第五話 夢と現①
〝私の娘を……助けていただけませんか〟
木で作られたベッドの上、可愛らしい花柄の布団に包まれた少女が横たわっている。静かに閉じられた瞼。安らかに眠っているが、すぅすぅと微かに聞こえる寝息から、まだ生きていることが分かる。先程までの苦しさは微塵も感じられない。
「これで、処置は終わった。が、また発作は起きる」
「……治らない……んですか……?」
立ち上がった医者の言葉に、ノッテは柔く、それでも鋭い刃で問うた。
「生まれつきの病気なんだ。もってあと、わずか」
同室にいた母親の顔が歪む。膝が崩れ落ち、それを父親である医者——イアンが支える。医者である彼にとっては何度も見た事のある光景だろう。しかし、それは慣れとは違う。何度見たって、変わらない。自分の力不足と、変えられない結末。ましてや自分の娘なら尚更だろう。
それをノッテは、同じ部屋でただ黙って見ていた。
◇
「ひとまず、楽になって良かったです。さっきはあんなに苦しそうだったのに」
「でも治った訳じゃないんだ。あの子の発作は、また訪れる」
何度も経験したのだろう。イアンがぐっと口の中を噛んでいる様子が伝わってくる。
「それで……私にあの子を助けてほしい、とは……」
「……あぁ。助けてほしいのはシャル……シャルロッテだ。病状は先程見てもらった通り。
私の印名は〈見抜く〉。ただそれだけなんだ。悪い所はいくらでも見つけられる。でもそれだけ。治すには知識と技術がいる。だけどあの子は……シャルロッテはもう既に病魔が全身を蝕んでいる。完全に治すような印名を持つ人が来るのを待っているばかりだった。先日までは」
あの病気で臥せっている子ども——シャルロッテは、体が弱いため、医者が多くいるであろう中央都市には行けず、イアンが全国各地を巡って医者を探していたらしい。シャルロッテが生まれた瞬間、医者であった父親のイアンは〈見抜いて〉しまった。この子は重い病気で、長くは持たないのだと。
「だから君の力が必要なんだ。〈見抜く〉ことしか出来ない私にはない力を、君は持っている」
「それが、私の〈夢切り〉だと……」
「……無理強いはしないよ。ただ、そういう未来もあるというだけの話だ。依頼を受けたとしても、治らない可能性だってある。こちらからお願いをしておいてこんな言い方しかできないのが申し訳ないが……」
ノッテは口を噤む。今ここでノッテが断れば、シャルロッテはこのまま何もできずに命を落とすだろう。しかし受けたとしても助かるとは限らない。受けるか受けないかはノッテの中ではとうに決まっていた。しかし、その先が見えないのだ。
ノッテの印名は〈夢切り〉。夢を切ること。しかし今回の事案は「病」——現実そのものである。切ったことがないものを無理矢理切ろうとした場合、それが果たしてどれほどの影響を及ぼすのかを、ノッテはまだ知らない。
「立ち会ってもらって悪かった。辛い思いをさせた」
「いいえ、立ち会いたいと言ったのは私ですから」
ノッテ達はキャラバンに戻り、晩御飯の支度を始めた。この村に着いてからまだ数時間しか経っていないので荷解きもまだだった。
彼女が発作で苦しんでいる姿が、目に焼き付いて離れなかった。
◇
翌朝、ノッテが身支度をしていると、キャラバンの一員である男性が声をかけてきた。どうやらノッテを尋ねてきた人がいるらしい。慌ててテントから外に出ると、そこにはシャルロッテの母親がいた。
「朝ごはん、まだでしたら良かったらシャルと一緒に食べませんか」
少しやつれた顔で、目元は微かに赤く腫れている。愛するたった一人の娘の余命があとわずかである中で、その時間を大切にしたいはずなのに。それでもノッテを誘ってくれたのだ。
「ええ、喜んで」
ノッテは微笑み、こくりと頷いた。
昨日のことはまだはっきりと覚えている。この村に着いた途端に、ノッテは駆け出したイアンの後を追って苦しむシャルロッテを見たのだった。彼女を握った手の温もりはまだノッテの手のひらに残っている。熱を帯びた小さな手。その手を、握ることしか出来なかった。何か出来るのなら助けになりたかった。しかし、医者のイアンですらお手上げの状態で、ノッテに何ができるというのだろう。
朝食に誘われたのはノッテだけで、他のキャラバンの人達は誰一人来なかった。何故自分だけ呼ばれたのか不思議に思いながらも、ノッテは席に着く。
テーブルに並べられた食事はありふれた、けれど旅人達にとっては有難い、ごく普通の朝ごはんだった。携帯食はあまり美味しくはない分とても嬉しい。スープからは湯気が立ち上り、焼きたてのパンの香りが食欲をそそる。
そこに、パジャマ姿のシャルロッテが座っていた。昨日よりもすっきりとした表情で、顔色もずっといい。あんなに汗を滲ませて苦しんでいたのが嘘のようだった。嘘であって欲しかった。
「……あの、」
その少女が、口を開く。澄んだ声だった。そういえば、昨日は声を聞いていない。
「助けてくれて、ありがとう」
ノッテはその言葉に、驚いて目を丸くした。助けたのは私じゃなくて、彼の方なのに、それなのに。
「助けたのは私じゃなくて…………」
「手、握っててくれた……よね、苦しかったけど、覚えてるの。意識ははっきりしてなかったけど、でも、手、握っててくれたから……」
そう言って、彼女は右手をノッテの方へ向ける。薄桃色に染まった白い手は、ノッテの手を握って、ぎゅっと力を込めた。
「ありがとう、ノッテさん」
花がふわりと咲いたような笑顔だった。薔薇のような魅惑的な美しさでもなく、向日葵のような屈託のない明るさでもない。それはまるで、優しく包み込んでくれるような、桜のように。
花は、いつか散ってしまう。人間だって、いつかは死んでしまう。でもそれは、目の前の彼女にとって、あまりにも酷だ。
ノッテは握られたその手を重ね、ぎゅっと握り返した。どうか、どうか、出来るだけ長く、その温もりを感じられるように。
◇
朝食を済ませたノッテはキャラバンに戻ると、イアンへと話す言葉を考え始めた。朝食を共にしたことで、決意が固まったのだ。
生きたいと願う命ならば。
そして、自分に救えるかもしれない命ならば。
分からなくても、救おうとするだけでも価値はあるのではないだろうか。
「イアンさん。そのご依頼、受けさせてください」
「ノッテさん、本当に……!?」
「ただ、もう一度だけ確認させてください。私はこのような現実を切ったことがありません。ですから、イアンさんの思うようにはいかないかもしれません。もしかしたら悪い影響を及ぼすことだって考えられます。それでも、試させてくださいますか?」
「……もちろんだよ。初めからそのつもりだから——、」
「——イアン! シャルが!!」
二人の会話を切り裂く一人の叫び声が、テントに飛び込んできた。シャルロッテの母親だ。何かあったのは明白だった。
「ノッテ君、行こう」
「……本当に、いいんですよね」
「今更何を言うんだ。こっちは最初からそのつもりだから大丈夫だよ」
その言葉が、不安だったノッテの背中を優しく押してくれた。
ノッテとイアンは同時に立ち上がってテントを後にし、シャルロッテの家へと向かう。
ひゅー、ひゅー、と苦しそうな呼吸をしながら、シャルロッテはベッドに横たわっていた。彼女は人が部屋に入ってきたことに気がついたのか、薄く目を開け、視界にノッテ達を捉えて笑みを浮かべる。
「ノッテ、さん……パパ、も」
彼女の右手が、ノッテへ差し出される。言われなくても分かっている。握っていて欲しいのだ。昨日と同じように。
ノッテはその手を、しっかりと両手で包み込んだ。そして、シャルロッテの目を見て、問うた。
「シャルロッテちゃん……今から、大事なことを聞くよ。……シャルちゃんは、生きたい?」
息が漏れる。咳が零れる。目は焦点が合わない。それでも、彼女は。
「いき、たい」
その一言で、ノッテの次の行動は確定した。
「いい? シャルちゃん。今から私の言うことを、おぼろげでもいいから、聞いて。あなたが今見ているのはね、夢なの。この苦しみも、全部、夢を見ているの。だから大丈夫、大丈夫だから……」
「ゆ、め……」
生まれつきのもの。ずっと離れられず苦しんできたもの。それを夢だと受け入れるのは、難しいことだろう。けれど、今のおぼろげな彼女の意識なら、そして幼い彼女なら、もしかしたら。
左手で彼女の右手を握り、右手で慣れ親しんだハサミを持つ。彼女の頭上に、一本の糸が見えた。今まで切ってきた夢よりも根深く、何本も束ねられたような頑丈な太い糸だ。しかし糸が見えたということは、夢であると認識した証拠。ノッテにしか見えない、夢の糸。
「その夢、私が切るよ」
しゃきん。
金属が空を切る音が、小さな部屋に響いた。その響きはいつもと変わらない、けれど手応えは確かにあった。
そして。
「……ぁ」
視界が、黒と現実を往復する。姿勢を保とうと踏み込んだはずの片足は力が抜け、体が傾いていく——否、それすらもノッテには分からない。視界は横転し、暗転する。激しい頭痛と、立っていられない程の目眩。
イアンの焦燥感に駆られた声を微かに聞きながら、ノッテは意識を手放した。
左手には温もりを、右手にはハサミを握ったまま。
◇
何度か小さく瞬きをする。
空白の頭に、目の前に映った映像が流れ込んでくる。
三角の形をした簡易テントだ。首を回すと、ノッテの私物が置いてある。そうして自分のテントであると理解する。しかし、ここまで来た記憶が無い。そうしてまだぼんやりとした頭で思考していくにつれて、ノッテはようやく、何があったのかを思い出した。
「私……倒れ、て…………」
夢を切った。それは確かに覚えている。今までで一番大きな『現実』を、ノッテは切ったのだ。その手応えは確かにあった。あったけれど、ノッテはその先を覚えていない。
失敗したのだろうか。倒れたのは恐らくいつも以上に多くの力を使ったからだ。夢を切ることは、大きいものから小さいものまであるが、疲労は夢の大きさに比例する。今回はそれが今までで一番顕著だったのだろう。
起き上がって、自分の手を見る。どこも欠けていない、傷一つ無い、いつもと変わらない手。足も動く。思考も大分すっきりしてきた。どうやらどこにも悪い所はないらしい。
……あの子は。シャルロッテは。無事でいてくれているだろうか。夢だと錯覚させ無理矢理切ったのだから、何か欠損が、もし命に支障を来たしていたら——。
「……行かなくちゃ」
ノッテは立ち上がり、テントの入口の布をめくる。東から日が差している。夢を切ったのは確か夕方。ちょうど翌日の朝を迎えた頃だろうか、眩しさに目を細める。慣らそうと瞬きをしていると、左の方から人が近づいてくる足音が聞こえた。
「あぁ、起きたんだね。おはよう」
そう声をかけ、ノッテを見下ろす一人の男性。イアンだ。
「おはよう、ございます……すみません、あの、倒れてしまって……」
「いいんだ。気にしていないよ。君はよく頑張ったんだ。よかった、目が覚めて。〈見抜く〉を使ってもどこにも悪い所は無いし、目覚めるだろうとは思っていたけれど」
「あの、それで、シャルちゃんは」
「……おいで」
歩き出す方向はシャルロッテの家の方向だ。今の時間帯は朝食の頃だろうか。あの家で頂いた朝食の味をノッテは思い出す。
そしてふと考えてしまう。もしも、もしもシャルロッテに何かあったのならば。あの朝食の風景も、柔らかなあの笑顔も、薄桃色の手の温もりも、全てノッテが奪ってしまっていたとしたら。
ノックの音が響く。「おはよう、私だよ」と彼がドアの向こうに声をかけると、しばらくして、扉が開いた。
細く柔い糸のような、ふんわりとウェーブのかかった金の髪。その隙間から、ペリドットの丸く垂れた瞳が、こちらを見ていた。
「……シャル……ちゃん……?」
「ノッテさん!!」
直後、ぎゅっとお腹を締め付けられる。シャルロッテの両の手がノッテの腰に回り、しっかり離さない。ノッテはその体を、ややあってそっと、ぎゅっと抱きしめる。
「二日も来なかったから、お母さんに聞いたの。そうしたら、しばらくお休みがいるって言うから、でも私の苦しさはどこにもなくて、もしかして、ノッテさんが私の苦しいやつを、もらっちゃったのかなとか、思って」
シャルロッテは顔を上げて、心配そうにノッテを見る。
「シャルちゃん、苦しくない? 発作とか、起きてない?」
シャルロッテはそれを聞いて、ノッテの腰から手を離し、ぱっと腕を広げて満面の笑みを浮かべた。
「なんにもないよ。苦しさも、痛いことも、辛いことも、なんにもないの。ベッドから出ても、お外を歩いても、倒れないしうずくまることもない。こんなに体が軽いの生まれて初めて!」
そう言って、彼女はその場でくるくると回ってみせた。橙色のスカートがふわりと舞い、金色の髪がきらきらと光を反射する。それはまるで、陽の光が彼女を祝福するように。
「ノッテ君」
イアンがノッテの肩に、そっと手を置いた。
「君は、やり遂げたんだ。綺麗さっぱり、彼女の病魔は消え去っている。もう彼女があの病気で苦しむことはないだろう」
「——じゃあ、私は、」
「君は彼女を救ったんだ。君の、その力で」
——生まれて初めてだった。
誰かの役に立つことは好きだった。夢を切ることも、悪夢に囚われている人を救うことが出来ると思って仕事を始めた。それ以外にすることがないというのもあるけれど、それでも誰かの役に立てるならとても嬉しかった。そうして、人の感情を、悪夢を、将来の夢を、切ってきた。
けれど、現実を切ったのは初めてだった。現実を夢と捉え、ノッテは切った。現実と夢は異なるものだ。どこまでも同じにはならず、けれどどこかで重なる、そして普通の人には決して届かない領域。将来の夢だって、叶えてしまえば現実になる。けれどそれは曖昧であり、夢と現実のどちらが本物かなんて、誰にも分からない。この現実だって、誰かの夢の中なのかもしれないのだから。
「ノッテ君。君は、本当に凄いよ。羨ましほどに」
彼は呟いた。彼女を救うべきだったのは医者である彼のはずだった。けれど救ったのは、ノッテだ。夢を切るだけの、普通のひとのはずだったのに。
ノッテは、シャルロッテの命を救い、イアンのプライドを傷つけたことに気が付いた。彼は初めから分かっていた。分かっていた上で彼は、それでも助かるならとノッテに頼んだのだ。ノッテが助けてしまえば、彼が医者としてここにいる意味はほとんど成さなくなる。それでも、選んでくれたのだ。彼女が——シャルロッテが未来を歩んでいく可能性を。
「イアンさん、ありがとうございました」
「私は何もしてないよ。これっぽっちもね」
あぁ、また傷付けてしまった。
イアンがいなければノッテはシャルロッテのことを知らず、また己の力のことも知り得ることはなかっただろう。そのことに、ノッテは感謝をしきれないのに。それなのにどうして彼は……。
「私、イアンさんがいなかったらシャルちゃんのことも自分の力のことも知ることはできませんでした。だからイアンさん、見抜いて下さってありがとうございました」
「ノッテ君……」
それ以上の言葉は必要なかった。イアンの方を見て微笑むと、彼も微笑み返してくれた。この話はこれで終わりだ。
その後は、家の奥から出てきたシャルロッテの母親と会い、何度も何度もお礼を言われた。そして多額の謝礼金も頂いた。それはあまりに多く、交渉の末に、シャルロッテの未来のために使うという約束をして、ノッテの分は減らしてもらった。仕事として引き受けたということ、そしてシャルロッテの命を救ったことから少額のお金は受け取ることにした。




