第七話 〈夢切り〉の少女③
家族四人で再び暮らすようになって落ち着いた頃、ノッテの母はまた代筆屋を始めた。父は機嫌が悪いと自分で感じた時に自室に引きこもるようになった。そのおかげで、ノッテは以前のように蹴られ怒鳴られながら暮らすことはなくなった。
……なくなったはずなのに、未だに「怒られるかもしれない」「怒鳴られるかもしれない」「蹴られるかもしれない」という想像をしてしまう自分がいた。再び一緒に暮らし始めてから二年の間、暴力は一切なかったけれど、その気持ちが拭われることも一切なかった。
口数が日によって異なる母親も、ノッテの神経をすり減らす一つの要因となっていた。怒ってないだろうか、今は元気なのだろうか、話しかけていいのだろうか。思えば、誰に対してもビクビクしながら暮らしていた気がする。
その頃からだろうか、母親は元気な時、ノッテと兄が知らない「お父さん」の話をしてくれるようになった。大きな翼を持ち、優しく、おおらかで温かかった「お父さん」。郵便配達員になれない〈無印〉の母でも、大切に思ってくれて二人は結ばれたこと。二人の間に兄であるアルバを授かったこと。けれど、アルバが生まれる前に「お父さん」は事故で亡くなってしまったこと。その後に出会ったのが、ノッテと血の繋がっている父親だったということ。
「お父さん」の話をする母はとても温かくて、ノッテの心を、そして「父親は怖いもの」という価値観の氷を溶かしていった。それと同時に、寂しくも思った。どうして「お父さん」は死んでしまったのだろう。「お父さん」が亡くならなければ、母さんも兄さんも、「お父さん」と三人で楽しく暮らすことが出来たのに。
——私が生まれることなんて無かったのに。
自分が生まれたせいで、母さんも兄さんも苦しんだ。生まれたのは選べることじゃないから自分にはどうすることも出来ないけれど、それでも、私のせいなのだ。だってそうすれば、そう思えば、何もかもが丸く収まるから。……ほんの少し、ほんの少しだけ、母さんや父さんを恨んだことはあるけれど。
何も出来ないまま二年という時間だけが過ぎて、とうとう十五歳になった。
家での疎外感を隠せなかったのに結局「旅に出たい」と親に言い出せなかったノッテを、「中央都市に行ってみないか」と誘ったのは兄だった。兄は十六歳になって成人した時に郵便配達のアルバイトを始めていたので、中央都市やこの世界にノッテや母親より詳しくなっていたのだった。中央都市へ行けば仕事や無印のことについても知ることが出来るから、と。母も、中央都市へ旅立つノッテを祝福し見送ってくれた。その時から、ノッテは母親にも父親にも会っていない。
ノッテが今纏っているこの服は、その時にノッテの母が作った羽耳族の伝統衣装だ。羽耳族は青く染めた布を大切に纏う文化がある。白い布生地をベースに首や腰に大きな青い布を飾り、金の装飾品を身に付ける。靴は、少しでも背が高く見えるように厚底のサンダルを履く。兄さんとお揃いだ。羽耳族は空を飛ぶために背が低い。そのため厚底の靴が好まれるのだそうだ。
中央都市に着いてようやく、ノッテは兄にだけ、旅に出たいことを話した。過保護で心配症の兄は「いや……でも……」と否定の言葉から入ったが、最後は「いいんじゃないかな」と頷いてくれた。そうして旅立ちの日取りも決まっていった。
ノッテは兄が選んでくれていた下宿先を選ばず、トトセたちに会いに行った。二年前と変わらず温かく迎えてくれた上、ホットココアの味も相変わらずふんわりとした甘さで優しかった。下宿先にしてくれないかという無理なお願いも、二年前と変わらずに快く引き受けてくれた。
二階を案内され、奥の部屋へ進んだ。途中二部屋あったが、一つにはトトセと書かれた看板が、もう一つにはシェリーと書かれた看板がかかっていた。そうして残る、奥の一つの部屋。
「シェリー、手入れをしていて良かったね。僕だったら放ったらかしにしてゴミ屋敷にしていたよ」
やや埃の匂いはするが、本棚やテーブル、ベッドが備え付けられた一部屋。布団も、日々の手入れのおかげかこのまま眠れそうだ。
「本当にお借りしていいんですよね……?」
「勿論! だってただ持ってる空き部屋なんてつまらないじゃないか。その代わりと言ってはなんだけれど、僕やシェリーの手伝いをする条件でトントンにしよう。君もその方がいいだろう? 僕らは部屋を提供する。君は手伝いをしながらここに住む。しかも食事も付いてくる」
こんなに美味しい話を、そのまま飲み込んでもいいのだろうか。罰が当たりそうで怖かった。けれど、ここを離れればノッテはまた独りになる。あの家にはもう、帰りたくなかった。
「……有難く、使わせていただきます。お世話になります」
ノッテはトトセとシェリーにお辞儀をし、顔を上げた。二度目ましての二人。けれど、相変わらず悪い人ではなさそうだ。トトセは二十歳前後、シェリーは十歳前後だろうか。ノッテはちょうど二人の真ん中辺りの年齢だ。
きっと上手くやってみせるから。だから、お母さんもお父さんも兄さんも安心してて。
◇
翌朝。
ゆさゆさと揺れる感覚に、ノッテは薄く目を開いた。微かな視界に、女の子の顔が映る。シェリーだ。
「あ……おはよう…………」
起こされた、ということは遅い時間なのだろうか。ノッテは飛び起きて時間を見る。まだ朝と呼べる時間帯だが、他人の家にお邪魔しているのにこの時間は少しまずいかもしれない。
「ごめん……起こしてくれてありがとう」
微かな朝食の香りがする。シェリーは気にしてないですよと言うように手を振って微笑む。ノッテの朝の弱さは、もし旅に出ることになった時に足を引っ張るだろう。そもそも旅に出られるかどうかが問題だが。
このまま、この家にお邪魔し続けることもいいことなのかもしれない。無理に旅に出なくても、中央都市は都会だし、豊かに暮らせるだろう。無印に対する偏見も少ないと聞いた。それに印名がないからキャラバンにも断られる可能性が高い。もしこのまま無印になっても、中央都市に永住する選択肢もある。そういう人達に、巡り会えたのだから。
「おはようノッテ。よく眠れたかい?」
先に朝食を摂っているトトセが声をかけてくる。まだあまり手をつけていないことから、食べ始めてからあまり経っていないことが伺える。
「はい、眠れました。ふかふかの布団でした」
それを聞いてトトセは良かった! と嬉しそうに笑う。そして、会話を続ける。
「君に紹介したい施設があるんだ。ハクのことは覚えてる? 彼が勤めている職場なんだけどね。今日はそこに一緒に行かない?」
「施設……ですか?」
「あぁいや、君を施設送りにする訳じゃないんだ。印名や無印について研究している所があってね。君も一度見学したらどうかなーと思っただけさ。嫌なら行かなくても……、」
「——行ってみたいです」
ノッテは即答した。世界の中心とも言えるほど栄えている中央都市の、印名専門の研究所。そこに連れて行ってもらえるという。知りたい。自分のことも、これから歩むかもしれない無印の道も、印名のことも。
印名に振り回されるなんて、もううんざりだ。
「じゃあ朝ご飯食べ終わったら支度してね。すぐ近くだから、とりあえず貴重品とか、小さいカバンで大丈夫。あと実験されたりとかはしないから平気だよ」
「実験……」
「されないってば。という訳でシェリー、店番は頼んだよ。夕方には帰ってくると思う」
ノッテの分の朝食をテーブルに並べていたシェリーは、承りましたと頷いた。慣れたように流すその動作は、二人がいつからここで暮らしているのかを考えさせられる。声の出ない女の子と、片目が隠れている男性。性格はほぼ真反対。けれど、とてもいいコンビだとノッテは感じる。
朝食を片付けた後、部屋に戻ってカバンにお金や筆記用具を詰めていく。
「行ってきます」
「行ってくるね」
シェリーはドア先まで見送ってくれた。振り返ると、手を振っている彼女が見えた。
「小さな女の子を一人にして大丈夫なんですか?」
「いつものことだよ。それにああ見えてシェリー、結構強い」
「えっ」
「なんてね。嘘か本当かはいつか自分の目で確かめるといいよ」
トトセは冗談が好きなようだ。真に受けるノッテにとっては少し苦手な相手……かもしれない。少なくとも慣れが必要だ。
「さあ着いた。ここだよ」
徒歩十五分、と言ったところだろう。話しながら歩くとあっという間に着いた。
水路に面した入口に、病院のような真っ白な壁を持つ広くて大きな建物。まず目を引いたのは六、七階ほどある高さだろうか。この辺りの建物よりもずっと高い。
「印名研究所……」
「印名や無印について専門的に研究している施設だよ。ハクもここで研究してるんだって……たぶん」
施設の中に入ると、入口付近のカウンターにいる若い女性に声をかけられる。不審者……ではなく、どうやら面識があって声をかけたようだ。
「あぁこんにちは、トトセさん。ハクさんを呼べばいいですか?」
「察しがいいね。まぁ僕がここに来るということは大体彼目当てなのだけれど。よろしくー」
先程の女性がカウンターから綺麗な姿勢で現れ、「こちらへ」と案内してくれる。
「今ハクさんを呼びますから、そこで待っていてください」
案内されたのはロビーのソファだ。トトセはよいしょと腰掛け、ノッテはその隣にちょこんとすわる。
「あの、ハクさんって、二年前に一緒にいた橙色の髪を一つに結った方……で合ってますか?」
「そうそう、合ってるよ! 僕の幼馴染。そして彼はここで研究をしている〈無印〉だよ」
「〈無印〉…………」
無印が研究職に就いている。中央都市では当たり前なのだろうか。少なくとも、ノッテの故郷や母の元では、無印はほとんど良い扱いをされてこなかった。文字の読み書きが出来て代筆が営める母はいい方だ。それとも、彼自身が実験台になっていたりするのだろうか……。
「よ、トトセ。……ともう一人いるな。今日は冷やかしに来たわけじゃなさそうだな」
橙色の髪を後ろで束ね、灰色のタートルネックの上に白衣を羽織った彼は、いかにも研究員に見えた。
「やぁハク。今は手が空いてるかい? ちょっと相談したいことがあるんだ」
「……相談? その子……はもしかして二年前の……!」
「だから連れてきたんだよ。と言っても、僕も昨日この子とまた会ったばかりなんだけど」
トトセの後ろに隠れていたノッテは、少し前へ出て、小さくお辞儀をする。
「改めまして、ノッテです。……まだ印名はありません」
「……歳は?」
「十五と半分……です」
ノッテの軽い自己紹介に、ハクは顎に手を当てて、む、と考え込んだ。
「ノッテは中央都市の出身じゃないんだよな? 分かった。俺が教えてやる。二年前よりきちんとしたやつをな。
改めて、俺はハク。ここで研究員をしている。まだ肝心なところは掴んでいないが、印名持ちと〈無印〉についての話なら出来るだろう。その凝り固まった見方も解さないといけないしな」
ハクは着いてこい、と言って白衣を翻した。ノッテはその後を追う。トトセは帰りにまた迎えに来ると言ってどこかへ行ってしまった。
「トトセさん本当に迎えに来てくれますかね……」
「来なかったら俺が送ってやるから気にするな、あとトトセのことだ、多分忘れるから来ないぞ」
口調は荒いけど根は悪い人ではなさそう、というのがハクに対してのノッテの印象だ。とはいえ、口調や目つきはあまり良くないので話しかけるのには勇気がいる。ましてや二人きりである。何を話せばいいのかなんて検討もつかない。
黙ったまま廊下を歩くこと数分。ハクと書かれたプレートが貼られている扉を、彼はがちゃりと開けた。
「ここは俺の研究室だ。コーヒーは飲めるか?」
「………………大丈夫です」
一瞬の間を、ハクは見逃さなかった。
「……無理すんなよ」
「いえ……大丈夫、です」
「……あのな、遠慮するところを間違えるなって言ってんだ、な」
こぽこぽと液体を注ぐ音がし、赤茶色の液体が注がれたマグカップがノッテの元へ差し出された。コーヒーが飲めないのが分かってホットココアにしてくれたのだ。
「……ありがとうございます」
ノッテが座っている椅子の正面に、ハクは机から持ってきた椅子を置いて腰掛けた。
「さて、何から話そうか」




