105話 グレイス6
声は、グレイスの内側から直接響いていた。
「――ッ、」
視界が、歪む。
四肢の感覚が、遠のいていく。
(だめだ……体が……動かない……)
膝が地面に崩れ落ちかけた。
その時、襟元の指輪がかっと熱を持った。
「……!?」
これまでただの記念品だったそれが初めて、意志を持ったように脈打った。
刻印の紋様がぴしりと、音を立てて罅割れる。
『――は?』
刻印の声が、初めて、動揺した。
『お前――何を――』
熱は錯覚だったのかもしれない。
だがその『出どころ』は、きっと誰もが理解できるものだ。
指輪から流れ込んでくる、『何か』。
温かく、けれど有無を言わさぬ力強さを持った、『何か』。
それが刻印の侵食を、内側から押し返していた。
「父さん……?」
答えは、返ってこない。
けれど、確かに体は動く。
グレイスは、震える膝に力を込め直した。
刻印の紋様が、完全に砕け散る。
「―─終わらせよう。エルディア。」
杖を握り直す。
その先に、これまでで最も密度の高い魔力が渦を巻いて収束していく。
エルディアが興味深そうに目を細めた。
「へえ。何?今の」
「知らん。だが――」
グレイスは、笑った。
「父さんの言う通りだったよ。
自分の腕だけは、誰にも貸し借りできない。 ……でも、今のは、借りたわけじゃない。 あの人が、私に遺していったものだ。
父さんは普通に生きているけど。」
踏み込む。
一瞬で、間合いがゼロになる。
「――《穿鉄・改》」
杖の先から放たれた一条は、これまでの直線的な貫通ではなく、まるで生き物のようにしなり、エルディアの防御の隙間を、正確に抉った。
一体、また一体と骨の兵が地に崩れ落ちていく。
グレイスの脳裏に遠い記憶が蘇る。
酒に酔い、いつも笑っていた父の顔。
「借りたものに頼るのは、恰好悪い」
「自分の腕だけは、誰にも貸し借りできない」
――バカにしていたその言葉。
だが今はじめてその言葉の”重さ”が分かった気がした。
父が磨いてきたのは、才能でも、血統でも、外部の力でもない。
ただ自分自身を一振りの剣のように。
ただそうあるべく。
グレイスは剣ではなく、鉄糸を操る魔術師だ。 それでも届かせる方法は、きっと同じ。
杖の先に、これまでにない密度の魔力が収束していく。
矛盾している。
誰にも借りないというのが父の教えだったはずなのに。
それでも今だけは。
自分の中にある父の記憶そのものを力に変えて。
それは外部の力を借りることとは違う。
――自分自身の一部なのだから。
「――は?
はや──!?」
エルディアの声から、初めて余裕が消えていた。
とっさに展開した骨の障壁が、まるで紙のように切り裂かれていた。
防御魔術式の演算が、間に合っていなかった。
久しく感じていなかった感覚――"読み違えた"という感覚が、エルディアの中で警鐘を鳴らしていた。
(今の軌道を計算できなかった……? この私が演算ミスを……?
さっきまでの動きとまるで別人……まさか――)
エルディアの脳内で、これまで積み上げてきた"グレイスに対する労働力としての評価"が、音を立てて崩れていく感覚があった。
「……まさか、お父さんから、装備品を相続した事によるバフ……!?
まさか、脱税気味に相続税を踏み倒したとでもいうの――っ!?
それになに、これ……」
エルディアは、初めて素の声で呆然と呟く。
穿鉄だけではない。
グレイスが踏み出すたびに、地面が、鈍い金属の光沢を帯びていく。
土でも、石でもない。 闘技場の地面そのものが、まるで、初めから、そうであったかのように、鉄色に、染まっていく。
「グレイス選手のすさまじい一撃!!
それだけじゃない!!グレイス選手を中心に……地面から、鉄の……棘が……!」
「ただの物質生成ではない!!
あれは領域が”棘という法”を、この空間そのものに上書きしている!」
「そんな事が可能なのですか!?
今、競技場内は、エルディア選手の領域魔術の影響下にあるんですよ!?」
「領域魔術に対抗できるものは、領域魔術だけだ!
つまりあれこそが……
そうそう、みれるものじゃないぞ。
領域魔術の発現の瞬間だ。」
エルディアが着地した足元から、また新たな棘が突き上がった。
「――ッ
嘘でしょ!?
私の畑が!?!?」
紙一重で避ける。避けた先にもまた棘。
一体の案山子が地面から抜け出そうと身をよじる。
だがその足元から棘が貫いた。
上空で骨の鴉が、一羽また一羽と羽ばたきを乱す。
翼が鉄色の空間に触れた瞬間、羽根の一枚一枚が棘に変わって地に落ちていく。
解説者が、震える声で告げる。
「侵食だ!!
領域と領域がぶつかり合い、片方が片方を塗り替えている……!!」
リッチの深淵の眼窩から、青白い燐光がこれまでで最も強く瞬いた。
「――《絶望詠唱》」
グレイスの意識に、再び津波のような負の感情が、押し寄せた。
――終わらせてやろう。せめて道連れに。
グレイスの襟元の指輪が、再びかっと熱を持つ。
抵抗は一瞬。
棘が、リッチの体を完全に覆い尽くす。
グレイスの意識の中で、何かが確かに繋がっていた。
父の手のひらの、硬い剣ダコの感触。
指輪に触れるたび、胸の奥で燃えたあの熱。
そして、体の内側から溢れ出す抗いがたい力。
――これが、そうか。
理屈は分からない。 それでも体は理解していた。
領域魔術。
《鉄乙女棺》
(くそ……!リッチとの接続が、切れた……!
私の畑を……いや、闘技場全部が鉄に塗り替えられてる……!?
鉄分過多の土壌ではむしろ植物には有害まである。
なんてこと!?一気に畑の栄養価に止めを刺された!?!?)
エルディアの奥歯が、軋んだ。
「ここまで追い詰められるなんて、不覚だよ。
できれば隠しておきたかったんだけどな!!!!」
初めて。
エルディアの余裕の表情が崩れた。
けれどその目だけは笑っていた。
「おいで。
ポチ。」




