塀の上の女
~old memories~
【寂しい少女】
朝――。
目が覚めると、一緒に寝ていたはずの父がいない。
父はいつも朝御飯の支度をするために、私より先に起きるのだ。
だから、起きた時に独りだったとしても、寂しくはない。
私は一人で洋服に着替えて、父がいるリビングに移動する。
「おはよう」
忙しそうにリビングをバタバタしている父だが、私が来るといつもの笑顔で私を迎えてくれた。
朝御飯が済んだら、私は部屋に戻って持っていく物をリュックに詰める。
「そろそろ行くぞー」
玄関で待つ父に呼び出され、私はリュックを背負ってトコトコと廊下を駆けて、玄関に向かった。
そして、今日も父は私の頭に大きな手をポンッと乗せ、玄関の棚に飾られた写真に向かって、こう口にする。
「……行ってきます」
こうして、今日も私と父の、どこにでもあるような普通の一日が始まった。
保育園の門まで私を送り届けると、父は足早にお仕事へと行った。
ここから、また独りの時間が始まる。
この日も変わらず部屋の隅っこで絵本を読みながら過ごしていると、大きな影が私を覆った。
絵本から目を離すと、先生が膝を折って私に話しかける。
「――ちゃん。向こうで皆と遊ばない?」
先生はニコニコしながら、部屋の真ん中で遊んでいる子どもたちを指さすが、私は首を横に振った。
「でも、絵本ばかりだと、退屈にならない?」
先生はめげずに、私を中心の輪に引き込もうとする。
絵本に飽きていることは本当のことだけれど、だからといってあの輪には入りたくない。
だから、私は先生にこう伝えた。
「それじゃあ、お外で遊びます」
私はそそくさと絵本を片付けて、先生を待たずにトコトコと一人で庭に出た。
とは言っても、誰かと一緒に遊ぶわけではない。
鬼ごっこしている男の子や、長縄で遊んでいる女の子はいたけれど、どの輪にも入ろうとはせずに、私は隅っこの誰も使っていない砂場で遊んでいた。
“遊ぶ”というよりも、“暇つぶし”と言った方が合っているかもしれない。
誰とも馴染むことはできない私は、“無”という名の苦痛をできるだけ避けるために、時間を潰すことだけを考えている。
シャベルで土を掘っては落として平らに均し、今度は隣の土を掘る。
まるで、畑の土を耕すように、一連の流れを繰り返す。
決して楽しくはないけれど、苦しくもなかった。
この行為に意味は全くないけれど、私はこれをやらなければまた苦しむ。
その苦しみから逃げるために、私はずっとずっと繰り返す。
やがて、この行為に対して、使命感が湧き上がる。
――土を掘らなければ苦しむ。
――土を均さなければ苦しむ。
シャベルの動作は次第に早くなっていき、疲れてきたのか息も荒くなっていく。
――その時だった。
「……ねぇねぇ」
どこからともなく、聞き覚えの無い声が聞こえ、シャベルを動かしていた手がピタッと止まる。
声は上から聞こえてきたので、私はおもむろに声のする方を見上げた。
すると、塀の上に見知らぬ女の人が、私に向かって笑顔で手を振っていた。
「……お姉さん、誰ですか?」
「やだ~、お姉さんだなんて。そんなに綺麗に見えちゃう私?」
お姉さんはデレデレと、両手で頬を包む。
なんだか変な人だ。
「……違うんですか?」
「違うなんてことはないけど~。それよりお嬢ちゃんは向こうの皆とは遊ばないの?」
お姉さんは、中心で元気良く駆け回る子ども達を指差す。
「いえ、誰も私に近づこうとはしないので……。私もこっちの方が落ち着くし」
「そうかな~? 皆と遊んだ方がもっと楽しくなると思うんだけどな~」
「……そういうものですか?」
鬱陶しくなった私は、柄にもなく語気を強める。
しかし、そんな威嚇は全く効果が無く、むしろお姉さんは何か気づいたようにニヤリと笑った。
「さては、食わず嫌いね? 分かった」
すると、お姉さんは塀を跨いで、堂々と敷地内に侵入した。
「みんなー! しゅーごー!」
お姉さんは手を叩き、声を大きく張り上げて、外にいる子ども達を集めようとした。
「……何のつもりですか?」
「これから、私たちと遊びましょ!」
お姉さんは真っ直ぐと手を差し伸べるが、私はその手を拒んだ。
――知らない人についていってはいけない。
先生から口酸っぱく言われている教えだ。
すると、窓から外の様子を見ていた先生が、不法侵入者に気づき応援を呼んだら、すぐに私のところに駆けつけてくれた。
「あの、ここ保育園の敷地内なんですけど、この子に何か用ですか?」
先生はお姉さんから私を守るように、警戒心を張り巡らせる。
「あー、急にお邪魔しちゃって、ごめんなさい。その子、実は私の姪でして。兄さんがあまりに娘を心配するものですから、遠くから見守るように言われまして」
平然と嘘を連ねるお姉さん。
やっぱり、この人は危ない人だ。
「そんな理由で、不法侵入が許されるとお思いで?」
「あれ~。やっぱダメですか~?」
お姉さんはヘラヘラしながら、一歩ずつ後退る。
すると、お姉さんの声によって集められた子どものうち一人の男の子が、お姉さんを見て「あっ!」と人差し指を指した。
「この前の姉ちゃんだ!」
すると、お姉さんも思い出したように、男の子に指を指し返す。
「蒼汰じゃない!? ここの保育園だったんだ」
すると、それに呼応するように、他の男の子たちも「あっ!」と口を開く。
「蒼汰君。この人とお知り合いなの?」
眉唾を感じた先生は、改めて蒼汰君に真偽のほどを確かめる。
「この前、一緒にサッカーしたんだ! めっちゃ上手いんだよ!」
無邪気に話す蒼汰君を見た先生は、腑に落ちてなさそうな溜息をついた。
しかし、子どもたちに対するお姉さんの認知度は、蒼汰君の周囲だけに留まらなかった。
「この前、風船取ってくれたお姉さんだ!」
今度は女の子がお姉さんの足元に駆け寄り、ニッコニコの笑顔で見上げる。
「サッちゃんもこの保育園だったんだ。元気にしてた?」
「うん!」
お姉さんはサッちゃんの両頬をムニムニといじる。
「あっ、あの時のお姉さんだ!」
「あの時の人だ!」
「あの時の!」
「一昨日の!」
運命的な再会はひっきりなしに続き、保育園の庭はサイン会のように、子どもたちがお姉さんを埋め尽くしていた。
知らない大人に群がる子どもたちの筆舌に尽くしがたい光景――。
先生も一方的に追い出すこともできず、気が付けば蚊帳の外で立ち尽くしていた。
「先生―! こういうわけなので、一緒に遊んでもいいですかー!」
子どもたちがガヤガヤと騒ぐ中、お姉さんは遠くにいる先生に向かって大声を出して確認を取る。
子どもたちも懇願するように、先生を見つめる。
これには、先生も断れない空気に困ったようで、ため息をついてこう答えた。
「くれぐれも外には出さないようにしてください!」
無事許可が降りると、子どもたちは揃って喜びの声をあげ、お姉さんを庭の中心まで手を引いた。
お姉さんも嬉しそうに誘導されるが、途中でその手を離した。
そして、私の下に駆け寄り、再び手を差し伸べる。
「一緒に行こっ!」
お姉さんの後ろには、今まで私が避けてきた子どもたちがいた。
でも、今までとは違って私に向ける顔は、誰一人として曇っておらず皆輝きを放っていた。
その光に導かれるように、私はゆっくりと手を上げた。
本当に向こうに行ってもいいのかと不安になりながら、慎重になりながら伸ばした手はお姉さんの手に搔っ攫われ、私を砂場から力強く引っ張り出す。
「それじゃあ、皆で鬼ごっこするぞー!」
「「「わー!!」」」
お姉さんの高らかな声に、皆が呼応する。
今、私はとても不思議な出来事を目の当たりにしている。
ただの怪しい不審者が、バラバラになっていた子どもたちをまとめあげ、全員が同じことをして楽しんでいる。
そして、もっと不思議なのは、全員の中に私もいるということだ。
この人は一体、何者なんだろう……。




