104話 グレイス5
普通の魔術師であれば、その一瞬で心が折れていただろう。
実際、放送席の空気が、凍りついた。
「まさか、リッチによる精神への直接干渉……!」
実況の声が、震える。
「あれは"音"そのものを媒介にしている!!
声帯から放たれた瞬間、空気を伝って魔力振動との共鳴を通して、聞いた者全員の精神へ強制的に詠唱内容が流れ込む!
"死"の概念によりそわれ、精神が極めて危険な状態となるんだ!!」
観客席が、むしろ内容よりも、解説のその聞き迫る様にどよめいた。
グレイスの杖を握る指先が、震えていた。
グレイスは、その震えが寒さのせいではないと、痛いほど分かっていた。
――《絶望詠唱》。
リッチの声が鼓膜を叩いた瞬間、頭の中に何かが流れ込んできた。言葉ではなく、もっと直接的な、原初的な"感覚"。
死の感覚。
グレイスは、唇の端をわずかに歪めた。
杖の切っ先が、リッチへとまっすぐに向けられる。
震えは止まらない。恐怖は消えない。
けれど、それでも彼女は前を向いていた。
「グレイス選手……術式が、止まって……いや
止まっていません。震えながらも彼女は術式の展開を続けている……
――何か、言っています。マイクは拾えていませんが……
読唇、できますか?」
「……『まだ、立ってる』……そう、言っているように見えるな。」
「……これは、一人の人間が、自分の弱さに打ち勝とうとしている瞬間です。
私たちは今、それを見ているんですね。」
グレイスの杖の先が、震えながらも、まっすぐにリッチを捉えていた。
会場は、静まり返っていた。
誰も、声援を送れなかった。
ただ、固唾を呑んで、その震える背中を見守っていた。
老魔術師の声にこれまでにない熱がこもり、マイクを握る手が微かに震えた。
――弱さに打ち勝てる一握りの人間だけが持つ命の輝き。人はそれを英雄と呼ぶ。
エルディアとリッチの死の畑が闘技場を覆う中で、彼女は間違いなく前を向いていた。
エルディアはそれを聞いて思っていた。
(人を雇うと、休憩は取らせなきゃいけない。
給料も払わなきゃいけない。
士気が下がれば生産性も落ちる。
でも英雄なら――瀕死の英雄なら、極限状態でむしろパフォーマンスが上がるってことか……)
エルディアは、震える声で呟いた。
「ただし、農地を壊されたら意味がないので、やはり厳罰規定は必要か……」
わかる。
グレイスに膨大な負の感情が、津波のように押し寄せていた。
――お前は、勝てない。
――お前の技など、児戯に等しい。
――お前の父が誇っていた”腕”など、この化物の前では何の意味もない。
囁きが次々と脳裏を侵食し、これまで見た控え室の光景が鮮明にフラッシュバックする。
天井を見つめたまま動かない、仲間。
理由もなく震える、仲間。
目覚めない、仲間。
――お前も、そうなる。
「もう恐怖は恐怖のまま扱う。
折れる理由にはしない。
私はもう、自分の腕だけを信じると決めたんだ」
グレイスは、戦った。
骨の案山子の群れを、鉄糸で薙ぎ払い、骨の鴉を、迎撃の《穿鉄》で撃ち落とす。
数に押され、体中に、無数の傷が刻まれていく。 それでも、足は、止まらなかった。
そしてそれを迎え打つエルディアの脳裏にも、これまで見てきた"優秀な労働者"たちの顔が浮かんでは消えていった。
腰を痛めて秋の収穫を諦めた、ばあちゃん。
精神的に潰れて畑に出られなくなった、老婆。
天候不順が続いただけで心が折れた、ばばあ。
軟弱者どもが。
だが。
その時だった。
「――ッ、」
グレイスの体が、突然、大きく、痙攣した。
「……!?」
杖が手から滑り落ちる。
膝が崩れていた。
「グレイス選手がよろけた!?
な、なんですか今の……! 攻撃を受けた様子は――」
「……なぜ……
私は……そんなものを刻まれた覚えは……」
グレイスの首筋――襟元の少し下。
そこに、青白い光を放つ紋様が浮かび上がっていた。
それは、控え室で見た仲間たちの体に刻まれていたものと同じ形をしていた。
『刻まれた覚えがない?
久しいなグレイス。
忘れているとは寂しいよ。
お前の仲間たちに“贈り物”をしたあの日――お前だけ無事だったと思ったか?』




