10話 寿司の話は、そこまでだ。4
鷹宮はひと息つき、手帳を閉じた。椅子を引いた。
「よし、これで全部だ。付き合ってくれて、ありがとう。最後に一つ、俺から言わせてくれ」
鷹宮が立ち上がった。鞄を椅子へ、手帳をテーブルへ置き、上着の裾を直す。守と三人へ向き直ると、両腕を体の脇へ下ろした。
守も湯呑みを置いた。
「あんたらがいたから、助かった人がいる。原因者も人に戻せた。さっき言い合ったこととは別に、昨日の仕事には礼を言いたい」
広い肩が、ゆっくり前へ傾いた。
「本当に、ありがとう。よくやってくれた」
守は腰を浮かせた。ユキも立ち上がりかけたが、鷹宮は顔を上げなかった。深く折った腰をそのままに、四人へ頭を下げ続けていた。
ユキが座り直し、両手を膝へそろえた。ハナも尻尾をよけ、姿勢を正した。
「三人に言ってやってください。昨日、あいつの体から人を運び出したのは、この三人だ」
鷹宮はようやく体を起こした。
「あんたも現場にいただろう。そこまで遠慮することはない」
守はネクタイの結び目を直した。
「私は、守銭奴と書いて奴銭守と読むだけですよ。報酬につられて現場へ行った。それだけです」
「金につられて、あんなもんの前に立つか。だったら、あんたに金を払う意味はあるな」
「ええ。ですから全額返納の件は、ぜひ考え直していただきたい」
後ろで、三枝が小さく咳払いした。
鷹宮は笑いながら腰を下ろし、鞄を開いた。
「その返事は、あんたと県で話してくれ。ただ、車をなくしたまま働けとは言わん。そのための話も持ってきた」
守も座り直した。差し出された書類へ目を落とす。
「事業継続支援の基金から、あんたの会社に四千二百五十万円。用意してある」
守は金額を確かめた。返納用紙の八千五百万円と、交互に見る。
「今度の書類には、返す欄はないでしょうね」
「車も道具もなくしたままじゃ、次に呼んでも来られんだろう」
「全額お返しする話のあとに、半分いただく話ですか」
「返納については、まだお返事をいただいておりません」
三枝の声が後ろからした。
「覚えていますよ。私の自主性が、ずいぶん高くつくという話でしたな」
守は書類をめくった。車に工具、三人の給料。出ていく金ばかりだった計算に、ようやく入金を書き足せる。
「感謝状だけ渡して、次も頼む。そんな虫のいい話があるか。紙切れじゃ車は走らんよ」
「ええ。額に入れても、タイヤはつきませんからね。こちらは、ありがたく手続きを進めさせてください。返納のほうは、もう少し考えます」
「そいつは、あんたが決めることだ」
鷹宮は用紙に触れなかった。守も署名はしなかった。
守は二枚を別々にそろえ、自分の机へ移した。席へ戻ると、鷹宮がもう一枚、名刺を差し出した。裏に番号が書き添えてある。
「こっちは俺に直接つながる。何かあったら、遠慮なくかけてこい」
「また、意見が合わないかもしれませんよ」
「構わん。今日みたいに言ってくれ。こっちも言うがな」
守は番号を見た。
「なるべく、振り込みのご連絡でお願いしたいですね」
「そりゃ俺も、そっちの電話が楽でいい」
名刺入れへ収めようとしたところで、鷹宮がふと声をかけた。
「奴銭さん。昨日、相手の気を引きながら、救助に要る話を聞き出してただろう。ああいうのは、前の仕事でもやってたのか」
名刺入れの縁で指が止まった。
「前の職場じゃ、ずいぶん期待されていたそうだな」
守は名刺を差し込まず、鷹宮を見た。
「お茶を飲みに来る前に、ずいぶん下調べをなさった」
「報告を見て、確かめたくなった。そのままいれば、出世街道だったろう」
「ええ。ただ、道沿いに金が落ちていなかったもので」
鷹宮が声を上げて笑った。守は名刺の角を、親指でなぞった。
昨夜、夢に聞いた笑い声がよみがえる。机を並べ、地図を挟み、同じ報告を待っていた連中がいた。
守は名刺を奥まで差し込んだ。
「今は社長です。三人に給料を払うので手いっぱいですよ」
「今日は、その社長に会いに来た」
名刺入れを閉じる手が、一瞬止まった。
鷹宮は手帳を鞄へ収め、持ち手を握った。退職の理由は尋ねなかった。
「また、ゆっくり話を聞かせてくれ」
「次は電話でお願いします。うちの茶葉も有限なので」
「分かった。今度は茶葉を持ってくる。湯くらいは出してくれよ」
鷹宮が立ち上がった。
「さて、長居したな。三枝さんも、そろそろ行こうか」
「はい」
壁際の返事へ顔を向け、守は手を止めた。
三枝がツキを抱えていた。
後ろから両腕を回し、腹の前で手を重ねている。ツキはその腕に自分の手を載せ、少し背中を預けていた。
いつからだ。
「三枝さん。お帰りだそうですよ」
「はい。承知しております」
三枝が腕をほどこうとすると、ツキの指がその袖をつかんだ。
「ツキさん?」
ツキは肩越しに振り返った。それから自分の手元へ目を落とし、指を緩めた。
「あ、ごめんね」
一歩前へ出たツキは、上着の裾を直した。三枝へ向き直るまで、少し間があった。
「また来てね」
三枝がうなずいた。
「ええ。また伺います」
三枝は鞄を持ち直した。
玄関まで見送ると、国道にはいつもどおり車が流れていた。三枝と鷹宮を乗せた車も、その列へ加わっていく。
見えなくなるまで待ち、守は玄関を閉めた。
リビングのテーブルには、写真の写しが残されていた。六十から七十メートルの巨人。その脇の屋上に、自分とユキがいる。
「旦那様。昨日は、間に合ったんですね」
隣へ来たユキが、写真を見下ろした。
守は少しの間、その小さな二人を見ていた。
「君たちが間に合わせたんだ」
ユキが顔を上げた。
「じゃ、私にも何かない?」
横からツキが頭を寄せてきた。
「さっきまで散々撫でてもらってただろう」
「社長には、まだ」
守はその背中を、ぱしんと軽くはたいた。
「よくやった。次も頼むぞ」
「はいはい。次は手当もつけてね」
ツキは背中をさすりながら、小さく笑った。キッチンへ戻ると、ハナの隣に立った。
守は写真を報告書へ挟み、机へ持っていった。
「次も同じようにいくとは限らん。昨日困ったことは、忘れんうちに書いておいてくれ。必要な道具も。買うかどうかは、値段を見てから決める」
「はい!」
返事を聞き、守は椅子へ座った。
返納用紙の上に基金の申請書を重ねる。鷹宮の名刺は引き出しへ入れ、奥へ押し込みかけて、手前へ戻した。
キッチンから水の流れる音がした。ツキがハナに皿を渡しながら、何か話している。
「ボス。お寿司、特上でいいんだよね」
ハナが顔を出した。片手には、さっきのスマートフォンがある。
守はペンを止めた。
返納用紙を見た。申請書を見た。それから、返事を待つ三人を見た。
「……ああ。四人前な」
ハナの顔が引っ込んだ。
守は申請書の会社名を埋めた。
今日の昼は、特上でいい。
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