間、空気が変わった。
空気が、粘度を持ったかのように重くなる。
「これは……」
先頭を歩いていた者が、足を止めた。
「気にするな。地図に載ってないってだけの話だ。行くぞ」
「――っ、灯りを!!誰か灯りを出せ!!」
「な、なんだ、あれは……」
「て、撤退! 撤退だ!! 誰も戦うな、走れ!!!」
あれは、罠だったのかもしれない。
湿った鉄と土の腐敗にも似た匂い。
足元に広がっていたのは、無数の魔物の亡骸と共食い。
気づけば、誰もが無我夢中で逃げていた。どちらへ、どれほど、どうやって逃げたのか――正確に語れる者は、一人としていない。
そして今も、あの渦の匂いだけが、時折、鼻の奥に蘇る。
逃げた先で誰かが吐いた。
戦って勝てる、負ける、という次元の話ではない。
踏み込んではいけない場所に、片足を確かに突っ込んでしまった。
その感覚だけが、はっきりと残った。
──控え室 ― 迷宮戦が終わり
決勝トーナメント直前。北方要塞学院。
重い沈黙が、控え室を支配していた。
「アーカム学院のエルディアという少女は、ある目的のために、魔の森の支配を狙っている。」
「……それが、俺たちと何の関係がある。
そもそも魔の森を支配できるとは思えないが。」
「俺も、同じものを狙っているからな。
奴とは目的が、真っ向からかぶっている、というわけだ。
お前たちに力を貸す。それを使って、アーカムを確実に仕留めろ。
だがそれは俺の目的だ。お前らはトーナメントをただ優勝すればいい。」
「……意味がわからないな。
なぜそんな回りくどい真似をする。」
「それこそ野暮というものだろう。
これでも貴族連合の魔術研究の立場があるものだ。肩入れする勢力ぐらい選ぶ。
それに貴族が特定の人物を排除したいというのは、世の常だろう。」
沈黙が落ちる。
誰かが、震える声で聞いた。
「……断ったら、どうなる」
ベルクは、笑みを深めた。
「何も、しない。
お前たちは、今のままの実力で、決勝トーナメントに挑む。それだけだ。
だが迷宮でのトラウマを抱えたまま勝てるとは思えないがな……」
「なめるな。」
「ほう。」
控室の空気が張り詰める。
気にせず、ベルクは静かに笑った。
護衛が一歩前へ出る。
たった一歩。
それだけで床石が砕け、壁に亀裂が走る。
「この魔力に見覚えは?」
「……」
「──第五区画。」
「……まさか。」
「想像に任せるよ。
あの時君らは、『彼女』に剣を向けなかった。
理由は?
勝てないと判断したからだ。
つまり君達は、自分達で既に答えを出している。
今さら勇気を出す必要はない。」
誰かが拳を握る。
「勇気とは、勝てるかもしれない相手に向けるものだ。
勝てないと理解した相手へ剣を向けるのは、勇気ではない。
それはただの、自殺だ。」
控室が静まり返る。
ベルクは、その沈黙を肯定するように頷いた。
「安心しろ。
私は、お前達の判断を評価している。
だからこそ、ここへ来た。
合理的な人間ほど、話が早いからな。」
一人、また一人と、静かに頷いていった。
誰も、恐怖に屈したという顔はしていなかった。
ただ、勝つために必要な判断を下しただけだ、という、割り切った表情だった。
あの迷宮の闇は、確かに彼らを蝕んでいた
男、ベルクが貴族魔術連合の後ろ盾ということも後押ししていた。
一人の生徒が、拳を握りしめたまま、静かに立ち上がった。
「……私は、断る」
それが、大将に立つ、グレイスだった。
「負けるぞ。
自分の状態が理解できないわけではあるまい。
周りからの期待もあるのだろう?」
「誰かの力を借りて勝つくらいなら、私は、自分の実力だけで、精一杯戦う。
そしてその結果負けたとしても、それを受け止める。」
ベルクは、その生徒を、興味深そうに見つめた。
「……なるほど。まあ、いい」
視線を、残る四人へと移す。
「だが、お前以外は、賢明な判断をしたようだ。」
沈黙の後、一人、また一人と、力なく頷いていった。
グレイスだけが、その光景を、唇を噛みしめながら見つめていた。
ベルクが、指を一つ、鳴らす。
ベルクの影の中から、四つの小さな黒い結晶が、音もなく浮かび上がる。闇そのものを固めたような、光を吸い込む漆黒。それが、四人の胸元へ、吸い込まれるように沈んでいった。
痛みはなかった。声も、上がらなかった。
ただ、一瞬だけ――四人の瞳の奥に、あの迷宮の渦と同じ色が、映って消えた。
「これで、契約は成った。
案ずるな。今のお前達には、何も感じられまい。
――ただ、あの日の恐怖だけを、忘れているはずだ。
では、健闘を祈る。」
その声を最後に、控え室には、重い沈黙だけが残った。
ベルクは満足げに去っていった。
「……先輩」
「――ああ、悪い」
顔を上げたとき、その目には、いつもの色がなかった。
準決勝が始まる。
アーカム魔術学院 対 北方要塞学院
アーカム先鋒。
リリア・シルヴァ。




