偶然の先へ
【雨宮美奈】
――後悔していることがある。
無力な自分を知らずに、勝てるはずもない相手に真っ向から歯向かったこと――。
自分を守るために、血の繋がった一人を見捨てたこと――。
血の繋がった一人を守ろうとして、救わないといけない人間を突き放したこと――。
そんな無知で臆病で愚かな自分が、今の私に問いかける。
お前は何のためにいるのか、と――。
その答えは一向に出ず、私はずっと先送りにしていた。
病室を出た私は、伝言を伝えるため、一階に降りた。
そして、すれ違う患者に軽く会釈をして、フロントまで足を運ぶ。
待合用の長椅子を見渡すと、一番奥の椅子に待ちくたびれて眠りこけている弟の海斗を見つけた。
夏本番を迎えようとしている今日この頃、病院の中はクーラーを強めにきかせているので、寝起きは体が寒くなることだろう。
世話の焼ける弟に私はため息をついて踵を返し、カップベンダーの前に立って、自分用と海斗用の温かいコーヒーをカップに注いだ。
カップを両手に持ったら、海斗の隣に座り、コーヒーを飲みながら目が覚めるのを待つ。
すると、ゆらゆらと揺れていた頭が私の腕に倒れ込み、触れた拍子に海斗はゆっくりと目を開けた。
目を擦って横にいる私を見るが、まだ眠いのか口を開くことすら物憂げに鼻息を漏らす。
「体、冷えてない?」
そんなお疲れ気味の弟にコーヒーを手渡すと、息を吹きかけながらチビチビとそれを飲んだ。
海斗は温かい飲み物を体中に染み込ませると、ようやく喋る元気を取り戻す。
「どうだった?」
「あの子なら、目を覚ました。軽い熱中症だから、もう少し休めば問題はない」
「そっか……よかった」
海斗は顔には出さず、言葉だけで安堵を示す。
私の弟は、いつもそうして心の奥底までは見せてくれない。
「その子から伝言を預かってきたの。助けてくれてありがとうございますって」
「……そう」
裏側のメッセージに気づいたのか、海斗の言葉が陰りを帯びる。
これで、海斗がここにいる理由はもうない。
だから、コーヒーを飲んだら、業務の邪魔にならないように病院から出てもらうだけだ。
そして、そう促すのはたまたま横にいるこの私。
この病院の院長である雨宮美奈の仕事だ。
「…………」
しかし、身内に早く出ていけと言うだけなのに、口が言うことを聞いてくれなかった。
まるで、姉である雨宮美奈が、何度も言葉を忌避しているかのようだ。
かけるべき言葉が見つからずに俯くと、カップに入ったコーヒーが戸惑う私の顔を黒く映し出した。
医者として、あるいは姉として、在るべき私になれていない事実を映し出されているような気がした。
情けなさと恥ずかしさに押しつぶされるように、私はため息とともに首を垂れた。
その拍子に前髪がコーヒーに浸かるが、そんなことすら認識できない程に、私の頭はコーヒーよりも真っ黒に染まっていた。
「美奈、どうしたの?」
案じた海斗が肩を持ち、私を背もたれに掛けさせた。
天井を見上げると、前髪に染み込んだコーヒーの雫がおでこを濡らし、そこから鼻を経由して首へと伝っていく。
それはまるで、頭から黒い血が出血しているようだった。
「大丈夫?」
返事を返さない私に、海斗は何度も声をかけるが、目を合わせるのが精いっぱいだった。
しかし、これ以上は心配をかけさせたくないので、私は無理やり体を背もたれから離し、再び前傾姿勢に戻す。
「ごめん。ちょっと、考え事してた」
私は一度気持ちを落ち着かせようと、ぬるくなったコーヒーを口に含む。
海斗は思い悩む私に何も訊かず、私と同様に静かにコーヒーを飲んでいた。
きっと、思い詰める私を刺激させない、あいつなりの配慮なのだろう。
実際、もしも軽い気持ちで訊かれたら、私は怒りに身を任せて怒鳴っていただろう。
誰かに自分の何かを打ち明けるというのは、それだけ重い行為で、訊く側はそれを理解するべきだ。
だとしたら、私は彼女になんて最低なことをしてしまったのだろう。
自分の誰かを救いたい気持ちが先行して、彼女を傷つけてしまったかもしれない。
海斗を守るために由紀ちゃんを一方的に追い出し、由紀ちゃんを救おうとして答えを急がせてしまった。
私は誰かを傷付けてしかいない……。
その事実を突きつけられた私は、やっぱり“あの人”のようにはなれないのだと厳しい現実に打ちのめされ、今度は腕よりも深く首が垂れた。
すると、手が傾いて、残っていたコーヒーが全て、首筋から後頭部へ流れていく。
情緒のない私を見て流石にまずいと思ったのか、海斗は私から紙コップを取り上げ、濡れた部分をハンカチで拭いた。
もはや、この醜態の方が、よっぽど恥晒しに思えてきた。
「……人助けって、どうしてこんなに難しいのかしら」
だからなのか、言葉にするか迷っていたことが、ポロリと自然に口から零れ落ちる。
「怪我とか身体的な病気は一方的な指示でたいていはどうにかなるのに、人の心はそうはいかない。でも、どうしていいのかも分からない」
ひびの入ったダムが決壊したように、溜め込んでいた気持ちを全て吐き出した。
プライドがズタズタに引き裂かれた音がして、居心地は最悪だ。
私は初めて弱音を吐いた相手の顔を横目で覗き込む。
案の定、何も感じていないような平然とした表情だ。
しかし、私の顔を一瞥すると、安心したように目を閉じて、こう口にした。
「……やっと、見つけられた」
予想外の言葉に折れ曲がった背筋が元に戻る。
「美奈は弱音とか悩みとか、あっても絶対誰にも言わないと思ってたから」
「これでも、ここ(病院)のトップなんだから。弱気な私を見てみんなを不安にさせるわけにはいかないじゃない」
「そうだね……」
海斗は一度同調すると、コーヒーを飲み干してこう答えた。
「でも、だからこそ、肉親の俺になら、愚痴とか弱音とか言ってもいいと思うんだ」
「海斗……」
「今の俺なら、美奈が思ってるよりも軟じゃない……多分。仮に軟でも、それなりに力になれると思う……おそらく」
「……フッ」
強気な言葉を羅列するたびに弱弱しくなる弟を見て、私はつい可笑しくなって笑いをこらえきれなかった。
「あんた、頼りがいなさすぎるわよ」
……なんだ。
こいつも私と一緒で、人を助けたいんだ。
でも、気持ちばっかりで、自信だけはまるで追いついていない。
「これまで、誰かを助けたこととかないから……」
さっきまでの勢いがなくなると、一気にしおれだす。
そんな真面目で優しい弟の姿がとても愛らしく思えて、私は彼の下がった頭をサラサラと撫でた。
真面目で優しいけれど、不器用で自信がない私の弟。
だから、彼女は忘れられずにいて、自分から遠ざけようとしているのかな。
でも、それは彼女にとって苦痛そのもので、それを受け入れることが罪滅ぼしとしてずっと抱え続けるのではないだろうか。
だからといって、私の一方的な押し付けでは、余計に深い傷を負わせてこれまでの二の舞になってしまう。
必要なのは、誰も予想しなかった“偶然”だ。
「それじゃあ、早速頼ってもいいかしら?」
海斗の頭から手を離すと、頭を上げてコクリと頷く。
そして、私は“ある仕事”を頼んで、“ここにいる理由”を海斗に与えた。
「分かった。それじゃあ、行ってくる」
海斗は内容を聞くと、早速椅子から腰を上げてエレベーターへと向かっていった。
権力しか持たない今の私には、偶然を引き寄せるための状況を整えることしかできない。
後は、私が作った必然に、二人の偶然が重なることを祈るだけだ。
そして、偶然の先にみんなが納得する結末を迎えられるようにと、心にそっと願いを込めて、私は弟の背を見送った。




