106話 決着
《暴食黒色狼》。
その名は、ダンジョン深淵にのみ、記録が残る。
目撃例のほとんどが、遺された装備や、途切れた探索記録から推測されたものだ。
曰く、魔力を喰らう。
曰く、領域そのものを喰らう。
故に暴食。
影のように忍び寄る姿と体毛から黒色。
二つの名を合わせて《暴食黒色狼》。
声に応えて現れた狼は、ただまとわりつくように、エルディアの足元にその巨躯を寄せた。
飼い主に甘える犬のように。
その光景こそが、何よりも雄弁だった。
――またSランク。この少女は、いったい、何なのだ。
「一撃で決める。」
そのエルディアの声に、遊びはなかった。
「――死なないでね。」
《暴食黒色狼》の黄金の瞳が、細まる。
それだけで、分かった。
(来る――!)
グレイスは、咄嗟に、杖を構えた。
狼が、地を蹴った。
――たった、一歩。
その一歩だけで、闘技場を埋め尽くしていたはずの鉄色の領域が、根こそぎ消し飛んだ。
「――え」
グレイスの周囲に張り巡らせていた、無数の棘。
領域魔術《鉄乙女棺》が、まるで、初めから存在しなかったかのように、粉々に、砕け散る。
音すら、追いつかなかった。
領域が崩れる感覚と、狼が目の前に迫る感覚が、同時に脳に叩き込まれる。
咄嗟に、杖を突き出す。
「――《穿鉄・改》!」
放たれた一条の棘――エルディアの防御すら抉ったはずの、その一撃が。
狼の纏う空気に触れた瞬間に、まるで鉄でできた棘が最初から砂であったかのようにはじけとぶ。
グレイスの意識に、ただ一言だけ浮かんだ。
(諦める理由には、ならない。)
勝てない。 それは、分かっている。 格が、違う。 これまでのどの相手とも比較にすらならない。
それでも。
グレイスは、震える足に、もう一度、力を込めた。
杖を、握り直す。
(父さんは勝てない喧嘩をしろとは言わなかった。
でも逃げろとも言わなかった。)
指輪に最後の力を込める。
熱が応える。
かすかに。 けれど確かに。
「――まだ、だ……!」
叫びとともに、地面に残っていた鉄色の残滓――砕け散ったはずの《鉄乙女棺》の欠片が、震えるように寄り集まる。
一本の細い棘に。
それだけの力しか残っていなかった。
けれどその一本をグレイスは、迫り来る牙の喉元へ向けた。
「――ッ!」
渾身の一撃。
狼は、止まらない。
棘は、届く前に噛み砕かれた。
最後の一瞬まで彼女は、確かに前を向いていた。
牙が届いた。
その先の記憶はない。
気づけば――闘技場にエルディアだけが立っていた。
杖を支えに。
肩を上下させながら。
グレイスは、力なく横たわっていた。
やがて、審判がゆっくりと旗を掲げた。
「――勝者、エルディア!」
歓声とも、悲鳴ともつかない声が闘技場を揺らす。
放送席で、実況が声を絞り出した。
「……グレイス選手、倒れています……!
エルディア選手が、最後の最後で切り札を使い切り抜けた……!!」
「グレイス選手は、あの狼の攻撃をまともに受けて、なお最後の瞬間まで抗おうとしていた。
勝敗は――決していた。 それでも、な。
グレイス選手は、最後まで折れなかった。 それだけは間違いない。」
治癒術師たちが、慌ただしく闘技場に駆け込んでくる。
グレイスは、ただ意識を失ったまま。
指輪に触れた手だけが最後まで離れることはなかった。
エルディアは静かに、そして力強く告げた。
「私、決めたよ。
あなたのおかげで見えた。
次世代の農場経営が……っ!」
白い天井。
グレイスは、ゆっくりと瞼を開いた。
体を起こそうとして、あちこちに走る痛みに、顔をしかめる。
「――起きたか。」
声に視線を向ける。 ベッドの脇、椅子に腰掛けていたのは、北方要塞学院の仲間達。
「……私は……負けたのか。」
「ああ。」
短い、答え。
グレイスは、天井を見上げた。
不思議と悔しさより先に記憶が蘇る。
「……大会は?」
「もう一つの準決勝の最中だ。王立グランディア魔術学院が勝つだろうな。」
「……そうか。」
グレイスは襟元にそっと手をやった。
指輪はまだそこにあった。 冷たい、いつも通りの鉄の感触。
だが確かに、あの瞬間だけは熱を持っていた。
「なあ、グレイス。
お前、負けたのに――なんか、スッキリした顔してるな。」
「……そうかもな。
そういえばさ。
刻印は?
胸の。
決勝トーナメント前にに、あいつにつけられた、あの……」
「――お前と戦った、エルディアが、解呪してくれたよ。」
「……解呪?
エルディアが?」
「ああ。」
副将は、自分の胸元に、そっと、手を、当てた。
「試合が終わった直後だった。 何の前触れもなく、ふらっとあいつが現れて――一瞬で、な。全員の刻印を、あっさり。
今まで、どれだけの治療師が診ても、びくともしなかったのに。」
グレイスは、言葉を、失った。
「……なんで。エルディアが、そんなことを。」
「本人に聞いてみたよ。 そしたサンプルゲットだとよ。
詳しくは、教えてくれなかった。 ただ――『刻印、外させてもらうね。 珍しいから、ちょっと欲しかったんだ』って。 それだけ言って消えた。」
グレイスの背筋に、冷たいものが、走った。
「……サンプル?
……そうか。
ふふ。」
「ど、どうした?」
「なんでもないさ。」
グレイスは、視線を、窓の外へ、向けた。
(きっと、エルディアからしてみれば――
わたしたちなんて、ほんの些細な、石ころだったのだろう。)
あの戦いは、彼女にとってただの通過点。
(あの戦い――きっと、わたしたちは、何かとんでもないことの一部に巻き込まれていたんだ。)
負けたことへの悔しさはまだ消えない。
けれどそれ以上に――どうしようもなく、あの少女の底の見えなさに興味が湧いていた。
グレイスは、ベッドから、を起こす。
痛みに顔をしかめながらも――足はもう迷わなかった。
「――行くぞ。」
「え?」
「私達を負かした相手の、結末を、見てやろう。
応援だ。
見届けてやる。」
副将は、一瞬、目を丸くして――それから、ふっと、笑った。
「……ああ。 いいな、それ。」
北方要塞学院は、まだ痛む体を支え合いながら医務室を後にした。
窓の外――決勝を告げる歓声が、少しずつ、大きくなっていく。
「……失敗、か」
『無駄だ』とまで言い切ったはずの呪印が、あっけなく解かれた。忌々しさが、抑えきれずに滲む。
――闘技場の喧騒から離れた、控えの回廊。
「先ほどの北方要塞学院の件は、あなたの差金ですか?」
声をかけてきたのは、静かに歩み寄ってきた、一人の少女――アステル。
ベルクは、視線だけを彼女に向けた。
「……いえ、聞くまでもありませんでしたね」
「必要なかったと?」
「あの程度では、大して変わりませんし。」
涼しい顔で淡々と続けたアステルに、ベルクは、静かな不快感とそれを上回るほどの興味を覚えた。
――この不遜さ。
これが選別され作り上げられた最強か。
「心強いよ
負けることは許されないがな」
「……魔の森で出会った時のエルディアは、あの程度じゃなかったんですけどね
調子、悪いんでしょうか。せっかく、戦えるのを楽しみにしていたのですが」
その声には、微かな失望が滲んでいた。
「――随分と、彼女に執着しているようだな」
「執着、というほどでは……
ただ――久しぶりに、“敵わないかもしれない”と思わせてくれた相手なので」
その一言に、ベルクは、わずかに眉を上げた。
「おまえがそこまで言うのか。」
「私には、“敵わないかもしれない”という感覚が、そもそも、あまり用意されていない。命じられるままに全ての敵を壊してきた。
こんな私ですら思う。彼女は理解不能です。
一切の油断なく叩き潰した方がいい。」
その言葉の裏にある、重く、乾いた何かを、ベルクは、静かに感じ取った。
「……エルディア、とうとう来ましたね。」
アステルは、それだけ言うと、静かに踵を返し、その場を後にした。
残されたベルクは、しばらく、彼女の背中を見つめ続けていた。
「――化け物が。」
そして王立グランディア魔術学院は危なげなく決勝進出を決めた。
決勝当日。
「――アーカム魔術学院、選手団に緊急事態発生」
昨夜の夕食後から、次々と、体調を崩し、嘔吐、高熱、痙攣……今朝には、選手団のほとんどが、動けない状態となった。




