7話 寿司の話は、そこまでだ。1
翌朝、玄関を叩く音で目が覚めた。
二度、三度。少し待って、また三度。枕元の腕時計を見ると、九時にはまだずいぶんあった。
昨夜、受け付け時間は伝えたはずだ。
守は布団から這い出し、寝癖を押さえながら廊下へ出た。階段の下には、すでに制服姿のユキがいた。
「おはようございます、旦那様!」
白い髪も襟元も整えて、満面の笑みを向けてくる。いつからそこで待っていたのかは、聞かないことにした。
「心の準備はできましたか?」
答える前に、玄関がまた鳴った。
「すまん。先約が入った。ずいぶん熱心に戸を叩いている」
「では、そのあとですね。ユキはいつでも準備完了しております」
「承知した。私の予定表には、私が書き込む余地がないようだな」
「お待ちしております!」
予約を取り消す暇もなく、扉の向こうから声が響いた。
「開けてくださーい! 警察ですよー! ご近所に勘違いされちゃいまスよー!」
守は目を閉じた。
「勘違いの材料を追加するな」
つっかけに足を入れ、玄関の鍵を回す。
「へいへい。今、開けますよ。ご近所への広報は、そのへんで結構。うちは客商売なんでね」
扉の前には、書類鞄を提げた制服姿の女がいた。声も笑顔も、朝からよく働いている。
「おはようございまスッ! いつもの、来ました!」
「牛乳なら冷蔵庫へお願いします」
「銃と弾っス。冷蔵庫で保管してたら始末書じゃ済まないっスよ」
県警の巡査部長、田所修子である。守が体をよけると、招かれるのを待たずに上がり込んだ。
「お邪魔しまーす。昨日は派手にやったそうっスね」
「ええ。そちらの資料には八メートルとあったんですがね。ずいぶん成長の早い八メートルでしたよ」
「報告書、楽しみにしてるっス」
「娯楽にするな」
廊下の奥へ、ジャージ姿のハナが出てきた。眠そうな目が田所を捉え、途端に顔が曇った。
声をかける間もなく、足元の影へ飛び込んだ。尻尾の先まで、きれいに消えた。
「あっ、ハナちゃーん! 使用者本人の立ち会いが必要なんスよー!」
少し離れた壁際の影から、黒い耳と、不服そうな目が出てきた。守へ助けを求めているが、そこは田所の言うとおりだった。
「出てきなさい。君の愛想も、たまには日向に出してやれ。せっかく可愛い顔をしてるんだ。出し惜しみしても、私しか褒めてくれんぞ」
「私も褒めるっスよ?」
顔まで沈みかけたので、守は銃の保管場所を指した。
民間業者にも、銃器と弾薬の管理義務はある。持ち出した銃と弾、消費した数、持ち帰った残り。昨日ハナが書いた報告と、現物を照合してもらうのだ。
ハナが渋々、銃の用意へ向かったので、守も洗面所へ回った。
顔を洗い、髭を剃り、シャツに袖を通す。ネクタイを締めていると、リビングから声が届いた。
「ハナちゃん、こっち向いて」
「番号はそっち」
「分かってるっス。お顔も見たいだけっス」
「仕事して」
守はネクタイの結び目を締めた。まだ、ゆっくり身支度をする時間はありそうだった。
リビングへ戻ると、ハナが田所の腕に収まっていた。後ろから抱き上げられ、足も両腕も宙ぶらりんである。
「奴銭社長ー! ハナちゃん、押収して持ち帰ってもいいっスか?」
「どうぞ。その代わり、人件費は県警持ちで、うちの申請書も優先していただこう」
「巡査部長にそんな権限あるわけないッショ」
「持ち帰る権限だけ、都合よくお持ちなんですな」
肩越しにこちらを見るハナに促され、守はテーブルの報告書を取った。
「田所さん。持ち帰るなら、こちらを」
「検査、終わるの早すぎないっスか」
「君が終わってから抱えていたんでしょう」
「銃器も残弾も、報告どおり。問題なしっス」
書類を受け取ろうと腕が緩んだ瞬間、ハナはするりと抜け落ちた。床へ触れるなり、影に沈む。
田所は空いた腕を見下ろし、名残惜しそうに報告書へ持ち替えた。最後まで確かめ、鞄へ収める。
「社長、昨日は大丈夫だったんスか」
向かいの椅子へ腰を下ろした田所は、今度はまっすぐ守を見ていた。
「社用車はなくなったが、ローンは無事だ。あれにも一緒に飛んでいってほしかったね」
「そういう意味じゃなくて。避難範囲も広がる一方で、警察も消防も大騒ぎだったっス」
「こっちも予定は変わったよ。広告だけは、ずいぶん高いところに出せたがね」
田所は笑いかけたが、すぐに口をつぐんだ。
「先に言っとくっスけど、署では業者の対処に問題があったんじゃないかって声も出てるっス。あとで説明を求められるかもしれないんで」
キッチンで、湯呑みの音が途絶えた。
「ほう。それはぜひ、次の現場でご指導いただきたい。先生方のお立ち台くらい、うちで用意しますよ。潰されないように頑張っていただいて」
「社長、顔が怖いっス。自分が言ってるんじゃないっスよ」
「分かってる。君にはハナを下ろす台を用意する」
「そっちも怒ってたんスか」
田所は苦笑した。
「でも、助けられた人たちは違うっスよ。狐の子たちが来てくれた、すごかった、助かったって。正義の味方っスね」
「それはあの三人に言ってやってくれ。私は請求書を出すから、そちらでは悪者になる予定だ」
「社長もいたんでしょ?」
「救助は三人、交渉は私。あの怪物より、電話の向こうの担当者のほうが話を聞いてくれなかったがね」
田所が吹き出すと、キッチンでも湯呑みの音が戻った。守の視線に気づき、ユキが顔を上げる。
「何か、旦那様?」
「いや。褒められてるぞ」
「ありがとうございます!」
ユキが頭を下げる。持ち上がった尻尾が、戸棚を叩いた。
「戸棚は助けなくていい。そっと頼む」
「はい!」
ユキは尻尾を押さえ、田所の前へお茶を運んできた。
「労うなら、三人に何か食わせてやってくれ。感謝の言葉では食費が減らん」
「いいっスよ。ハナちゃんのお母さんになれるなら」
「まず本人の承諾を」
「お断り」
テーブルの下から即答があった。
「聞いてたんスね、ハナちゃん!」
田所が嬉しそうに下を覗き込む。
「帰って」
「冷たいっスねえ。社長の奥さんになれば、少しは懐いてくれるっスか?」
今度は守を見た。笑みを浮かべたまま、返事を待っている。
「応募先も募集要項も間違っていますよ、巡査部長」
田所が口を開きかけ、キッチンへ目をやった。ユキが笑顔でこちらを見ている。
「採用担当の方、変わってもらえまス? ユキちゃん以外で」
玄関のベルが鳴った。
一度きりだった。来客は戸を叩くこともなく、返事を待っている。
「呼び鈴、あったんスね」
「ええ。警察の捜査では発見に至らなかったようですが」
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