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花紺青の結び目  作者: 待灯羊南
第九話 〈絵描き〉の青年
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第九話 〈絵描き〉の青年⑤

 人間の先生。シェリーはそれを受け入れるのにやや時間がかかったようで、少し時間を置いてから『いいですよ』という返事をくれた。

 そして、トトセにはまだ分からないことも多かったが、シェリーはこんなことを話してくれた。


 理解できないことを理解すること。

 理解できないからと匙を投げるのは違うこと。

 理解できないことを知りながら理解しようとすること。


『そろそろ院長先生が来てしまいますね、わたしはそろそろ夕食の準備をしてきます』

「分かった。僕、いい子で待ってるね」


 そうしてシェリーは、トトセの『人間の先生』になったのだった。


       ◇


「目玉を……売ったじゃと?」

「うん……みんなに怒られちゃった。おじいさんも、怒るよね」


 文房具屋のおじいさんはうーむ、と髭を弄りながら唸って、「そうじゃな」とトトセに頷いた。


「しかしその調子だと皆からもこってり怒られたのじゃろう? ならもう、わしの出る幕はないわい」


 おじいさんはふぉっふぉと笑ってトトセの頭を撫でる。


「ねぇおじいさん、今日はここで勉強してもいい?」

「勉強……とな? はて、なんの勉強かの」

「文字を、ちゃんと覚えたいんだ。実は孤児院に、耳は聞こえるけど声が出なくて意思疎通が文字の子がいるんだ。その子ともっともっとやり取りしたくて」

「……いい動機を与えてくださったな。よかろう、わしも見てもいいかの?」

「もちろん!」


 トトセは奥のアトリエへと進むと、机に持ってきた勉強道具を広げ、文字の書き取りを始めた。


       ◇


「トトセ、前に言ってた新しいサングラスだ。度数を高めたから前よりは見やすくなったと思う」

「片方だけでいいのにねぇ、なんてね。冗談だよ」

「はぁ……」


 呆れるハクに、トトセは、


「……ありがとうね、ハク」


 それは、いつもの軽口とは異なる、柔らかであたたかな感謝の言葉で。


「……なんか変わったな」

「んー、そうかな? ……ありがとうね、ハク」

「それ以上その調子で言うな、気が狂う! いつものおちゃらけたお前はどこに行ったんだよ!」

「本当にありがとうって思ってるのに!? ハクひどいよ~」


 もう一つしかないけれど。

 大事にしようって、思うんだ。


       ◇


 それから七年の月日が経った。トトセは十七歳となり、そろそろ孤児院を出る時期へと差し掛かっていた。そんな頃だった。院長先生が大怪我を負ったのは。


「みんな心配かけてごめんねぇ」


 足を滑らせて水路へ落ち、骨折。医者の持つ印名〈回復〉もあって治りも早まるが、院長先生は言った。


「これ以上続けるのは難しいのかもしれないわねぇ……」


 トトセが入所した時から老齢であった院長先生。実はシェリーが来た頃から代替わりをしていなかったのだ。高齢であることは誰の目から見ても明らかだった。そして、あとを継ぐにしても、既に人手が足りていないことも。


「ごめんねぇ……」


 孤児院は元々小規模なもので、七年経った今ではほぼ院長先生とシェリーで回していたため、彼女がいなくなればシェリーしか回す人はいなかった。しかしシェリーは中身はともかく外見は十歳の幼い子ども。それにシェリーのことは、その身が成長しないことから孤児院の外には一切情報を漏らしていない。だから外から見れば孤児院には子どもしかおらず、結果、孤児院は閉鎖せざるを得なくなってしまった。


「せめて次の行き先だけは決めるから。あの子たちがちゃんと、大人になっていけるように」


 そうして、今いる子どもたちは他の孤児院へ受け入れてもらう、つまり散り散りになったのだった。



「……になるんだって。僕も他の孤児院に行くことになるかもしれないし、自立しなくちゃいけないかもしれない」

「トトセ。実はわしからも話があってな、実はこの店を閉めることになったんじゃ」


 いつものようにレイニー文具店に通っていたトトセは息を呑んだ。


「ど、どうして!? おじいさんまだまだ元気でしょ! なんで……?」

「ふぉっふぉっ、わしもかなりの年じゃぞ。お前さんと出会ってからもう……何年じゃったかな」

「五つからだから十二年だよおじいさん」

「じゃろう? わしもかなり年を取ってな、数年前から息子夫婦や孫と暮らさぬかと言われておったんじゃ。最初は断っていたが、もうこの年じゃしのう……」


 店長のおじいさんは「すまぬのぅ……」と、絵を描いているトトセの頭を撫でた。


「じゃあ、この店も、このアトリエも、全部なくなっちゃうの? そんな、そんなの嫌だ! 嫌だよ……」


 トトセがここまで嫌がるのには訳があった。過去、己が軽い気持ちでつけた自分の名前。トッドとセリカという両親。そこから更に結びつく一つのアパート。トトセは数年前にふと思いつき、調べて辿り、その足を進めた。しかしそこにあったのはアパートの欠片もない知らない家で。

 自分が生まれた家が、そして育った家が、大切な居場所が次々なくなっていく。それがトトセにはとても悲しくて、やるせなくて。


「ねぇ、おじいさん。この店、僕が継いじゃダメ?」

「ダメというわけはないが……お前さんに店の経営ができるかの」

「が、頑張るから! だからお願い、もう、なにもなくしたくないんだよ……っ!」


 トトセがあまりにも切迫したように言うので、おじいさんは「わかった、わかったから」と、トトセを安心させようとその手を握る。しわくちゃの手で、あたたかくて優しい手だ。この手にトトセは何度助けられたことだろう。


「幸い、わしがここを去るまであと数ヶ月ある。その間に店のことを叩き込むぞ」

「ま、待って! もう一人連れてきてもいい? 一緒に住む子なんだけど……」

「なんと。もうそんな年頃か……前に言ってた筆談の子じゃろう? 構わん構わん、トトセよりもしっかりしてそうで楽しみじゃの」

「うん、しっかりしてるよ。僕よりもきっと頼りになる」


 その後、トトセが外見十歳の少女を連れてきたせいでおじさんの腰が抜けそうになったのは、別の話。


       ◇


 孤児院の行き先が決まっていく中、シェリーは宙ぶらりん状態にあった。できることなら他の孤児院でまた同じように引きこもって働きたい。けれどその受け入れ先がまだ見つかっていなかった。そんな中。


「ねぇシェリー、今、手空いてる? 話したいことがあるんだけど……」


 子どもたちの寝かしつけも終わり、寝る支度をしていたシェリーはトトセの声に立ち止まって頷いた。何かを察したのか、シェリーはちょいちょい、と手招きをして、自分の部屋を指す。


「ありがとう、お邪魔させてもらうね」


 シェリーの部屋はとても質素だった。十歳の子どもとは思えないほど飾り気のない、シンプルで最低限のものしかなくて、更に何か言うなら「何もない」ところだった。趣味がない大人の人の部屋ってこんな感じなんだろうか。トトセはつまらないな、と思うのと同時にシェリーらしいな、とも思った。


 案内された椅子に腰掛けると、シェリーはベッドにちょこんと座り、スケッチブックを出す。


「それで、話っていうのはね……」


 単刀直入にトトセは話す。長い間お世話になっていた文具店が閉店してしまうこと、それを止めるために自分が後を継ぎたいこと、そこにシェリーに来てほしいということ。


 シェリーはそれを聞いて、目を丸くした。いつも微笑みを絶やさないシェリーがそれを崩したのは数えるほどで、だからトトセもびっくりしてしまった。こんなことで、彼女は表情を変えるのだ、と。蜘蛛事件ではぴくりともしなかった彼女が。


『……どうして、わたしなんですか』

「君しかいないと思った。君じゃなきゃ駄目なんだ。僕には君が必要なんだ。七年前、誰一人として僕の話をまともに聞いてくれなかった中で、唯一話しかけてくれたのは君だったんだ」

『人間の先生、ですよね』

「そう、君は僕の先生……ここ十年近くも何もやらかさなかったのは、僕が〝人間〟で在れたのは、君のおかげなんだ。君に全部相談して、院長先生とも話をして、みんなと会話をして、少しずつだけど分かってきた。でもまだ分からないことだらけなんだよ。お店の経営だってそうなんだけど」

『それで、わたしに……』

「お店の経営を全部任せたいわけじゃない、これは僕が僕で在るための、〝人間〟でいるための……要するに、ただのエゴだ」


 トトセは息を吸って、頭を下げる。


「お願いだ、シェリー。僕を、助けてほしい」


 シェリーの身の安全を考えれば、孤児院に引きこもることが最善だ。それは停滞をも意味するのだが、シェリーの体が停滞している以上それが最善なのだ。


 トトセに着いて行ってその姿を世界に現せば、印名研究所は黙っていないだろう。痛いことはしないかもしれないがきっと手は出してくる。印名研究所だけじゃない。不老不死になりたい人たちがシェリーを狙うかもしれない。


 トトセは多分それも分かっている。分かっている上でこうして頭を下げているのだ。自分のせいでシェリーが危ない目に遭うかもしれない。責任は……きっと取れない。もしも何かがあった時、シェリーを確実に助けられる手段をトトセは持ち合わせていないのだから。

 それでも。そうだとしても。


「分かってる、こういうことを言ったらシェリーが断れないこと。だから命令じゃなくて、お願いなんだ。お願い、シェリー。僕に人間を、人の心を、教えて」


 顔を上げるトトセ。そこには、シェリーの返答のスケッチブックがあった。


『約束、しましたから。まさかここまで頼られるとは思っていなかったのですが……トトセさんを放ってはおけませんからね』


 シェリーは頷いて、トトセをぎゅっと抱きしめた。まるでそれは幼子をあやすように、あるいは、いい子いい子と撫でるように。


「本当に、いいの? 外は危険がいっぱいなんだよ」

『分かっています。けれどトトセさんを野放しにする方がよっぽど危険ですから』


 まるで野生の生き物みたいな言い方をされて、トトセは呆れたように笑みをこぼした。実際はそう見えているんだろうな、僕ってやつは。


 そうして次の日の朝、シェリーとトトセは一緒に文房具屋に行っておじいさんの腰を抜きそうになった。


 「こんな若い子に」とおじいさんは最初驚いていたが、おじいさんはシェリーの実年齢がズレていることを今までの話から総合的に理解し、シェリーとトトセにこの店の全てを教え始めた。経営からアトリエ、住居まで。全てをこなすには数カ月かかり、おじいさんがいなくなってしまう前日まで勉強会は続いた。


 シェリーが物分かりがよくすぐに覚えたこと、おじいさんが残してくれたノートが分かりやすくて助かったことから、トトセが理解できていない部分もシェリーやノートがカバーしてくれることとなった。


「また、遊びに来てね。今度はどーんと構えてるから!」

『短い間でしたがありがとうございました。あと、長い間トトセの相手をしてくださってありがとうございました』

「ふぉっふぉっ、元気でな、二人とも。また来るからの、店は任せたぞい」


 そうしておじいさんは、息子夫婦と一緒に店を去っていった。

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