92話 聖フィリア 話の割り込み作業がめんどくさかったので2話目
魔術が使えない今、セラフィナに残されているのは、身一つ。
リシェルもまた、砕けた杖の残骸を投げ捨て、素手で構えを取った。
セラフィナが、地を蹴る。
魔術による加速も、防御の結界もない、ただの脚力。それでも、聖騎士としての基礎鍛錬は、伊達ではない。
技術と技術のぶつかり合い。
才能でも属性でもない、剥き出しの積み重ねの応酬。
「あなたが、こんなに、強かったなんて」
「知らなかったでしょう。ずっと、見てなかったから」
会場の熱狂から少し離れた、貴賓席の一角。
年配の男が、腕を組んだまま、微動だにせず戦況を見つめていた。セラフィナの父――ヴァルディア家当主。
「……魔術を、封じられたか」
低く呟いた声に、隣に控えていた側近が、僅かに身を強張らせる。
「セラフィナ様は、まだ立て直せるかと」
「立て直す、立て直さないの話ではない。あの子は今、魔術を失って、初めて"何もない"状態で戦うことになった。……それを、これまで一度も、経験させてこなかった」
「セラフィナ様が、貴賓席を気にされていたのは……」
「分かっている。私が、見ているからだろうな」
その声に、感情は乗っていなかった。ただ、静かな圧力だけが、そこにあった。
肉弾戦の応酬の最中、リシェルの動きに、わずかな乱れが生じ始めていた。
拘束の力場――杖を犠牲にしてまで編み直したそれが、すでに緩んでいた。
制御を失った状態で無理やり紡いだ術式は、長くは保たない。分かっていたことだ。
「……時間切れよ、リシェル」
静かな声だった。
勝ち誇るでも、憐れむでもないただ事実を告げる声。
「あなたは、よくやったわ。」
――ここで決める。
拘束が完全に解けるその刹那。
リシェルは、懐から最後のそれを取り出した。不格好な組紐の護符。
『セラがいつも、誰も見捨てないから。だから、セラも誰かに見捨てられませんように。』
あの日、渡したものと、同じもの。
「……!?」
セラフィナの目が、見開かれた。自分が今も握りしめているものと、寸分違わぬ護符。
「渡した側も、ちゃんと持ってないと。不公平でしょう。そりゃお揃いにしますよ。」
軽い口調とは裏腹に、リシェルの手は、震えていた。もう、これしか残っていなかった。
「これは、魔力じゃない。祈りでも、ない。ただの――想い出、だから。
こめたのは当時の私の魔力だけど、あなたを仕留めるには十分でしょう!!」
握り潰す。
同じ護符を握りしめていたセラフィナの手のひらにも、対になっていたそれが、呼応するように熱を帯びた。
対の護符に込められていたのは、攻撃でも防御でもない。
ただ、あの日交わした約束。
まさに約束そのもの。
『誰も見捨てない』『見捨てる覚悟を持たない』
その二つの願いが、今、正面からぶつかり合うはずだった。
しかし、セラフィナの側でそれは止まっていた。
セラフィナはそれを握り潰せなかった。
指先が、震えるだけで、それ以上動かない。
――見捨てられなかった。
約束を握りつぶすことなんてできない。
あの日、何も言えずに大好きな友を見送った。
呼び止める言葉を、持たなかった。
ずっと、その後悔を握りしめていた。
だから今、セラフィナの目の前で、リシェルが全てを賭けてこれを差し出している。
これを壊すことは、あの日の自分をもう一度繰り返すことだ。
「私は」
セラフィナの声が、震えていた。
「もう2度と、あなたを見捨てることなんて、できない。」
「セラ。馬鹿ですね。
『これ』ね。たくさん作ったからいっぱいあるのに。」
「は……?」
「試合、終了――!!」
判定は、誰の目にも明らかだった。それでも、誰も歓声を上げなかった。ただ、静かな拍手だけが、波紋のように広がっていく。
リシェルに支えられたまま、セラフィナは薄く目を開けた。
「……ね、ねえリシェル。
どういう事!?」
握り潰さなかったあの一瞬。
勝敗を分けたのは、魔術でも、技術でもなく、あの日の言葉だった。
とはいえ、とはいえ酷い裏切りを見た気がする!!!!
リシェルは、荒い息の合間にいたずらっぽく笑った。
「実はですね。セラ。
あの護符、あなたと別れるのがすごく寂しくて、いっぱい作ったので、スペアがいっぱいありますの。
なんなら作りすぎちゃって。」
セラフィナは、目を見開いた。
「……は?」
「だから、一個くらい、いいかなって思ってまして」
「ちょ、ちょっと待って……」
セラフィナは、脱力したままそれでも小さく笑ってしまった。
「……いえ。それも含めてあなたの強さなのかもね。
いい仲間に、恵まれたのねリシェル。
私はずっと後悔していた。あの場所で私は立ち止まってた。
でもあなたは、その弱さを武器に変えるように歩いていた。」
「クソ生意気な後輩に、影響されたのは……否定できないんですけどね」
「やられた方としては、最悪の気持ちね。
でも、ひどく笑える。」
「私もそう思ってます。
今になって罪悪感がー」
「もう!」
リシェルの声は、もうほとんど掠れていた。それでも最後まで軽口だけは忘れなかった。
会場では、実況が困惑気味に締めくくっていた。
「……試合終了ですが、なにやら、和やかな雰囲気になっておりますね。
ここまでの死闘が、嘘のようです」
◆
治療室の片隅で、セラフィナは包帯だらけの姿でベッドに横たわっていた。半分眠りに落ちかけた意識の中、扉が静かに開く気配がした。
「――大丈夫か」
低い声。目を開けずとも、誰だか分かった。
「……お父様」
「起こしたか」
「いえ。……起きてました、なんとなく」
ヴァルディア家当主は、ベッドの脇の椅子に、静かに腰を下ろした。しばらく、何も言わなかった。
「今日の試合、見ていた」
「……面目次第もありません。魔術を封じられて、あんな泥臭い戦いになって」
「そこだ」
短く、遮るように言った。
「お前が、貴賓席を気にしていたのは……私のせいだろう。ずっと、お前に完璧であることを求めすぎた」
セラフィナは、何も言えなかった。ただ、天井を見つめたまま、静かにその言葉を受け止める。
「今日、お前は初めて、“完璧”を手放して戦った。あの護符を握り潰せなかった、あの瞬間もだ」
「……見て、いらしたんですね」
「見ていた。……正直に言えば、少し、安堵した」
意外な言葉に、セラフィナは目を向けた。父の表情は、いつも通り硬いままだったが、声にはわずかな揺らぎがあった。
「完璧な聖騎士より、誰かを見捨てられなかった娘の方が、私は――」
そこで、言葉を切った。それ以上は、続けなかった。
「休め。今日は、よく戦った」
そう言うと、当主は静かに立ち上がり、部屋を後にした。
一人残されたセラフィナは、天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。
扉の外で、誰かが立ち止まる気配がした。振り返らなくても、誰だか分かった。
「……盗み聞き、悪い趣味だよ。リシェル。」
「聞こえてたなら、しょうがないじゃないですか。」
リシェルが、包帯だらけの姿で、部屋に入ってくる。
「お互い、ボロボロね」
「そっちこそ」
二人は、どちらからともなく、小さく笑い合った。




