第十話 〈無印〉の青年②
印名研究所。それは、世界中の様々な分野の学者が集った、中央都市のほぼ中央にある施設だ。中央都市の中央なのだから、世界の中心と言っても過言ではない。実際、印名について困ったことがあれば中央都市の印名研究所の門を叩けというのは、子どもたちも知っている。
ただしそれは『寛容な親や村』であった場合だ。印名を持たぬ〈無印〉に厳しい視線や態度を見せる人々や村は少なくなったとはいえ、完全になくなったとは言えない。現にノッテは印名研究所の存在自体をも知らなかったのだから。
リリアナが先代の所長——父親から後を継いで十数年。印名研究所はその間に一切の功績を残しておらず、今となっては〈無印〉の就職の相談に乗ることや、〈印名〉の扱い方が自分のものになっていない人の相談に乗るなど、研究というよりはサポートの面が多い。それでも救われた者は多いのだが、肝心の「印名とはなんなのか」「無印はなぜ生まれるのか」という核心には至っていない。
今日も長い一日が始まる。リリアナに勧誘されたあの日からハクの研究の日々は続いているが、彼自身の医学の知識が研究に役に立ったことはほとんどなく。
あぁ、せめて。せめてこの左手が役に立てば。ハクは着替えながら、左腕をじっと眺める。
改めて見ると奇妙でぞわりとする腕だ。少なくとも普通の腕ではないのだから。右手で軽く叩くとコツ、コツ、といかにも鉱石に触れた音がする。質感だってそうだ。皮膚のようなしなやかで柔らかな感触はなく、まるで鉱石そのものを義手にしたような硬さ。滑らかに動くことが不思議なくらいに。
いずれ動かなくなる日が来るのだろうか。否、こうして動いていることが奇跡だと言うべきだろう。そしていつか、感覚もなくなっていくのだろう。いずれは全身に巡って……。
あの時素手で星に触れた時。あの日からハクの左手は変わった。本人にしか得られない確証があった。これは言語化するのが難しく、また根拠や裏付けもないためリリアナには話していないことだが。体の中の何かが「カチリ」と音を立てて変わったような気がしたのだ。
もし仮に〈印名〉を〝魔法〟と呼ぶなら。〈無印〉を魔法が使えない人であるとするなら。透明硬化症は、魔法を解かれたのだ。呪いと言い換えてもいい。
ハクはこう結論付ける。非科学的で自嘲するが、それでも。
透明硬化症は、生きる未来を奪う病気であると。
◇
ハクがストリートピアノの付近へ来ると、少女がピアノの蓋を開けて何かを弄っていた。ハクは知っている。実家のピアノもされたことがある。すなわち調律だ。
調律師の少女がハクの視線に気づくと、手を振って手招きをしている。ハクは後ろを向く、が誰もいない。俺か、と自分を指差すと、少女はこくりと頷いた。
「ここ一週間毎日通ってました……よね。だからきっと今日も来ると思って。ハクさん、ですよね。きっとあなたは覚えていらっしゃらないでしょうけど、あなたの家の調律をしていたのは私の母でした。私は母に時々着いて行って、母の仕事を見学していたんです。そこであなたを見かけていました」
ハクはそれを聞いてしばらく考えた後、ふと一人の少女が調律のときにいたことを思い出す。
「それなら見覚えがある。名前は分からないのが申し訳ないが……」
「あぁ、申し遅れてすみません。母親はアイリーン、あたしはエマと申します。〈絶対音感〉の家系なんです」
「絶対……音感……?」
ハクが首を傾げると、エマは「おや?」と一緒に疑問を持ったようだ。
「ハクさんもお持ちではなかったでしょうか?」
「……俺は、〈無印〉だが……」
それを聞いてエマは目を丸くして「ご、ごめんなさい!」と慌てて謝罪した。
「そ、そうでしたか、すみません、そうとは存じ上げずに失礼なことを……!」
「いや、構わない。見た目だけでは分からないものだから」
「いえ、その……あたしが勝手に思い込んでいたというか……その、ハクさんも、音が分かる人だと思っていたので……」
「————あ」
そこでハクは事実を理解する。エマが勘違いしたのも無理はない。なぜならハクはそれを〝持っている〟からだ。
確かに持っている。音が分かる、というのは恐らく、ピアノで鳴った音がなんの音か分かることだ。きっとそれが〈絶対音感〉なのだ。
ハクはそれが当たり前なのだと思っていた。幼い頃から習わされていたピアノ。鳴った音が分かる力。けれどそれは、医者の息子が持つべき〈印名〉ではなかった。きっと途中で気付いて父親に言ったところで認めてもらえなかっただろう。あの家はそういう家だ。
ここでふと思う。一体、印名の見極めとはどこにあるのだろう、と。トトセやシェリーのように分かりやすく他人と違うことが明確な印名ならいい。だが、〈絶対音感〉のように、生まれつきで本人すら気付かない場合は? それは果たして〈印名〉と呼べるのか? そもそも〈絶対音感〉は〈印名〉なのか……?
「ハクさん?」
「……あぁ、悪い。少し考え事をしていた」
それを確かめる術は今の研究所には存在しない。それを作るべきなのが印名研究所の役割だとも言えるが、それを作る技術も知識もまだまだ足りない。先代から続いていても解明されていないことを、果たしてどの道筋から解明していけばいいというのか。
「邪魔したな、今日はこれで帰るよ」
「そんなお邪魔だなんて思ってないです、ぜひ弾いていってください、ちょうど調律し終わったんです」
「いいや、申し訳ないんだが用事があるんだ」
この思考を研究所でメモしておきたいと思ったのだ。なら、早いほうがいい。
「調律してくれてありがとう、じゃあ」
「いえいえ、こちらこそです! ではまた!」
そう言ってハクとエマは別れる。ハクは研究所の方向へ、エマは逆の方向へと。ハクは早足で研究所へと帰り、寮の自室へと戻った。
印名を見極める方法など存在しないかもしれない。しかしもし、装置を使うだけで印名が分かるものがあったら? そんなものができたのなら大発明と言えるだろう。しかし今の技術では駄目だ。欠けているものが多すぎる。まず印名の有無を決めるのは何なのかも分かっていないし、その印名が本当にその人の印名であると確証付けるものもない。それに……しかし……。
ハクのメモも手詰まりとなった頃。一人の来客が訪れた。受付をしている女性だ。
「ハクさん、トトセさんがお見えになってますが」
「トトセ? 分かった、自室にいると伝えてくれ」
トトセなら寮の自室の場所も把握している。それに話したいこともあった。息抜きにはちょうどいいだろう。
三度のノックの音と、「入っていいー?」というトトセの声。ハクがドアを開けると、そこにはいつもの姿——絵の具で汚れたデニムのオーバーオール姿のトトセがいた。
「いつもと同じでなんにもない部屋だね、ここは」
「今お茶を入れるよ。コーヒーは飲めないだろ? ……で、なんの用だ」
「特に用はないよ。ただ君、ここ最近こっちに来なくなっただろ? だから顔が見たくなっちゃってさ」
コポコポと注がれていくコーヒーとお茶の音を背景に、トトセはハクの腕の調子を問う。
「腕の調子はどうだい? と言ってもあれから一週間しか経ってないけど」
「一週間じゃ変わらねぇよ。元気だよ」
「星祭りが四月だったから、えーっと、いち、にぃ、さん……」
「大体半年」
「そっか、半年くらいか」
半年で前腕半分。同じペースで進行していくなら、一年で大体肘くらい、あるいは左腕全体。全身を巡るまでは多くても数年、進行するペースが早まるならもっと短くなる。その上今は感覚があっても次にはもうないかもしれない。次会ったときには話せなくなっているかもしれない。未知の病は常に危険と隣り合わせだ。そんなの、ハクはとうに分かっていることだろう。
現状を理解し始めたせいで少しずつ青ざめていくトトセに、ハクは一つの声を投げかけた。
「なぁ、トトセ。もし……もしも、俺が全部石になってしまったら、その石で絵を描いてくれねぇか」
「……え?」
「調べたんだよ、遺灰で絵を描くサービスがあるんだと。何を描くかは任せるよ」
トトセの絵ならきっと綺麗な絵になる、とハクは付け足して口角を上げる。言われた相方がどんな反応をするかなんて想像もしないで。
「……そう、そうだね。きっと綺麗な絵になるよ、ううん、してみせるよ。でもね、ハク」
トトセはもらったお茶を机の上に置いて告げる。
「嫌だ」
ハクの思考は固まる。今何と言われたのか一瞬じゃ理解できなくて。きっとトトセなら喜んで絵を描いてくれると思った。綺麗だと言ってくれた。綺麗な絵にしてみせるとも言ってくれた。けれど答えは。
「お前、今、なんて、」
「嫌だって言ったんだよ、ハク」
あぁそうか、嫌だと言われたんだ。こんなにも真剣に考えて、緊張してる素振りを見せないように注意深く言葉を発したのに、それであっさりと断られたのだ。
それならそれでいい。それなら、
ハクは息を吸って覚悟を決める。嫌われる覚悟を。もう二度と出会わないように。きっとそうすればトトセも怒って二度と自分に近づかなくなってくれる。……死に際にトトセが悲しまないように。
「……嫌いだ、嫌いだったんだよ昔から、お前のそういうところ……!」
「え、ちょっと何さ突然、」
「いつも好き勝手で、わがままばっかりで、相手のことを一切考えないその言動が昔から大嫌いだったんだよ! いっつも迷惑ばっかりかけて、振り回されるこっちの身にもなってくれよ……!」
「ち、ちょっと、ハク……!」
珍しく取り乱したハクに、トトセの脳内ははただごとじゃないとパニックになる。トトセの落ち着いてよ! という声も届かず、ハクはトトセの嫌いなところをいくつも上げてくる。きりがない。ハクがどれだけトトセに迷惑をかけられて困ってきたかが露わになった瞬間だった。
それならば、こちらが冷静に対処するしかない。
「——ハク」
「……で……だから……それで!」
「ハク!」
「なんだよ!」
ようやくハクの口撃が止まる。何度も同じ話を蒸し返され、トトセだって一つや二つ、いや三つ四つと言い返してやりたいところだが、それはぐっと抑えて深呼吸をする。
「わがまま……うん、わがままかも。あはは、僕っていっつもわがままばっかりだよね。
……知ってるよ。こういう自分がみんなに好かれないことも、僕もそういう自分があんまり好きじゃないことも。でもね、ハクは僕に、わがままばっかりの僕に、ハクは『それがお前だろ』って言ってくれたんだよ。小学生の時に」
「……え」
「それにさ、ハクはもっと言っていいと思うんだよね、わがまま」
「————っ」
「……ハクさ、我慢する時ちょっとだけ袖つまむよね。ほら、今も。左手で右の袖をさ。まぁ今は手袋で隠れちゃってるけど、なんて。だからさ、そんな顔しないで。『どうにでもなる』って思ってるんでしょ、家を出る直前みたいに。ハク、あの時と同じ顔してるよ」
ハクはそう言われて、ばっと袖から手を離して口を覆った。焦りと諦観は十五歳の〝期限が迫るあの頃〟と似ている。「どうにでもなる」「仕方がない」「もう先はない」……きっとそんな顔をしていたのだ。無意識のうちに。
「僕はハクが、どんな気持ちで家を出たのか知らない。その夜何があったのかも知らない。あ、ほんとに何も知らないよ、ただ、何かあったんだなーってことくらい。僕にも分かるくらい変に吹っ切れたもん」
トトセはそう言って「言わなくていいよー!」と手をぶんぶん振って断った。ハクが言える時でいいよ、と。
「だからさ、袖、つまむんじゃなくて、もっとわがまま言いなよ、僕ほどとは言わないけど」
「……言えるか、馬鹿」
「じゃあ僕が先に言うよ。僕はね、ハクがいなくなることが怖いよ。すごく、すごーく怖い。ハクはいつも僕が気付かないところで消えそうになるでしょ? ……僕、僕ね、ハクの絵の具で絵を描くより、ハクと一緒にいたいよ、生きててほしいんだよ……! ねぇ、ハク。ハクはどうしたい?」
トトセはハクの肩を掴んで最大級のわがままを言い放った。
一瞬、何を言われたのか分からなくて固まるハク。その直後、トトセの言葉を理解すると同時に瞳から何かがこぼれ落ちる。
「そんなこと言われたら、そんな、」
ハクの声は震えていた。
「消えたくないに決まってる」




