第五話 夢と現②
帰り際、イアンはしばらく黙ったまま、ノッテの隣を歩いていた。その重い口が、ゆっくりと開く。
「あの時……同じキャラバンになって顔合わせをした時に、君だと思った。正確には君の印名だが……今まで何人もの人たちに出会ってきた。開いた傷を元通りに治す印名の者もいた。だけどそれでは足りなかったんだ。シャルロッテの……生まれつきの重い病には」
彼が零す言葉に、ノッテは耳を傾ける。
「君でよかったと私は思っている。〈夢切り〉という印名だけじゃない。心優しい君でよかったと。けれど君は〈夢切り〉なんだ。夢を切る、ただそれだけで良かったはずなんだ」
「…………それは、」
「いや、シャルロッテを救ったことは、私からも礼を言うよ。人の命を救ったのだから、誇っていいんだ。だけど、今回のことで君は変わったはずだ。現実ですら切り取ってしまうことに気付いてしまった。それは、世界を変えてしまう危険をも孕んでいるのではないか、と」
当然の結果、とも言える。今回の出来事で、ノッテの力の範囲が確実に広がってしまった——否、現実に干渉出来るということが確定してしまったのだから。
「広めたりはしない。そうすれば君は、悪い人たちに捕まって都合よく扱われるかもしれない。生活も変わってしまうだろう。それは私も避けたいことだ。でも、ノッテ君、その力は……」
この世界には『禁忌』と呼ばれる印名が存在する。世界に悪影響を及ぼしたり、人に害を成したりする印名の事だ。それが生まれるのはごく稀であり、ほとんどの人はお目にかかることはない。けれど、印名は無限に存在する。性質も、力の強弱も、人によって様々であり、ノッテの場合は〈夢を切る〉……ただそれだけであったはずだった。
けれど、もしも現実を、切る側であるノッテと切られる側が『夢』だと思い込んだのなら、それは夢と化すのではないだろうか。そして、切る対象になってしまうのではないか。そしてその力は、禁忌に値するのではないだろうか。
「私は君に危険な目に遭って欲しくない。君は優しいから。君の力が噂になれば利用されることもあるだろうし、騙されれば世界を滅ぼしかねない。それこそ、昔話の魔女のように」
彼は立ち止まる。そして、同じように立ち止まったノッテの顔を見て、ふ、と笑みを零したのだ。今までの話を、柔らかく解すように。
「君ならきっと大丈夫だと信じている。きついことを色々言ってしまったね。八つ当たりもしていたのかもしれない。自分があまりにも不甲斐なくて。だけど、君は——」
彼はそこで黙ってしまった。いや、見とれてしまったのだ。自分が持たない印名を、力を、そして人を救う心の強さを、憧れと嫉妬の両方を織り交ぜながら、見とれているのだ。
そして、彼はきゅっと優しく目を瞑って、
「君は、どこまでも飛んでいける」
ノッテの羽耳が風に揺られてふわりと広がる。真っ白で、どこまでも飛んでいける、けれど、どこへも飛べない小さな羽。
「ありがとう、ございます」
素直に喜べないのはきっと本当には飛べないからだ。ノッテにとって飛ぶということは皮肉でもあるのだから。兄の顔がノッテの脳裏に過ぎる。
けれどイアンの言った言葉は文字通りの〈空を飛ぶこと〉ではない。ノッテの活躍を祈っての言葉だ。ノッテはすっと息を吐き出して、気持ちを整える。
「頑張りますね。……噂にならない程度に」
そうノッテがイアンに言った時、ノッテはイアンが硬直していることに気が付いた。
長い髪で隠れていた耳元が風で露わになった瞬間。イアンはノッテの羽耳と皮膚の繋ぎ目に傷があることを〈見抜いた〉。見抜いてしまった。それが年代物の傷跡であることも、どうすればそういった傷になってしまうかも。
イアンがただの人であったなら、「引っ掛けたのかな」などという怪我の想像だけで済んだのだろう。彼が医者でなければ。彼が〈見抜く〉を持っていなければ。
——それが、十年近く経った、千切られようとした傷跡であることを、知ることは無かっただろう。
「イアンさん?」
名前を呼ばれて我に返ったイアンは「あぁ」と一言呟き、
「さあ、キャラバンに戻ろうか」
そうして二人は小さく笑った。
キャラバンに戻ると、イアンを探していた村の人が駆けつけてくる。どうやら彼の娘が階段で転び、酷く痛いと泣いているらしい。イアンはすぐに向かおうとして、ノッテを見た。
「君も来るかな?」
「イアンさんが、よろしければ」
二人は走り出した。段々と泣き声が近くなってくる。そうして、人だかりの中で背中を丸めながら苦しむ少女を見つけたのだった。
「今診るからね。……あぁ、これは折れてますね。固定しますから、治るまで安静にしていてください。大丈夫。ちゃんと元に戻ります」
それは一瞬だった。彼は一瞬で、彼女の症状を手で触れることなく見破ったのだった。そうだ、それが彼の〈見抜く〉という印名なのだ。
けれど。
「……そのお嬢ちゃんに治してもらうことは出来ないのか? 向こうのお嬢さんは病気を治してもらったそうじゃないか。数週間も歩けないなんて可哀想だろう」
「それは…………」
娘の父親の言葉に、イアンは口ごもる。
そう考えるのも当たり前だろう。一瞬で治せる選択肢があるなら、それを最善として取るのが人間というもの。そうしてノッテはきっとそれを……。
けれどノッテは、処置を施された彼女の傍にしゃがんで、そっとその足に触れる。
「……痛いの痛いの、飛んでいけ。ふふ、ちょっとしたおまじないだよ。きっとすぐ歩けるようになる。イアンさんもそう言ってますし、この子の体の治癒能力を信じてあげましょう?」
柔らかく答えるノッテに、周囲の人間は「そうね」と口にする。しかし、イアンだけが、僅かにその目を見開いていた。誰にも気付かれることはなかったが。
「……すまない。君は確か倒れたんだったな。自己中心的に考えて悪かった。治るのなら、きっと大丈夫だろう」
男性はもう一度、すまない、と頭を下げた。
「いいえ、苦痛を取り除きたい、楽をしたいと考えるのは、当たり前ですから」
ノッテは立ち上がってお辞儀をする。イアンも、処置を終えてその場をノッテと共に立ち去った。
「どうして、切らなかったんだ?」
「私がシャルちゃんを助けたのは、あなたがもう助かる見込みが無いと断言したからです。助かるのであれば、私の印名は必要ありませんから……冷たい人間だって思いましたか?」
イアンはノッテの問いに「いや、」と笑みを含めて返す。何かおかしいところがあったのかとノッテは不安になるが、どうやらノッテに原因がある訳ではないようだ。
「そうか、そうだな。人の治癒能力か、そうだよな、何も全て印名に頼る必要は無いんだよな……」
「確かに、あそこで夢として切っても良かったでしょう。けれど、あの子は自分で治せる。イアンさんが治ると言ってくださったんです。なら、それに任せましょう」
ノッテはさも当たり前のように、イアンに言った。
イアンは、自分が役に立っていないと思っていた。ノッテが全てを解決してくれて、ただ悪いところを〈見抜く〉だけの医者なんて、治せない医者なんて必要ないと思っていた。治癒の印名を持つ人間もいる。それを持って医者をやっている人もいる。だからこそイアンは、自分は何も出来ないのだと思っていた。しかしそれがまさか、ノッテの判断基準になっていたとは思いもよらなかったのだ。
「明日はキャラバンが出発する日だね。私はしばらくここに残るよ。ノッテ君は?」
「引き続きこのキャラバンにお世話になる予定です。イアンさん、シャルちゃんや奥さんとごゆっくりなさってください」
「じゃあ、お別れだね。本当に、本当にありがとう」
「こちらこそお世話になりました。沢山学ぶことがあって、とてもいい経験になりました。色々ありましたが出会えて良かったです」
「……それはよかった」
キャラバンの辺りからいい匂いがする。今日の夕食はシチューらしい。甘くとろりとした香りが、二人の鼻腔をくすぐる。
「お、シチューだね! これは嬉しい。実ははこのキャラバン料理長の得意料理なんだ。他のとは一味違うと思うよ」
「それは楽しみです!」
その味は新鮮で、けれどどこか懐かしさもあるような、とても美味しいシチューだった。そしてふと思い出すのだ。中央都市で待つ、あの子の作る手料理を。
シチュー、リクエストしてみようかなぁ、なんて。
◇
出立の朝が来た。テントを片付け、忘れ物がないかどうか確認をして港の方へと向かう。
見送りにはこの村に住むほとんどの人が来てくれた。この村に戻ってきてくれたイアンという医者に救われた者は多い。些細な咳から怪我や火傷の手当て、そして、娘であるシャルロッテの命まで。
「ノッテさん、ありがとう。私に、生きる未来をくれて」
シャルロッテは歩き慣れない様子でノッテの元へやって来て、そうしてノッテの両手を握った。
そして、ノッテが眠っていた二日間のことを、シャルロッテは幸せそうに話す。まず歩けるようになったこと、走れるようになったこと、でもまだすぐ疲れてしまうこと。村の子どもたちと鬼ごっこや隠れんぼが出来るようになったこと、今までずっと家から出られなかったので交流が出来なかったけれど、仲良く出来ていること。
「元気でね、シャルちゃん」
「ノッテさんも、もう無理しないでね」
「……うん、気をつける」
この子は将来どんな人に育つだろうか。病気で寝込んでいた分、幸せになって欲しい。ノッテは最後に、彼女の頭を撫で、手を振りながら船に乗り込んだ。
ぎぃ、ぎぃ、と音を立てながら船は進んでいく。これから二週間かけて、このキャラバンは数ヶ所先の大きな街を目的地としながら進んでいく。そこに着けば、ノッテは彼らとお別れになるだろう。いつものことだ。パトリックと別れたことも、絵本の少女と別れたことも、イアンと別れたことも、行く先々で出会う人々と別れることはいつものことであり、それがノッテの旅なのだ。
短い出会いと別れを繰り返して、どこへ向かうのだろう。
多くの夢を切ってきた。起きてからも怯えるような悪夢も、儚い恋心も、叶えられない将来の夢も、色々な夢を切ってきた。そうしてとうとう、現実を切ってしまった。
ノッテはこれからも、夢を切り続けるだろう。それが彼女の印名であり、使命であることと何ら変わりもないのだから。それしかないのだ。印名が職を、人を、人生を決める世界で、印名が発現してしまえばその人の道は決まることになるのだから。
何度も〈無印〉になることを覚悟した。ノッテは十五になっても印名を持っていなかった。印名は早い人で生まれつき、一般的には五歳から十歳程度、そうして一番遅いのが、十五歳である。十六の誕生日を迎えたその日、生まれた時間に〈無印〉となることは確定する。それがこの世界の法則。変えられない結末。
私が夢だと思うのならば。切る側が夢だと思うのならば。
私は、この世界すらも、切ってしまえるのだろうか。
いつか誰かが言った。蝶になる夢を見た、と。そうして気付くのだ。果たして、この目覚めた現実は本当に現実なのだろうか。蝶の夢こそが、現実なのではないだろか、と。
ノッテは両の手のひらを広げ、握り、確かめる。確かに体はここにある。握ってくれた温もりも覚えている。私はここにいる。ノッテは知っている。これが現実なのだと。自分には切れないものだと。
ノッテはポケットからハサミを取り出して、ゆったりと揺れる船の中で、ハンカチでハサミを拭いた。夢を切ることで汚れることは無い。けれどそれは、年々錆びていく。どこにでもあるようなハサミだ。きっと、他のハサミでも夢は切れるのだろう。けれど使い続けると愛着が湧くもの。仕事を続けるなら、これからもこのハサミで夢を切りたい。
青春を終えても、朱夏を越えても、白秋が訪れても、そして玄冬を迎えても。旅をしているのだろうか。夢を切っているのだろうか。
私は私のやりたいように。そう決めたのだ。これまでも、そしてこれからも。やめたくなったらやめればいいし、中央都市に店を構えて夢を切る方法だってある。
今のままで十分だ。だから、これ以上は望まない。せめて、誰かの幸せの手伝いが出来れば、それでいい。役に立てるなら、それでいい。
「あ、夕日」
雲が橙色の線を引いて、日が落ちていく。
このままでいいのだ。今がきっと、最善なのだから。
◇
ゆらゆらと船に揺られること数日。次の村へと到着し、ノッテは船を降りる。するとそこには先に来ていたのだろうキャラバンの姿があった。
複数のキャラバンが同じ村に滞在するのは珍しいことではない。偶然の出会いによる物々交換もあれば、キャラバンを乗り換えていく旅人もいる。ノッテは書き物の契約がある以上今のキャラバンからは契約期間内は離れるつもりはないが。
そして向こうのキャラバンで、一人の赤髪の少女をノッテは見かけた。
「——え」
記憶違いでなければ。
見間違いでなければ。
私の見当違いでなければ。
「……ファル……ファラ?」
名前を呼ばれた赤髪の少女が振り返る。年齢はノッテと同じくらい、薔薇のように赤い髪は腰まで伸び、羽耳族であるノッテの背丈をとうに越しているが。
「……もしかして、ノッテ?」
「そう、そうだよ、ファル」
八年ぶりの再会がなかったかのように、愛称が口からこぼれる。
けれどファルファラは、少し驚くようなことをノッテへと伝えた。
「私、ずっとあなたを探していたの。手紙も出したし、情報も集めた。けれど、返事は来ないし、あなたはすぐに移動してしまうから……あぁ、ようやく会えた…………」
まさかこんなに会いたがってくれていたとは。会えたことを喜んでくれるとは。
「ねぇ、ノッテ。お願いがあるの」
彼女はすっと近づいて、ノッテを見下ろさないように腰を曲げて顔を覗き、肩を掴んだ。彼女と顔が並び、ファルファラの真剣な眼差しとかちりと目が合う。ノッテの瞳は驚いたままの見開いた目で。
「——私の夢を、切ってほしいの」




