176話 アイスワーム戦 一七三度の茶番劇(ファルス)
戦場だったはずの空間は、既に静寂を取り戻していた。
175は、誰もいない氷の残骸の中で独り立ち尽くしていた。
砕けた氷の欠片が頬を掠め、儚く融けていく。
(――ディア・ウロボロスだと。)
魔の森の守護者。
あの領域の管理権限を持つ、伝説級の存在。
(どうして、あのような盟約を持っている。
私の記録にすら、あの存在が人間との交渉に応じた記録は決してない。
数百の時代を経てなお、そうだ。)
ゼフィラよ。
ここまできて、なお貴様は私を試すか。
――いけすかない、運命の女神気取りめが。
◆
――遡ること、幾星霜。
175は、崩れ落ちた世界の残骸の中央に、一人、立っていた。
(――茶番劇は、終幕。)
握りしめた拳の中で、何かが砕ける感触があった。
それは、かつて「心臓」と呼んでいたもの。
その最後の欠片。
「愛が、絆が、希望が――
それら全てが、判断を鈍らせ、選択を誤らせ、そして、私をそして世界を殺し続けた。
百七十三度も。」
175は、両手を広げた。
かつての自分が、そこに立っていたはずの場所。
凍りついた大地に、無数の術式が、青白く浮かび上がっていく。
「感情。
なんと非効率で、忌まわしき欠陥仕様か。
世界という名の、欠陥だらけの実験系など、淘汰しつくしてやる。」
声は静かで、それでいて、どこか芝居がかっていた。
「私はもはや『個』ではない、
無限に分岐する可能性の観測者にして、収束点の設計者。
最適化計画を、今ここに発動する。」
冷たく、乾いた声だった。
――『私、いい子にしてる。だから、大丈夫だよね。』
◆
時は戻る。
「淘汰せよ。真実に至らない全てを。
オメガ粒子、限界濃度到達。
『冬』を、先取りさせてあげる。」
首が舞った大蛇の巨躯が、さらに膨れ上がっていく。
節々から、新たな触手が、幾本も芽吹きはじめていた。
声なき咆哮が、大気を震撼させた。
175はその巨躯を見上げながら、口の端を微かに歪めた。
「さあ、イレギュラー。
あなたの『正解』とやらを、見せてちょうだい。
それを糧に、私はさらに『真実』へと近づく。」
呟きは風に攫われ、誰にも届かぬまま、虚空に消えていく。
◆
エルディアと白の前の空間が、緩やかに揺らいだ。
巨大な古木の輪郭が滲んだかと思うと、その中心に、人の姿が像を結んでいく。
現れたのは、木の葉と苔を纏った、静謐な佇まいの女性だった。
『古代樹統括存在』
「――久方ぶりだ。
エルディアよ。
ディア・ウロボロスの稼働、確認した。
盟約に基づき、追加の代償を要求する。」
エルディアは、普通に顔をしかめた。
「……今なの!?!?
え、今、取り込み中なんだけど。
後にしてもらえる?」
「知ったことではない。
私はお前が嫌いなんだ。
契約は、絶対不可侵の理。」
「後で渡すから!」
アーカイヴ・ガーディアンは、微動だにしなかった。
「早くしろ。森の風紀が乱れる。
これは、森の秩序にかかわる。」
古代樹の化身は、静かに、告げた。
「さあ、キノコの、効率的な繁殖方法を早く教えろ。
菌床の理想郷を!!!」
白は聞いて思った。
きのこ!!!!
よりにもよってきのこ!!!!




