流れ着いた場所
~old memories~
【????】
日差しが強くなってきたと肌で感じつつある今日この頃――。
こんな日は大きな川から吹き込む風で涼むのが一番だ。
そんな気分で、都内でも随一の広さを誇る川の側を歩いていた。
思った通り、水面で冷やされた川の水が空気に溶け込み、川風となって私の体をそっと撫でてくれた。
当然ながら、この川の行きつく先は一人一人の居場所(家庭)で、みんなの何気ない一日一日を支え続けている。
当たり前のことだと分かっていても、大事なことなのだと思うと、私はそんなさりげない価値に無関心ではいられなくなる。
ちょっとした心地よさを感じた私は鼻歌を歌いながら川沿いを歩いていると、両岸を結ぶ橋の下で一人の女の子がちょこんと座っていた。
女の子は小さな体に大きなランドセルを背負ったまま、しくしくと泣いている。
これは紛れもなく子どもの緊急事態。
心のサイレンが高鳴った私は、全力疾走で悲しむ女の子のもとへ走った。
そして、女の子を怖がらせまいと肩で息をしないように呼吸を無理やり平静に整え、膝を折って目線を合わせる。
「ねぇ、大丈夫?」
「うぅ……」
女の子はしゃくりあげるばかりで、上手く話せずにいる。
「誰に泣かされたの?」
少しすると、女の子はようやくまともに話せるくらいには落ち着いてくれた。
「……お兄様」
そう答えながら目を擦っていると、その手にはあざができていた。
「もしかして、喧嘩でもしたの?」
私は二人が殴り合っている状況を想像しながら訊くと、女の子は首を横に振った。
「……かけっこの勝負で負けた」
ただの競い合いだったことに、私は安堵してお尻に地面をつける。
「そっちかぁ。暴力だったら、私の拳で成敗してるところだったよー」
「負けたときに……ひっく、……何回か殴ったから……」
女の子のあざはそのときのものだったのか……。
どうやら、お兄様はこの小さな女の子の暴力によって、既に成敗されていたようだ。
「お兄様には負けるし、手は痛いし、もういやだ……」
負けたときのことを思い出しているのか、女の子の目からまた涙が溢れようとしている。
「どうして、そんなに勝ちたいの?」
「……勝たないと、お父様に見てもらえなくなるから」
「お父さん。厳しい人なのね」
「何事にも勝たないと価値がないって、ずっと言われてきたの。だから、私はお兄様に勝たなくちゃいけないの」
「それは、お父さんしか言わなかったの?」
女の子はコクリと首を縦に振る。
「お父様は偉い人だから、言うことは絶対に聞かないといけないって」
「そう。あなたは聞き分けの良い子なのね」
私はお利口さんな女の子の涙を人差し指で拭い、その手で頭を優しく撫でた。
「どうしてそんなに悲しそうな顔をするの?」
私の愁いを帯びた表情を見た女の子は不思議そうに、目をパチクリと瞬かせた。
そして、私は川の水面に映る自分の姿と向き合いながら、こう答える。
「私はそのお父さんの言葉が間違ってると思うからかな」
水面に映る私の背後には、一人の男性が顔を覗かせた。
彼女の父親の考え方はその人にとても似ていて、胸が締め付けられる。
それは間違っているともいえるし、正しいとも言えてしまう。
女の子に与えられた教えを否定したいのは、私のエゴでしかないのだ。
でも、そのエゴを押し付けてしまえば、今の彼女はきっと迷いに苦しんでしまうだろう。
だから、私は彼女の目は見ず、水面に映る自分に言い聞かせるように言葉を零した。
「知っている誰かに勝つことよりも、知らない誰かに届けることの方がよっぽど価値があると思う」
「でも、そんなことお父様は言ってなかったよ?」
隣で聞いていた女の子は、当然のように訊き返す。
「そう。だから、あなたが決めて。お父さんの言葉を信じるか。今日初めて会った知らないお姉さんの言葉を信じるか」
どうすればいいのかと眉を顰める女の子。
今の彼女はとても迷っている。
でも、それでいい。
“自分”が壊れないように、急がずゆっくりと時間をかけて、自分の答えを見つけてほしい。
水面に映っていた男性はスッと私の背後から消え去った。
◇
【秋山海斗】
庭に佇んでいる大きな木がサラサラと音を立て、今日という一日の始まりを告げた。
網戸越しから吹く風に揺られ、俺はそっと瞼を上げた。
そして、窓から差し込む日の光を全身に浴び、活動するためのエネルギーを吸収する。
退院をしてから数日が経ち、俺は入院前のような時間を送れるようになっていた。
朝ご飯を食べ、家事を済ませ、学校やバイトに行って、晩ご飯を食べて寝る。
それが、俺の過ごしてきた日常であり、真っ白な景色だ。
だが、そんな飾り気のない日々の中で、僅かに色が染められていた時期があったことを俺は知っている。
今やその色は透明になってしまったが、触れれば確かにそこには感触がある。
とげとげしさはなく、ふわりとしていて、とても温かいものだ。
だから、見えなかったとしても怯える必要はない。
もう、思い出すことはできないかもしれないが、色を付けてくれた人物が優しい人なのだと分かったのだから。
――ピンポーン。
朝食の準備をしていると、自宅のインターホンが鳴ったので、俺は手を止めて玄関へと向かった。
サンダルに履き替え、玄関の扉を開けると真っ白な光に包まれた一人の少女が立っていた。
「今日から隣に引っ越してきました。春香由紀と言います」
少女は初夏の陽光のような眩しい笑みで、俺を見つめていた。




