決意と後悔
【春香由紀】
海斗君と七生さんがお昼を買いに購買部へ行っている間、教室には私と陽炎君の二人きりになった。
陽炎君はさっきまでとは違った目つきで、遠くの方を見ている。
私たちは今日初めて言葉を交わす関係ではない。
それゆえの気まずさが、私は話す言葉に迷った。
静寂に包まれた教室。
グラウンドで部活の練習に勤しんでいる運動部の声が、耳にまで届いてくる。
「……意外だな。まさか、兄貴と楽しそうに登校してくるとは」
すると、だんまりだった陽炎君が、唐突に口を切る。
「どうして、戻ってきたんだ?」
陽炎君の問いに、私は俯いて答える。
「ここで逃げたら、もう二度と、欲しいものは手に入らない気がしたから」
「欲しいものって、兄貴のことか?」
「どうだろう。海斗君のような気もするし、もっと別の……近いものかもしれない」
「そうか……」
陽炎君は椅子に深くもたれかかり、後頭部に両手を組んで天井を見上げる。
「まぁ、お前が誰と仲良くしてようと、俺には関係ねぇけどよ。もし、兄貴に何かあったときは……」
そう言って、陽炎君は初めて会ったときのような鋭い目つきを私に向けてきた。
「うん、分かってる。迷惑はもうかけない」
私は心の底から誓うように、力強く告げた。
「……ただ、頼りにはさせてもらおうとは思ってるかな」
そして、私は初めて陽炎君の目を見て、言葉を伝えた。
「……そうかよ」
陽炎君は私から真っ直ぐ目を向け直す。
心なしか、その横顔は少し笑っているように映った。
「最近一人暮らし始めたから、今は隣の海斗君からいろいろ教えてもらってるんだ」
「へー、そうかい。……何っ!?」
ゆったりとくつろいでいた陽炎君が、飛びあがって私の方に圧をかけて迫ってきた。
「お前、今兄貴の隣に住んでんのか!?」
「う、うん。美奈さんに空き部屋紹介してもらったのが、そこだったんだよ」
「よし、そんじゃ、今度は俺に反対側の隣の部屋を紹介しろ! すぐに移住するから!!」
興奮した陽炎君は私の両肩を掴んで、前後に激しく揺らした。
「もう埋まってるよ!」
「くぅ……それなら止むを得ん。俺もお前の部屋に引っ越す。だから、俺たち同居すんぞ!」
今度は私の両頬を掴んで、限界まで引っ張った。
「ええーーーーーっ!!」
この時、私は彼のことを一つ知った。
陽炎君はヒートアップすると、何も見えなくなっていつの間にか距離感が近くなってしまうようだ。
結局、陽炎君の暴走は時間を経るごとに治まっていき、同居するという突拍子もない提案は自然消滅していた。
「くっそ……まさか、そんなことになっていたとは」
海斗君の隣人になった経緯を話すと、陽炎君は悔しそうに机を叩く。
「陽炎君……つねるときはもっと優しくしてもらっていい?」
私は涙目になりながら、真っ赤になった頬のマッサージをする。
「あぁ、わりぃな。敵と見定めたやつには、手加減できねぇ質なんだ」
「私、陽炎君の敵になったつもりないのに……」
世の中はどうしてこう理不尽なのだろうか……。
「要するに、言い方には気を付けろってことだな」
陽炎君はキメ顔で私に指をさす。
「そんな他人事みたいに……」
そんな陽炎君に、私は狂人を観察する眼差しを送る。
「もしかして、七生にもこんな強さでつねってるの?」
「そんなわけねぇだろ」
陽炎君が即座に否定してくれたので、私はホッと胸をなでおろす。
「あいつの頬、思ったより丈夫だから、あの程度じゃ足りねぇんだよ」
安堵も束の間、陽炎君はとんでもないことを口走った。
「やめてあげなよ。どうして、女の子にもそうするの?」
すると、陽炎君が何も分かってないと言っているかのように、ため息交じりに話した。
「誰にでもやってるわけねぇだろ。あいつはいちいち俺にちょっかいかけてくるから、その分報復してるってだけだ。この前だって、寝てる俺の顔に油性ペン落書きしたんだぞ? お前は許せるのかよ?」
「それは……ちょっと腹立つかも……」
「だよな。つねるくらいなら、許されるってと思っちまうよな」
「……うん」
腑に落ちてしまった私は、静かにうなずく。
それにしても、二人がそんな関係だったとは……。
もしかして、今私はある種の惚気話を聞かされているのだろうか。
「それに、あいつを見てると、性別の偏見とか馬鹿らしく思えてくるんだよな」
陽炎君は椅子の前脚を浮かせて、後ろの机に肘をつき、天井を見上げた。
「なんか、分かる気がするよ」
私は七生と言葉を交わしたのはほんの僅かだったけれど、彼女の性格を知るには充分な時間だった。
言葉遣いや取る行動は男の子みたいだけれど、言葉から滲み出るのは気持ちの寄り添いと身内への素直な愛情。
さながら、それは性別の垣根なんて、彼女の中には存在しないかのようで、自分の思うがままに生きているようだった。
そんな姿を見てしまうと、陽炎君が言っていることも頷ける。
「もっと、早くそのことに気づければ、あんな変な期待しなかったのに……」
すると、陽炎君の口から悔恨するような言葉が、か細く零れ落ちる。
「……陽炎君?」
「いや、何でもない。それより、課題教えてくれよ」
「……うん」
これは気のせいということにした方がいい。
いつかの私のように、問い詰められることを腹立たしく感じるかもしれないから。
「しかし、お前が首席で合格してたとはな。てっきり兄貴かあのチビ眼鏡のどっちかだと思ってた」
チビ眼鏡とは、谷君のことだろうか。
「大したことじゃないよ。特別偏差値が高い高校でもないし。あの時だけ頑張ったってだけだから」
私は謙遜しながら、脳裏にある人のことを思い浮かべる。
高校受験を頑張れたのは、大切にしたかったあの人のため。
純粋な愛情が欲しくて、褒めてほしくて頑張ったに過ぎないのだ。
「……おい」
昔のことを思い出し、視界がぼやけていると、陽炎君が一言声をかける。
「ごめん。ぼーっとしてた」
苦笑いで誤魔化そうとする私に、陽炎君は荒く鼻息を吐き、気だるそうに頬杖をついた。
「一人暮らしだの、ガキの世話だの、お互いに苦労は絶えないな」
「そう……だね……初めての経験だからね」
気を遣ってくれているのか、パッとしない私たちを陽炎君は軽い苦労話として済ませようとしてくれた。
新たな一歩を踏み出したとはいえ、果たしてこの痛みが消えてくれる日はくるのだろうか。




