家族になる日まで
~side story~
整形外科病棟から少し離れた産婦人科病棟――。
女性だらけの病棟に緑色の長い髪を揺らす一人の男が足を踏み入れ、フロントのスタッフに声をかけた。
「すみません。面会に来ました」
スタッフは相手の顔を確認するや、椅子から立ち上がって手慣れた対応をとる。
「陽炎君ね。お母さんならお部屋にいますよ」
「ありがとうございます」
陽炎はそれだけ言うと、表を伏せながら通路を歩いた。
女性しかいない空間を男ただ一人歩くのは、陽炎にとっては少しばかり気まずいようだ。
前に垂れ下がった髪の毛の隙間からは、乳児の愛らしい鳴き声を優しくあやす母親の姿が映った。
――果たして、俺にもあんなふうに見守られていた時期があったのだろうか。
陽炎はあの乳児と自分を重ね、在りもしない記憶に思いを巡らせる。
「……いや、そんなわけないよな」
過去の期待なんて虚しいだけだ。
陽炎は自分にそう言い聞かせて、エレベーターに乗るのだった。
病室の目の前立つと、陽炎は「ン、ン」と声を整え人差し指の背面でノックをする。
「どうぞー」
部屋の中から声が聞こえたので、陽炎はゆっくりと扉を開けた。
「こんにちは」
「あら~、陽炎君!」
部屋にいた女性は陽炎の顔を見るや、興奮気味にベッドから起き上がる。
彼女は美桜。
陽炎の今の母親であり、咲と玲の実の母親だ。
「お体の具合はどうですか?」
「おかげさまで順調。早く会いたいな~」
美桜は大きく膨らんだお腹をさすりながら、心を躍らせていた。
彼女のお腹には、新しい命が宿っているのだ。
「名前は、もう決まってるんでしたっけ?」
「なーんにも。咲と玲も生まれた時の印象で決めたし、この子もそうしよっかなーって、感じ」
美桜はうなじに指を絡めてリラックスしながら、真っ白な天井を眺めた。
「……案外、緩いんですね」
「名前はそれくらいで丁度良いと思うけどな~」
「こういうのって、何かしらの願いとか込めてつけるもんなんじゃないんですか?」
「親の願いは子どもが幸せでいてくれることだけだよ。その気持ちは名前にするんじゃなくて、行動で示していけばいいじゃない?」
美桜はゆっくりと体を横にして、お腹をさすりながら陽炎に語り掛ける。
「……まぁ、そうかも……?」
疑問符が残る納得だったが、陽炎は気にせずこの話題を終わらせた。
「それで、咲と玲は元気にしてる?」
「おかげさまで、二人とも元気ですよ。咲に関しては、元気を超えて生意気ですけど」
陽炎の嫌味に美桜は「フフフ」と上品に笑う。
「そのようね、肩に小さな歯型が付いてる」
美桜に咲が嚙みついた跡を気づかれると、陽炎は気まずく苦笑いをする。
「本当にありがとうね。陽炎君」
「礼には及ばないですよ。美桜さんが俺を拾ってくれて、その恩返しをしてるだけなんですから」
陽炎は向こう側の床頭台に飾っている写真立てを目にする。
そこには、美桜とその夫。
そして、二人に抱かれている赤ん坊の咲と玲が映っていた。
そこに陽炎の姿はない。
この家族に身を寄せてから間もないのだから当然だ。
「陽炎君」
すると、美桜がぐったりとさせた陽炎の手を両手で包み込んだ。
「無理はしないでね。陽炎君だってもう私たちの家族なんだから」
全てを見透かしたような物言いだったが、憤りは感じない。
むしろ、美桜の真っ直ぐな瞳を受け取った陽炎は、弱り切った自分の心を奮い立たせるように、心臓が熱く震えていた。
やはり、“本物の母”を目の前にしては、子どもは叶わない。
すると、美桜は何か違和感を感じたようで、自身の腹部を見下ろした。
「あっ、今動いたよ」
どうやら、お腹の中にいる子どもが、母親の足を蹴ったようだ。
「本当ですか!?」
陽炎も興奮気味に前のめりになる。
「うん! 触ってみる?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん! これから、陽炎君の妹になるんだから」
美桜は陽炎の手を攫って、自分のお腹に当てた。
少しすると、中からちょんちょんと陽炎の手のひらをつついている感触がした。
「すごい……ちゃんと動いてる」
「陽炎君の手がどこにあるか分かるんだね」
すると、美桜は自分のお腹に顔を近づけ、そよ風のような優しい声で中にいる子どもに囁いた。
「あなたの優しい陽炎お兄ちゃんでちゅよ~」
美桜の裏表のない言葉に、陽炎は少しばかり背中をむずがゆくする。
そして、照れて目を反らす陽炎を見た美桜は、子どもを見守るように目元を和ませていた。
この後も、陽炎はまた動かないかと期待しながらずっと手を置いていたが、お腹の子どもが動くことはなかった。
「……もうお眠なのかな?」
「そうみたいっすね……」
陽炎はしょんぼりと眉を顰める。
それを見た美桜は口を抑えて微笑んだ。
「もう、すっかり気に入っちゃってるね」
美桜の言葉で気づかされた陽炎は、顔を赤くしながら苦笑いする。
「すいません、もう少しこうしてていいですか?」
「うん、いいよ」
美桜が快く応じると、陽炎は彼女のお腹に額を当て、自分の素直な気持ちを心の中で呟いた。
生まれてくる子どもが、みんなから祝福されますようにと――。




