8話 寿司の話は、そこまでだ。2
廊下の物陰から、ハナが顔を出した。
「行政官さん」
「分かった。ツキ、お願いできるか」
「はーい」
キッチンから出てきたツキが、そのまま玄関へ回った。
「朝早くから失礼いたします。県庁の三枝です。奴銭社長はいらっしゃいますか」
「どうぞ。お待ちしてました」
ツキに続いて、県庁の悪魔災害対策担当課長補佐、三枝真理子が入ってきた。昨日、八千五百万円の契約を取りつけた電話の相手だ。
「昨日は、ご対応ありがとうございました。本日は契約の履行確認と、その後のお手続きについて――」
三枝の言葉が途切れた。田所と目が合い、眉間に皺が寄る。田所も笑顔のまま固まった。
次に動いたときには、もう鞄を抱えていた。
「奴銭社長! お疲れさまでした! 銃器と弾薬、問題なしっス! 書類もいただいたんで、これで失礼しまスッ!」
ハナを追い回していた人間が、逃げるとなるとまた速い。
「おや、もうお帰りで。さっきまで社員を持ち帰る余裕がおありだったのに」
「お気持ちだけで! ハナちゃん、またね!」
「来なくていい」
「照れなくてもいいっスよー!」
靴を履く音に続いて、玄関が開き、閉まった。朝から居座っていた声がなくなると、国道を走る車の音がよく聞こえた。
「お知り合いでしたか」
「高校まで一緒だっただけの、腐れ縁です」
三枝の目が、キッチンへ戻ったツキを追った。金色の耳が動くと、眉間の皺が消え、頬まで緩んだ。
「田所さんとは、気が合いそうですな」
三枝ははっと守へ向き直った。勧められた椅子に座る頃には、もう口元も引き締まっている。
「昨日の受託業務について、ご説明いたします」
「その話のそらし方も、打ち合わせ済みで?」
「避難誘導への協力、要救助者の救出、原因者の確保。いずれも履行を確認しております。契約報酬は八千五百万円です」
「よろしい。そちらを続けてください。特に、振り込みの日付を」
三枝は書類を一枚、抜き出した。
「併せて、県からのお願いをお伝えします。被災地への配慮として、報酬の全額を自主返納していただけないかと」
守は差し出された用紙を裏返した。
三枝が表へ戻した。八千五百万円。
「昨日は金を払うから働け、今日は働いたんだから金を返せと。契約書も、ずいぶん寛大に解釈なさる」
「お願いですので、応じていただく義務はございません」
守はもう一度裏返した。
三枝が、もう一度表へ戻した。
守が三度目に指をかけると、三枝は用紙の両端を押さえた。
「義務はないんでしょう」
「はい」
「では、その手は?」
「お読みいただくためです」
「読んだ。八千五百万だろう」
「では、表で差し支えないかと」
キッチンでお茶を用意していたユキが、二人のやり取りに耳を向けた。
「旦那様。まだいただいていないお金を、お返しするのですか?」
「そうだ。こちらはただ働き、向こうは振込手数料まで節約できる。よく考えてある」
ユキは湯呑みを盆に載せ、そばに来たツキへ渡した。
「こちら、お願いできますか」
「はいはい」
ツキは盆を運んできて、用紙を押さえる手の前で足を止めた。
「お茶と書類、どっちが大事?」
守が手を引いた。三枝も紙から指を離し、ツキが空いた場所へ湯呑みを置く。
「うちも車を失いましてね。被災地への配慮に、うちが入らない理由を伺っても?」
「御社の損害については、別途確認を進めます。返納も、今お決めいただく必要はありません」
「結構。うちの損害が見えるようになった頃に、もう一度お話ししましょう」
署名欄を空けたまま用紙を脇へよけ、守は湯呑みを取った。
お茶を置き終えたツキが体を起こしかけると、三枝の手がその腕を軽く引いた。
「ん、何?」
振り向いた頭へ、もう片方の手が載った。三枝の指が金色の髪を梳き、耳の後ろへ回る。
「お茶のお礼にしては、ずいぶん念入りね」
「ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」
ツキは盆を脇へ置き、テーブルに肘をついて目を細めた。
こちらの社員は、ずいぶん待遇がいい。
「それで、昨日の男は?」
「シルバーウォーターの処置で、人の姿へ戻りました。現在は医療側の管理下です」
「覚醒から浅かったか」
「その可能性が高いと。ほかに第一種、第二種被災者は確認されていません」
三枝の手の下で、ツキの耳が起きた。
「そっか。あの人だけで済んだのね」
ハナも肩まで影の外へ出てきた。キッチンではユキが手を止めている。
シルバーウォーター。通称、聖水。悪魔災害に侵された人間へ使うが、必ず元に戻せるわけではない。昨日の男には効いた。ハンドルと一体になっていた右手も、戻ったという。
あの男のような異変を起こした人間を、現場ではハッピーマンと呼ぶ。書類の上では、悪魔災害第一種被災者。街を壊した本人も、まずは救済の対象だった。
悪魔災害が世界各地で突如として発生したのは、五十年前のことだ。人間が異形へ変わる。周囲では、それまでの常識では説明のつかない現象が起きる。昨日、街中の車が集まって巨人になったのも、その一例だった。
「今後の聴取などは、回復状況を踏まえて進めます」
守はうなずき、お茶を飲んだ。ハナもようやく三枝の手元へ目を移す。
「逃げればいいのに」
「これ終わったら、お茶のお代わりお願いね」
ツキが返すと、ハナは耳を伏せた。それでも、今度は影へ戻らず、空いている椅子へ座った。
「車のローンについても聞いておいてください。車は持っていったが、借金を置き忘れている」
「そのままお伝えしますか?」
「私の名前は伏せて。うちへ請求に来る人間は、もう足りている」
玄関のベルが鳴った。三枝の手が止まり、ツキは体を起こした。
「はい、おしまい。続きはまた今度ね」
時計は、ようやく九時を回っていた。三枝は時刻を確かめるなり、書類をそろえて席を立った。
「今日は予約が多いな」
「私から時間をお伝えしました。国の方が、昨日の件でお話を伺いたいと」
「県に全額お返ししたら、国には何を差し出せば? 社員三人と、ローンなら残っていますが」
守は湯呑みを脇へ寄せた。
「ローンでよければ、喜んでお国のために」




