第十話 〈無印〉の青年①
この世界では十六歳が成人だ。それは、印名が発現する最後の瞬間が十六歳の誕生日——正確には、十六歳になる直前だからである。印名が発現し、一人前と認められる。それが大人とほぼ等しく扱われるかどうかの境界線。
十六歳が成人。そこに例外はない。しかし、印名が発現するかどうかに例外は存在する。十六歳になっても印名が現れず、印名を使うことが出来ない〈無印〉と呼ばれる人間は確かに存在する。そして、十六歳以降に印名が使えるようになった人間は、これまで観測し続けてからずっと存在していない。
印名を使えるようになることが成人ならば。それが『大人』という存在なのであれば。
——〈無印〉のハクは、いつまでも〝大人〟に成れない。
◇
病気であることを二人に告げた日の夕暮れの帰り道、ふとどこからかピアノの音色が聞こえてくることに気が付いた。
恐ろしいほどに心地がいい音色。まるで何度も聞き慣れたような……あぁそうか、自分の弾き方と似ているのだ。
音色に近づいていく。そこには一台のストリートピアノが置いてあった。曲名は知っている。シューマンのトロイメライ。ハクが家を出る直前に練習していた、そして最後まで弾くことができなかったトロイメライだ。
最後まで弾き終わった演奏者が顔を上げると、向かいにいたハクにもその演奏者がはっきりと見えた。その顔をぱっと見た瞬間にくるりと背を向けて無言で去ろうとするハクに演奏者は、
「待って! 兄ちゃん!」
「……俺はお前の兄貴じゃな——」
「兄ちゃんはいつだって僕のお兄ちゃんだよ」
「——ベルン……」
ベルン。そう呼ばれた少年はにっこりと笑ってハクに駆け寄ると、帰ろうとしていたハクの帰路を塞ぐように立ち、向かい合った。
「ね、やっぱり兄ちゃんだ」
「降参だ。そうだよ、悪いか」
「そんなこと一言も言ってないじゃんか、お兄ちゃんのばか」
やれやれと目を閉じる兄のハクと、対照的に久しぶりの再会に笑みが溢れて止まらない弟ベルン。
ベルン——〈治療〉のベルンは、ハクとは七つ年の離れた、ハクの唯一の弟である。
◇
「ハク、琥珀のハク。綺麗な目。私の、自慢の子」
そう言って母親は何度もハクの頭を撫でてくれた。橙色の髪に琥珀色の瞳。橙色の髪も琥珀色の瞳も母親譲りだ。
しかし五年経っても印名に恵まれないハクに両親は保険をかけたのだろうか。ハクが生まれてから七年後、ベルンが生まれた。彼も母親と同じ琥珀色の目をしていた。どこかの地方で琥珀を指すベルンシュタイン。弟の名前はベルンになった。
ハクの家系は代々医家であり、ハクも後継者の一人だった。そのためハクはいつ医者にまつわる印名を持ってもいいように、ただそれだけを目指して日々勉強に努めていた。それしか許されなかったとも言える。
唯一の癒やしはピアノくらいだったろうか。母親が、勉強ばかりだけでなく指先の運動にもなるからとピアノの教室に通わせてくれたのだった。コンクールには出なかったものの、勉強の合間に練習を重ね、いつしかそれが日々の息抜きとなっていった。その中で特に気に入っていた曲がシューマンのトロイメライだ。どこか懐かしさを覚えるメロディー、何かに思いを馳せるかような余韻、甘く優しい夢を見ているような感覚。いつか弾きたいと思っていた。それが叶ったのは十六歳の手前、家を追い出される直前のこと。勘当された十六歳からは弾く機会も練習する時間もピアノすらもなくご無沙汰だったわけなのだが。
「悪いがここにはもうお前の居場所はない」
忘れもしない十六歳の誕生日。うるう年だった二月二十九日。〈無印〉であることが確定したハクは家を追い出された。一年前から決まっていたことだ。「もし十六歳になっても〈無印〉なのであれば、家を出ていってもらう」と。それが確定しただけの話だ。
……期待をしていた。もしかしたら、父親に認められる日が来るんじゃないかって。印名が、宿るんじゃないかって。
そんな日は来なかった。俺は、〈無印〉になった。
「母さん……」
もしかしたら。もしかしたら、母さんだけは引き留めてくれるかもしれない。まだ現状が理解できていないベルンだって。
「お兄ちゃん、どこか行っちゃうの?」
「……」
母親は一瞥してハクから目を逸らした。印名を持った大切な弟の手を握ったまま。
「——っ」
分かっていたことだ。それも一年前から。それなのにどうして、どうしてこんなにも心に大きな穴が空いていて、吹雪くように凍えているんだろう。
分かっていた。知っていた。それでも最後くらいは、何かあっても良かったんじゃないか。
自慢の子だと甘い声で何度も撫でてくれたはずの母親はそのまま部屋の奥へと消えた。早く出て行けと怒鳴る父親の奥で母のすすり泣く声が聞こえたような気もしたが、きっとそれは幻聴だろう。ハクは玄関の扉を開け、振り返らずに出ていった。
そうしてハクの空っぽの心は前々から考えていた一つの決意を固める。もし、もしも、この家を出ることになったら。最悪の形で出ることになったのならばその時は——、
——死んでしまおう、と。
目を開けるとそこは知らない場所だった。何をしたのかは記憶にあるので病院に運び込まれているのかと思ったが、どうやら違うらしい。病院特有の白くて味気ない殺菌された部屋とは異なり、温かみのある木目調の壁やベッド、顔を上げて横を見れば木製の机や椅子が置いてあり、病院とは思えないほど優しい空間が広がっている。机の上や棚には何もないことから生活感はないが、そこに私物を置けばいい個室にはなるだろう。病院というよりは寮やアパートの一室のようだ。
「おはよう! 目は覚めたようだね」
ぼんやりとした意識の中で、声が一つ投げられる。ハクは上半身を起こしてベッド横の女性と顔を合わせた。
「あの……ここは……」
カラカラの声が口から搾り出される。当然か。あんなことをしてまだ生きているということはつまりそういうことだろう。
「まだ無理しないほうがいい。ここは印名研究所の寮の空き部屋さ。私はリリアナ、ここの所長をしている。君はハク君……で合ってるよね?」
「印名、研究所」
「君、服薬自殺を図って路地裏に倒れ込んでいただろう? それが運良く発見されて、君は助かったということさ」
服薬自殺。すなわちOD。ハクが最後の最後に取っておいた唯一の切り札。すべてを終わらせるための決断。ハクはこの日のために一年前から少しずつ実家から薬を盗み、組み合わせを考え、致死量になると計算した薬を飲んで自殺を図ったのだった。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「……死にたかったのにかい?」
「それでも、助けていただいたことには変わりありませんから」
「ふぅん。それにしても……」
リリアナと名乗った女性はぐい、とハクの両肩を掴んでニッコリと笑った。
「いやぁ、素晴らしい調合だった! ぜひとも私の研究所に来てもらいたい!」
「……へ?」
「君の噂はかねがね聞いているよ。印名を持たない医者の子ども。印名を持っていないにも関わらず病原を見抜き薬で直したこともあったそうじゃないか! そうして十六歳になった今、〈無印〉になって自殺を図った……と?」
「……可笑しいですか」
「可笑しい? いいやちっともおかしくなんかないね。あの堅い親のことだから勘当でもされたんじゃないか? 十六歳とはいえまだまだ未熟な子どもだろう。そこで、だ」
ハクの噂を既に隅から隅まで知っているのであろうリリアナは、ハクにこう告げる。
「医者の子供なのだから、体のことはよく知っているね? 〈無印〉だろうとなかろうと、頭脳は同じ。そうだろう? それを一緒に証明しようじゃないか」
——そこに「いいえ」などという選択肢はなかった。
◇
「ねぇ、またピアノ弾いてよ兄ちゃん」
「何年振りだと思って言ってんの」
「え、もしかして家出てから一回も弾いてないの……!?」
あんぐりと口を開けたベルンに、ハクはさも当然のことを言う。
「ピアノがないと練習できないだろうが」
「それじゃあ……兄ちゃんが家を出ていったのが僕が九歳の時だから……七年!?」
「まぁ、そういうことになるわな」
ベルンに促されて渋々椅子に座る。真ん中のドに指を乗せて押すと、調律された美しい音がぽーんと鳴った。
手始めにきらきら星でも弾いてみるか……と思い、軽く十年経ちそうな記憶を遡って右手で鍵盤を押す。軽やかなメロディが流れ出していく。
「きーらーきーらーひーかーる、おーそーらーのーほーしーよ」
つられてベルンが歌い出す。それがなんだか癪だったので、
「ちょっ、ちょっと!」
きらきら星変奏曲に変えてやった。
七年ぶりのきらきら星変奏曲はミスタッチも多ければ思い出せない空白も多くとても人に聞かせられるものではなかったが、二人きりならいいだろう。今は人通りも少ない上に、こんな下手くそな演奏に立ち止まる人もいないのだから。
あぁ、なんて自由なんだろう。そうハクは思った。
昔もこんなふうに二人でピアノを弾いて笑い合っていた。ハクが弾く曲ばかりを羨ましがってベルンも同じ曲を選んで弾いていた。トロイメライだってそうだ。あの頃のベルンには難しかっただろうが、必死についていこうとしていたものだ。弾き方もハクを模して。
「この前の星祭り、綺麗だったね」
「……あぁ、そうだな」
一瞬、ハクの手が固まる。さっきその話をしたばかりだったからだ。手袋の下で、カチリと震えた手が鳴った。
こいつには何も知られたくない。知らないまま、純粋無垢のままであってほしい。ただ、一つ言い残したことといえば……、
「ありがとうな、助けてくれて」
「え?」
「お前だろ、あの時助けてくれたの」
〝あの時〟を強調すると、それはどうやらベルンにも伝わったらしく。
「えっ、な、なんのこと?」
「とぼけるなよ、……ありがとな」
七年ぶりの再会でようやく、ハクはベルンという一人の医者の卵に、〈治療-除去〉の恩人に礼を述べることができたのだった。




