色を失った思い出
【春香由紀】
「今日から隣に引っ越してきました。春香由紀と言います」
夏の日差しが照り付ける玄関で、私は明るく引っ越しの挨拶をする。
「あなたは、あの時の……」
私を見る彼の目は、ほんの少しだけ大きくしていた。
君の表情の薄さは、あの時から何も変わらないんだね。
院長室で美奈さんから紹介された物件に、私は体がひっくり返りそうになった。
なぜなら、そこは少し前に私が無断で住んでいたマンションで、今目の前にいる彼と一緒に暮らしていた部屋の隣だったからだ。
「その節は本当にありがとうございました」
私は折り目正しく、助けてくれたことへのお礼を言う。
「これ、つまらないものですが……」
そして、両手に提げていた紙袋を持ち上げて、彼の手元に近づける。
どんなものか、彼は受け取って袋の中身を見る。
「お菓子ですか? 随分と多いですね」
「引っ越しの挨拶とあの時のお礼です。ショコラとホワイトどっちもあるんですよ」
金額を見たときは躊躇ったが、これまでの恩に比べれば安いものだ。
「実はバイト先でいただいた紅茶があるんです。もしよろしければ、一緒にいかがですか?」
渡すものを渡せたので、流れるように自分の部屋へ戻ろうとすると、彼の方からお茶のお誘いを受けた。
素直に嬉しいお誘いだが、私の心には躊躇いがある。
今からお邪魔するのはただのお隣さんの部屋ではなく、私しか知らない彼との過去が染みついた場所だからだ。
彼の背後に映る光景に、あの日々の私たちが映る。
夢のような時間は終わってしまい、その思い出を語り合える者はもういない。
きっと、その現実を受け入れるには、まだ少し時間がかかるかもしれない。
私はそんな不安に満ちた空気を吸い込み、小さく息を吐いて返事をした。
「……では、お言葉に甘えて」
数か月ぶりに入る彼の部屋は、あの頃と何も変わっていなかった。
でも、少し前まで入院していたのだから、至極自然なことだ。
そうでなくても、彼は無頓着な人だから、どうあってもこのままかもしれない。
廊下を進んでリビングに入り、彼はお菓子の紙袋をテーブルに置いて、私をテーブル席に誘導した。
「どうぞ、ごゆっくり」
しかし、私は座ろうとせず、彼に希望を伝える。
「ソファに座ってもいいですか?」
彼はなぜという顔をしていたが、すんなりと応じてくれた。
私はフカフカなソファに座り、キッチンで準備する彼の後ろ姿を見つめる。
この光景もとても懐かしい。
「そういえば、俺はこれからなんですけど、朝ご飯はもう食べましたか?」
「実は今朝早くて、もう食べちゃいました」
私は申し訳なくお腹をさする。
「すみません。今から準備するので、少し時間かかるかもしれません」
「お構いなく」
一体どんなものを作るのかな。
そんなことを想像しながら、彼に見られないように笑みを零す。
「包丁で指を切らないようにね……」
独り言のように呟くと、彼は「ん?」と私の方を振り返り、気のせいかと首を目の前に戻した。
彼が朝ご飯の支度を済ませると、私は彼と向かい合うように席に座る。
そして、私は彼が並べてくれた紅茶を口に含みながら、朝ご飯を食べている彼を見守っていた。
目玉焼きを小さく切って、奥歯で小さく噛む彼。
どことなく行儀の良い所作を見ていると、どのようにして育ったのか、ふと気になってしまう。
昔の思い出に浸り過ぎて、なんでも知っていると勝手に思い込んでいたが、知らないこともまだまだあるようだ。
「すみません。お手洗い借りてもいいですか?」
紅茶を飲んで、カフェインが回ってきた私は席を立つ。
「ええ、出て左側の洗面所にある扉です」
もちろん、知ってます……。
そう言いかけた言葉を咳払いでかき消して、私はリビングを出ていった。
リビングを出た先は、薄暗い光景が広がっていた。
そして、当然そこには私以外に誰もいない。
つまり、気を遣う相手もいないということだ。
私は指先を廊下の壁に触れさせ、一つの線を描くようにして歩いた。
床も壁も埃一つない綺麗な廊下だ。
そして、洗面所に入ると、最初に目に入ったのは洗濯機だ。
彼の服をビリビリにしてしまい、とても落ち込んだことを思い出す。
『部屋、綺麗になってた』
私の耳元でそう囁いてくれた言葉は、今でもこの耳に残っている。
そして、その幻は白昼夢のように消えていく。
トイレを済ませて、洗面所を出ると、向かい側には彼の寝室がある。
人様の部屋を勝手に入ってはいけないことは分かっている。
でも、そんな常識の霧を晴らすように、私の足は無意識に寝室へと向いていた。
私は扉越しの彼がお菓子に夢中になっているのを確認して、こっそりと寝室に入る。
ここも変わらず、彩りに欠ける部屋だ。
あの時のようにベッドの下を覗き込むと、当時置いてあった少女漫画はもうない。
きっと、持ち主に返したのだろう。
私は一抹の寂しさを覚えながら立ち上がり、ベッドに敷かれたシーツに目を向ける。
寝不足な彼を無理やり寝かせたこと――。
甘えたい衝動が止められなくて、女性に変身した彼と一緒に寝たこと――。
彼の寝顔も、彼に抱かれたときの温もりも、とても愛おしくて、私に安らぎを与えてくれた。
初めて人助けをした高揚感と子どものように甘えてしまった羞恥心が顔を赤くし、私は心のアルバムを一通り見終える。
そして、遡っていた記憶は現在に引き戻され、私は改めて厳しい現実を認識させられた。
今の彼は、これら私との時間を全て知らないのだと――。
あの頃の彼はもういない。
その現実を目の前にしたとき、ふと本音が零れてしまった。
「これ、思ったよりきついな……」
震えながらも懸命に支えていた膝は崩れ落ちて、目に溜まった涙が一滴二滴と床を濡らしていく。
「憶えていて……ほしかったな……」
そして、私の口から言葉の涙がまた一つ零れ落ちていく。




