87話 辺境自治学院 折れた矜持
ミノタウロス・オメガが突進した。
大質量の塊が、音を置き去りにして迫るその威容に、見た者全員が、同じことを思った。――終わった。
しかしガルドは、動かなかった。
いや、動けなかったのではない。
彼はあえて、最後の刹那まで、待った。
「《獣狩り歩法》」
短く唱えると同時に、体が沈む。半身を捻り、拳の軌道の内側へ――紙一重、そのまた内側へ滑り込む。
拳が頬を掠めた。
ただの掠りではない。風圧だけで、頬の皮が裂け、血が一筋流れる。
そして、拳が地面を叩いた瞬間。
――ズガァァァンッ!!
競技場の地面が、扇状に爆ぜた。土煙が舞い上がり、観客席の最前列にまで礫が届く。
実況が絶叫した。
「避けたァァァ!! 避けましたガルド選手!!今の一撃、直撃していれば、間違いなく戦闘不能でした!!」
解説の声にも、興奮が滲む。
「辺境自治学院伝統の対大型魔物戦術、《獣狩り歩法》だ!
真正面から受けず、最小限の動きで急所と間合いだけを外す実戦魔導戦術!!
北部の魔物討伐で磨き抜かれた、まさに"生きるための技術"!!」
観客席から、地鳴りのような歓声が上がった。
「やれる!」
「見たかガルド!」
「北部の意地、見せてやれ!!」
歓声を背に、ガルドは低い姿勢のまま、既に次の動きに移っていた。土煙の中、彼の目だけが、冷静に敵の重心を捉えている。
四百七十一体。
それは伊達に積み上げてきた数字ではない。恐怖に竦んでいた足は、いつの間にか、戦士のそれに戻っていた。
――一発でも受ければ終わる。だが、当たらなければ、道は繋がる。
土煙が晴れきらぬうちに、ガルドは既に動いていた。
死角。
オメガの巨躯故に生まれる、わずかな視界の穴。北部の魔物討伐で、幾度となく己の命を救ってきた立ち位置。
脚。
腱。
関節。
大型魔物という"質量の暴力"に対して、力で張り合う愚は犯さない。
狙うのは常に、動きの根を支える一点。
「《破獣連牙》っ!!」
斬撃属性を纏った魔力の連撃が、オメガの脚部、腱の位置を正確に叩き続ける。
「入るぅぅ!
入りますガルド選手!!
一撃の重さではなく、精度で削る戦法!これぞまさに、対大型戦のセオリー!!
四百七十一体という討伐数は、伊達じゃない!!」
解説が続く。
「素晴らしい動きだ!!
力比べを避け、急所だけを切り裂く!!
弱点を見極める目!!
そして寸分違わずそこを狙い続ける技術!!
王国騎士団が、彼を欲しがる理由がまさにこれだ!!」
「辺境自治学院が誇る対大型魔物戦術の極致という事ですね!!
まさしく北方で磨き上げられた実戦魔道戦術です!!」
観客席の熱狂が、最高潮に達する。
「行けェェェ!!」
「そのまま押し切れ!!」
そして、最後の一撃。
ガルドは、地を踏み砕くほどの踏み込みと共に、全魔力をその一点へと収束させた。
「《絶断》!!」
ズドォンッ!!
轟音と共に、鋭い魔力による斬撃がオメガの脚部を捉える。
腱が断たれる、乾いた音――ではなく、骨すら軋ませるほどの衝撃が、競技場の空気そのものを震わせ、巨躯が僅かに揺らいだ。
「――っ!」
たった一瞬。
だが確かに。あの絶対的な質量が、崩れかけた。
実況が絶叫する。
「効いたァァァ!!今、効きました!!S級の巨体が、揺らいでいます!!」
競技場が、爆発的な歓声に包まれた。
観客の誰もが、それまで抱いていた「格の違い」という諦めを一瞬だけ忘れた。
「やれるぞ!ガルド、そのまま押し切れ!!」
「北部の英雄が、S級を崩した……!」
汗だくのガルドは、荒い呼吸の合間に確かな手応えを噛みしめていた。
(……いける!
俺が、俺達が積み重ねてきたものは――決して、無駄じゃない!!)
四百七十一体の経験が、間違っていなかったという確信。
積み上げてきたものは、確かに格上にすら届く。
歓声の余韻も冷めやらぬ中、しかしエルディアは、深いため息を一つ挟んでから、続けた。
「──オメガ。あなたさ。なめてんの?」
その声は、決して大きくない。
だが、競技場中に、なぜかはっきりと届いた。
「骨だけになってもまだわかってないよーね。身の程が。」
ぶ、ぶも……?
千人を屠った迷宮の王が、明らかに怯んだ。
巨躯がわずかに縮こまり、燃え盛っていたはずの双眸から、ほんの少し、光が弱まる。
「な……」
ガルドは、自分の目を疑った。
たった今、自分の全力の一撃を受けてなお崩れなかった存在が。
S級指定、単独討伐記録なしと言われた化物が。
主の一言で、明確に怖気づいている。
「あの様子……あの、化け物が……びびってませんか……?」
実況も言葉を失っていた。
「これは、いったい……」
観客席も、状況が飲み込めず静まり返る。
エルディアが、さらに一歩詰める。
「ねえ、返事は?
クソオメガ。
話しかけてんだけど。」
ぶ、ぶも、ぶも……
オメガは、まるで叱られた大型犬のように、巨大な首を垂れた。
角の先が、力なく地面に触れそうになる。
その光景は、あまりに滑稽で、そして――あまりに恐ろしかった。
先ほどまでの、絶対的な脅威という印象が、音を立てて崩れていく。
目の前にいるのは、もはや「制御された怪物」ですらなく、「ただ怯えている何か」だった。
ガルドの背筋を、氷のような感覚が這い上がった。
――このオメガは、俺を殺せる。
だがこいつは、俺なんかより、目の前の少女の方が、遥かに恐ろしいと思っている。
その事実が、何よりも雄弁に、少女の"底"を物語っていた。
四百七十一体分の経験が、初めて、まったく別の恐怖に塗り替えられていく。
オメガの双眸が、静かに紅く染まる。
その全身から、先ほどまでとは比較にならない魔力が噴き上がった。
まるで、巨大な山そのものが息を吹き返したようだった。
ガルドは、本能で理解する。
(今まで……
こいつ、本気じゃ、なかったのか……)
叱責一つで従っていた、あの巨躯。
だが今、初めて――主の言葉に応えるように、本気の色を宿している。
次の瞬間、消えた。
――ではない。
速すぎて、認識できなかった。
気付けば。
背後。
「――っ!!
《多重障壁》!!」
反射だけで体が動いた。
防御魔術を全力で展開する。
ズガァァァン!!
轟音とともに防御魔術が紙細工のように引き裂かれる。
「……生きてる……のか?」
ガルドの掠れた声が、静寂に落ちた。
(……は?)
視線の先――先ほどまで自分に迫っていたはずの拳が、止まっていた。
エルディアが、素手で、オメガの拳を受け止めていた。
傷一つ、負っていない。
競技場の誰もが、その光景の意味を理解できずにいた。
S級迷宮の王の全力。それを、片手で、無造作に止めている。
「ねえ」
エルディアの声が、静かに響く。
「それだと殺しちゃうでしょ。
散々教えたわよね。なめてんの?」
ぶ、ぶも……
「ちゃんとルール覚えなさいよ。相手を殺すと負けになるのよ。」
まるで、宿題を忘れた生徒を叱る教師のような口調だった。あるいは、悪戯をした飼い犬を諭す飼い主のような。
千人を屠った迷宮の王が、その一言一言に、巨躯を縮こまらせていく。
エルディアは拳を握ったまま、オメガの顔を覗き込むように見上げた。
「わかってるわよね。クソオメガ。
次ミスったら、本当に殺すからね」
ぶ、ぶも……
「人間社会は、今やコンプアライアンスの時代なんだから。」
――ぶも!!
オメガが、明確に萎縮した。
巨大な角が、力なく垂れ下がる。
競技場は、完全な沈黙に包まれていた。誰一人として、この光景に相応しい言葉を持ち合わせていなかった。
実況すら、絶句したまま何も喋らない。
そして、エルディアは唐突に、ガルドに振り向いた。
にこりと笑う。屈託のない、いつもの調子で。
「あ、試合中断してごめん。ガルドさん。
続きどうぞ。ごめんね。
この子、まだ力加減を覚えてなくてさ。」
まるで、しつけの行き届いていない子犬について詫びるような口ぶりだった。
その言葉の意味が、ガルドの中で、じわじわと染み渡っていく。
――今の一撃は。
――手加減、されていなかった。
――それを"力加減がまだ"と称する存在が、目の前にいる。
膝が、震えた。
恐怖ではなく、もっと根源的な――理解を拒絶するような感覚だった。
「……もう」
ガルドは、力なく笑った。
「もう、いい」
「え? なんか言った?」
「俺の、負けだ。」
その一言で、彼が積み上げてきた四百七十一体分の矜持は、静かに、しかし完全に幕を下ろした。
決勝トーナメント第一回戦、アーカム魔術学院、エルディア勝利。
しかし、一切の歓声も拍手もない。
「――しょ、勝者。アーカム魔術学院、エルディア選手。」
その一言だけが、静寂の中に、力なく落ちたという。




