9話 寿司の話は、そこまでだ。3
入ってきた男は、玄関で丁寧に靴をそろえた。
四十代の終わりほどだろうか。短く刈った髪に、日に焼けた顔。鞄を提げた手が大きく、スーツの肩も腕も厚い。これで鍬を担いでいたら、近所の畑で会釈していそうだった。
応接間へ入ると、男は守と三人の従業員を見渡し、頭を下げた。壁際の三枝も、背筋を伸ばして深く一礼する。
「おう、朝から悪いね。鷹宮です。昨日はよくやってくれたなあ。ご苦労さん」
差し出された名刺を、守は受け取った。
内閣官房悪魔災害危機管理担当参事官。
名前より上の文字が、ずいぶん多い。
「ご苦労さまです。お電話でもよかったでしょうに」
「がはは! そう言うと思ったよ。けどな、電話一本で済ませるのも、どうかと思ってね」
鷹宮は壁際へ顔を向けた。
「三枝さんも座ったらどうだ」
「いえ、私は、こちらで」
「そうか? まあ、楽にしてくれ」
三枝は返事をしたが、背筋は伸びたままだった。
鷹宮は勧められた椅子へ腰を下ろし、ユキの運んできた湯呑みを会釈して受け取った。両手の間に収まると、いつもの湯呑みが妙に小さく見えた。
「昨日の現場について、直接聞きたくてね。その前に、こっちで何をつかんでたか、話しておこう」
鞄から、一枚の写真を取り出した。
見覚えのある交差点に、車の巨人が立っていた。隣のビルと巨人に、高さを比べる線が引いてある。
「偵察してた自衛隊の即応部隊の見積もりだ。六十から七十メートルってところだな」
守は写真へ顔を近づけた。
「これ、いつのですか?」
「あんたらが、この屋上にいた頃だよ。ほら、ここだ」
太い指が示した屋上に、小さな点が二つあった。白いほうがユキ。隣の点が、たぶん自分だ。
「旦那様、こちらですね」
ユキが嬉しそうに指した。
「分かってる。記念写真みたいに言うな」
守は写真を少し遠ざけた。現場では車の窓や肩のバスばかり目についていたが、こうして全体を見ると、足元のビルの小ささがよく分かる。あの屋上から、自分は怒鳴っていたのか。
「見込みを立てた端から、でかくなりやがる。避難範囲も広げっぱなしだった」
鷹宮は写真から手を離した。
「それで、昨日の件は総理大臣の指定する激甚悪魔災害として扱うことになった」
後ろで、三枝が一度うなずいた。
「それに伴い、現場での対処によって生じた周辺建物などの損害についても、公的な補償の対象として処理します。御社への請求はありません」
守は身を乗り出し、テーブルへ両手をついた。
「電柱三本も?」
「含みます」
「聞いたか、ユキ!」
立ち上がった拍子に、椅子が後ろへ滑った。ユキも耳をぴんと立てた。
「はい! 旦那様!」
「三本ともだぞ! 一本ずつ払わなくていいんだ!」
「よかったです! 本当に……!」
ユキは胸元で両手を握った。白い尻尾が大きく振れ、ツキが湯呑みを端から遠ざける。
「じゃあ、お昼はお寿司とろうよ。お祝いに」
「特上だ、特上! こういうときに並を頼んでどうする!」
「ハナ、聞いた? 特上だって」
「聞いた」
「君も好きなものを頼め、ユキ!」
「旦那様と同じものを!」
「ボス、声、大きい」
そう言うハナも、もうスマートフォンを取り出していた。
「私の分も忘れるなよ。いやはや、実にありがたい。総理には今後とも、ぜひ――」
テーブルの返納用紙が目に入り、口が閉じた。八千五百万円。その隣の写真には、巨人と、壊される前の建物が写っている。
うちの支払いがなくなっただけで、街が元に戻ったわけではない。
守は椅子を引き寄せて座り、ネクタイの結び目を直した。
「それで、国の方まで、うちへ」
「もう一つ、あんたらにも聞いといてもらいたい話がある」
鷹宮は写真をテーブルの中央へ押し戻した。
守が顔を上げると、鷹宮はもう笑っていなかった。
「昨日、三沢基地ではF-35Aに特殊弾頭を積み終えていた」
窓の外をトラックが通り過ぎた。
ハナがスマートフォンを伏せた。誰も、寿司の続きを言わなかった。
ユキがツキを見た。ツキもその視線を受け、それからハナへ目を向けた。ハナは二人の顔を見て、伏せたスマートフォンに手を置いた。
ツキの指が、片方の袖口をつまんでいた。引いて、離して、またつまむ。ユキが隣からその手に触れると、ツキは手元を見下ろし、ようやく指をほどいた。
「私たちが救助していた、あの場所に使うためですか」
「必要になってから積んでたんじゃ遅い。使えるところまで、準備は済ませていた」
守は写真を引き寄せた。
巨人の足元に、交差点がある。救出した車を下ろした場所。その先には、ツキが負傷者を運んだ通りが写っていた。
「車の中に取り残された人も、まだいたんですよ」
「使用した場合の被害も含めて、検討していた」
「次の手を用意するな、とは言っていません。だが、こちらには待機の指示も、退避の話もなかった。救助している人間ごと巻き込む判断を、どこまで進めていたんですか」
鷹宮は写真へ手を置いた。
「使用を決めたわけじゃない。だが、退避が済むまで使わない、とも先に決められん。六十、七十メートルの巨体が、まだ育ってる。次の一歩で何人巻き込むか。通常火力で止められる保証もなかった」
「しかし、ユキの打撃で十分に破壊できましたよ」
「結果論だ。車を何台壊せば止まるのか、その間に何台取り込むのか。あの時点では分からん。戦車も攻撃ヘリも、どこまで近づけていいか判断できなかった」
「吸引の範囲も分からないのに、航空機を出すつもりだったんですか」
「機体を近づけずに使える手段を用意していた。特殊弾頭には過去の対処実績もある。必ず効くとは言えんが、通常火力を試してから準備を始めたんじゃ、間に合わんかもしれなかった」
守は写真の胸を見た。車の屋根もドアも、押し潰されて折り重なっている。ハナが入っていった隙間は見つからなかった。
理屈は分かる。自分も次の手を用意する側にいた。だが、昨日はこの写真の足元にいたのだ。
「まだ間に合うと考えて、手遅れになった現場がある。今の対処は、死屍累々の上に成り立ってる。現場が何とかするだろうと待つわけにはいかん」
「その教訓を知っているのは、そちらだけじゃない。私たちも、戻らない人間を増やさないために、あそこにいたんです。救助を続けろ、必要なものは待て。その一方で、知らされない選択肢が動いていた。準備の是非ではなく、その話をしています」
「連絡の話に、準備の必要性を答えてしまったな」
二人の間に、写真が残った。
守は屋上の自分を指そうとした。指先で隠れてしまい、少しずらす。隣のユキまで、一緒に見えなくなっていた。
「使わずに済んだから、こうして話せるんでしょうね」
「現場に何を知らせ、いつ退避させるか。そこまで整っていたかは確かめる。連絡が足りなかったことを、準備が必要だったの一言で済ませるつもりはない」
「では、要求した仁丹はなぜ出せなかったんですか。こっちに待てと言っている間に、特殊弾頭は積めたんでしょう」
鷹宮の眉が寄った。
「必要なものも渡せず、あんたらに対処を続けさせた。そいつは、本当にすまなかった」
深く頭を下げた。守は黙って見ていた。
「出せなかった理由を、聞かせてください」
「表に出てない話だ。よそで喋るのは勘弁してくれよ。前に、自衛隊で仁丹を百発、紛失している」
守の指が、湯呑みの縁で止まった。
「その件があって、製造元のDD団は日本への供与を拒んでる。被災者を人に戻すための聖水は、今も入ってくるがな」
シルバー・パラベラム・バレッド。現場で仁丹と呼んでいるそれは、聖水とは違う。異変を止められても、人に戻れるかもしれない相手を殺しかねない。第一種被災者の救済を優先するDD団が、もともと供与に慎重だった代物だ。
「では、昨日、上の判断を待っていたのは」
「待てば仁丹が出てくる、という状況じゃなかった」
「今朝、うちでは通常の弾を一発ずつ数えました。報告書とも、突き合わせて」
鷹宮は黙っていた。
「三沢の特殊弾頭も、DD団のものですか」
「ただし、向こうの管理下にある。案件ごとに審査を受け、昨日は搭載まで進めた。実際に使うかは、その先の判断だ」
日本側へ預けた百発は消えた。特殊弾頭は、管理を手放さずに貸す。
政府が要請し、機構が審査する。その手続きを済ませ、弾頭を積んでいた。自分がビルの上で怒鳴っていた間に。
「私たちの報告も、使用するかどうかの判断に使っていたんですね」
「救助の進み具合も、原因者に手が届くかも。確保したという報告は、こっちも待ってたんだよ」
守は写真へ目を戻した。
屋上の小さな二人を、しばらく見ていた。




