憧れと痛み
【秋山海斗】
夏休みの廊下は、静寂に満たされた心安らぐ場所になっていた。
「この時期だと、全然人いねぇよなぁ」
しかし、俺の隣に並ぶ七生にはこの空間は退屈だったようで、大きな欠伸をしている。
「夏休みだからね」
俺が説明を加えると、七生は頭の後ろに組んでいた両手をグッと上に伸ばした。
「彩葉ちゃんは最近元気にしてる?」
つまらなさそうにしている七生に話題を振ると、細めていた目がパッチリと開く。
「今のところは……な」
七生は含みのある言い方で、俺に伝えた。
「なんだか、元気なことが当たり前じゃないみたいな言い方だね」
「そういや、お前には言ってなかったっけ? 彩葉って、昔から体が弱くて、よく入院してんだよ。あたしが彩葉に初めて会ったときも、病院だった」
七生は遠くを見て、彩葉ちゃんとの昔話を楽しげに語り始めた。
「彩葉、両親と離ればなれになるって分かったとき、すげぇ泣いてたなぁ。あたしは偶然隣の病室だったから、よく聞こえてたんだー」
七生は笑い交じりに喋りながら、階段を下っていく。
「だから、あたしは隣の部屋に飛んであの手この手で慰めようとするんだけど、全然上手くいかなくてさ。挙句の果てにはあたしまで泣きそうになっちゃって……」
階段を下った俺たちは、そのまま真っ直ぐ購買部を目指して、歩みを進めていく。
「そのときに、あたしはあの人に出会ったんだ。彩葉とあたしを一緒に抱いて、枯れるまで泣かせてくれた」
七生が新たな登場人物の話をすると、購買部へ向かっていた俺の足がひとりでに止まった。
少し遅れて七生が気づくと、後ろを向いて案じ顔で俺を見る。
「どうした?」
「いや、なんでも……」
俺は七生から逃れるように視線を逸らす。
「あー、そうか……」
しかし、七生はすぐに気づいたようで、やってしまったと額を片手で覆う。
「あたしにとっては憧れの人だけど、やっぱお前には違って見えるのか?」
俺は俯いたまま、頭の中で答えを探し求める。
七生が言っているあの人とは、きっと俺の知っている人物だ。
優しさを、温もりを、それまでに自分に無かった全てを与えてくれた人。
その記憶に触れようとすると、拒絶するように痛みが走り出す。
そして、二度と触れられないように全てを包み込み、誰からも気づかれない隅っこに放り投げるのだ。
「……ごめん。今は控えてほしい」
結局、この短時間で答えは出せず、先送りした。
「そっか、悪かったな」
「悪いのはこっちだよ。本当はもっと話したいんじゃない?」
「そりゃ、そうだけど……」
最初は気まずそうに頬を人差し指で掻いていた七生だったが、返す言葉を見つけると歯をむき出しにして笑い、こう言った。
「話したくなったら、陽炎でもとっ捕まえて、無理矢理話し相手にさせるよ」
「なんだか、陽炎にまで申し訳なくなるよ」
「あいつは気にすんな。どうせ、拳でしか語れる術を知らないだろうから、あたしが話術をきっちりと叩き込んでやらねぇと」
七生は委縮する俺の肩をバシッと叩いて、無理矢理納得させようとする。
「とにかく、お姉ちゃんはいつだって妹のことが心配ってことでこの話はお終い! とっとと昼飯買って教室に戻ろうぜ」
「綺麗にまとめたね」
「こういうのは得意なんだ」
この後、俺たちは話すことなく、購買部へスタスタと歩くのだった。
「えーっと、あいつらから頼まれてたのは……」
購買部に着くと、俺は二人から頼まれた品物をメモした紙を開き、七生にそれを見せる。
七生はメモに書かれた品を読み上げると、おばちゃんは素早い手つきで全てのパンと牛乳を袋に詰めていった。
お金は一旦俺が払うことになり、四つに分けられた袋をお互いに二つずつ手に持って、購買部を離れる。
「えーっと、焼きそばパンが二つに……」
「ところで、海斗」
俺はレシートを見て、返してもらう金額を計算していると、七生が横から割り込んできた。
「お前、あのときのことを覚えているよな」
「……あのとき?」
身に覚えのない俺は七生に訊き返す。
「ほら、陽炎と彩葉と四人で出かけたときのことだよ」
「……あ」
そのときのことを思い出すと、悪い予感を察した。
あの日、俺は二人に断りもなく、勝手に抜け出してしまったのだ。
「まさかお前、何の詫びも入れずに、あたしや彩葉と一緒に過ごそうなんて思ってなぇよなぁ」
「ごめんなさい。許してください」
俺は罪悪感を煽る七生から逃れようと、謝罪の言葉で手を打つ。
「どうしよっかなー。あたしも彩葉も楽しみにしてたから、あの後相当落ち込んだんだよなー」
「……できることなら、なんでもしますから」
すると、七生は獲物が罠にかかったようなしたり顔で俺を見てきた。
「……その言葉に、二言はないな?」
俺は心を震わせながら、コクリと小さく頷く。
「よぉーし、まずは手始めに、あたしのお昼代を全額負担してもらうところからにしてやろうかぁ」
「……分かりました」
七生の昼御飯はパン三つと牛乳一本で、総額は概ね八百円といったところか。
手始めということは、今回で終わりというわけではないということだろう。
これでは、これからの生活が思いやられる……。
「悪く思うなよ。あたしも金が無いわけじゃないんだが、使いたいところは別にあるからなー」
上機嫌な七生は、沈む俺の肩をバシバシと叩く。
だが、全てが裏目に出るような取引ではないことは、俺には分かっていた。
何故なら、七生の言うお金の使い道は、入院中に彼女が見せてきた背中から、なんとなく想像ができていたからだ。
「次はお手柔らかにお願いします」
念を押して言うと、七生はいたずらな笑みを浮かべてこう返した。
「どうしよっかなー」
そんな顔をされてしまっては、情状酌量の余地はなさそうだ。
それでも、俺はこの交渉を不利益だとは思わない。




