157話 未来エルディア
『彼女』は静かに、口の中でその数字を転がした。
「百七十三回、か。」
指先が、宙に浮かぶ座標図をなぞる。王都直轄ダンジョン、魔の森、そして故郷の村――三点を結ぶ線が、薄く明滅していた。
百七十三回、繰り返した。何度も、何度も。
リリを起こし、ゴルドを連れ、何度となく繰り返した。
――なのに。
「百七十三回の中でこんな事は一度もなかった……
もう権限が書き換わってる……あまりに早すぎる。」
本来なら王都ダンジョンの制御はもっと慎重に、時間をかけて進むはずだった。
制御に全力で特化した動きをしたところで、最短でもあと三年。それだけの労力をかけねば不可能だった。
なのに、今回は違う。
まるで――誰かが、ループの「外側」から手を貸したかのように。
そもそも今回、王都ダンジョン制御の為に動きを『彼女』はしていないはずだ。
「……今回のループ。
いつも眠ってる場所にリリもいなかったし……
ダンジョンの制御は彼女がいないとできないんだけど。
でもダンジョンの制御が終わったという……」
自嘲めいた声が、誰もいない深淵部に落ちる。
「リリ。ゴルド。アルト達……
今度こそ、あなたたちだけは、あの日の続きを歩かせてあげれそうだったんだけど……
今回のループはイレギュラーが多すぎる。
やっぱ捨て回かなあ……
――ループが変質してるとか……?
確かに考えてみると、こんな事は一度も……」
『彼女』の声が、初めて震えた。
◆
――ダンジョン、最奥。誰も知らない階層。
彼はただ、歩いていた。
隔壁の向こう側に閉じ込められてから、どれだけの時間が経ったのか、彼自身にも分からない。時間の感覚は、とうの昔に擦り切れていた。
かつて「暁の剣」のリーダーと呼ばれた青年の面影は、もうほとんど残っていない。鎧は肉に食い込むほど変質し、右腕は剣そのものと融合していた。それでも――足取りだけは、妙にしっかりしていた。
まるで、目的地を知っているかのように。
「――リリ。」
掠れた声が、誰もいない通路にこぼれる。
その名前だけは、忘れていなかった。
忘れられるはずがなかった。三十年間、隔壁の向こうで、彼はずっとその名前だけを唱え続けてきたのだから。
壁に刻まれた古い管理者用の紋様に、彼の――いや、"彼だったもの"の指が触れる。とたん、紋様がぼんやりと反応し、淡い光を帯びた。
『――未登録個体を検知。
既存データベースと照合中……
一致率、二十七パーセント。
登録者、カイン・エルスワース。』
ダンジョンの管理システムが、珍しく戸惑うような間を置いた。
彼は答えなかった。
答える理由が、もう自分の中に見当たらなかった。
ただ、遠くから伝わってくる振動――先ほど、王都直轄ダンジョンの権限が書き換わった、あの揺らぎだけを感じ取っていた。
「――帰ってきた、のか。」
三十年前と変わらない声で、彼はもう一度、その名前をつぶやいた。
「リリ。」
そして、また一歩、闇の奥へと歩を進めた。
まるで、誰かに呼ばれているかのように。
◆
「――ダンジョン深淵へ移動するっす。
権限戻ったから、転移門も使えるはずっす。
ただ、遠隔操作はできないので、うちはここに残るしかないっすけど……」
エルディアは聞いているのかいないのか、腰の袋をゴソゴソと漁り始めた。
取り出したのは、明らかにやばそうな魔法陣を書いた羊皮紙。
「オメガ粒子を爆発させればいいのよね。
一応さっきの奴を、さらに爆発力を高めるために、改良をくわえた。」
「没収。」
「ゴルドさん、ひどい!!」
「……姉御。
さっきの爆発で、私ら全員死にかけましたよね……」
「あれは事故。今回は違うもん!!」
「まるで信じられないっす!!
ゴルドさん。いざとなったら、力業で姉御を止めるっす!!」
「そもそも、爆発させる人材を現地に向かわせる事を疑問に思うぞ。儂は……」
リリが宙に展開したウィンドウを操作すると、床に巨大な魔法陣が浮かび上がった。幾何学模様が幾重にも重なり、中心から青白い光が柱のように立ち上る。
◆
深淵は、静かだった。
「……脈動しておるな。まるで、何かに反応しているかのような。」
ゴルドが言葉を発したのと同時に、彼の手はすでに腰の得物にかかっていた。
「……敵かしら。」
「歳を取っても染み付いたものは抜けんらしい。
気をつけろ。
いるぞ。」
空気が、これまでとは明らかに違う。
少し進むと開けた場所に出る。
視界の先、崩れかけた通路の向こうに、人影が立っていた。
「――……どういうことだ、これは……」
「そうね。
さすがの私も、これは想像してなかったわ……」
ゴルドの口から、間の抜けた声が漏れていた。
そこにいたのは、エルディアだった。
今、隣にいるエルディアと――寸分違わぬ、エルディア。
いや、髪の色が白い。
それに眼つきも荒んでいる。
「……痛いから、夢でもないのか……」
エルディアが自分の頬をつねる。
痛い。
「エルディアが、二人……?」
ゴルドの言葉が落ちる。
二人のエルディアは、しばらく黙ったまま互いを見つめ合っていた。
先に口を開いたのは、深淵側に立っていた方だった。
「……ああ、そう。
ゴルドまでいる。
そっち側の私は、まだ『その頃』か。
いや、そもそも『あんた』がそこにいる事はおかしい。」
その声には、笑っているようで、笑っていない響きがあった。
「は?
何言ってんの、あんた。
私はエルディア。
それ以外の何者でもないけど。
つか、あんたこそ誰?私のコスプレ?」
「コスプレ、ね。」
深淵のエルディアが、小さく笑った。乾いた笑いだった。
「本当にあなたは誰かな?
"私だったもの"かな?
髪も昔みたいに黒いし……」
しばらく考えていたが、ゴルドの隣でエルディアが、あっさりと肩をすくめた。
難しい話は性に合わない、とでも言うように。
「……まあ、いいか。
ぶっ潰しちゃいましょう。オメガ粒子の濃度も濃いし。」
指を鳴らす。空間が軋み、闇の中から巨大な影が浮かび上がった。
「きなさい。ミノタウロス・オメガ。」
召喚陣から現れたのは、骨と腐肉が入り混じった、異形の牛頭の巨躯だった。
眼窩に灯る紫の炎が、じろりと深淵のエルディアを睨めつける。
「……へえ。偽物の割にはよくできてるじゃない。
脳筋の召喚センスまで再現とか悪趣味ね。私。」
白い深淵のエルディアが、呆れたように呟いた。
だが、その口元は、どこか懐かしむように緩んでいた。
「なら、こっちも――付き合うよ。」
同じように、指が鳴らされる。
召喚陣が浮かぶ。
だがそこから現れた影は、エルディアの召喚したそれよりも、明らかに"古かった"。
骨の継ぎ目には無数の亀裂が走り、修復と崩壊を何度も繰り返してきた痕跡がこびりついている。
「きて。『私』のミノタウロス・オメガ。」
二つのミノタウロス・オメガが相対した。




