6話 夜這いに残業手当はつかんぞ。2
その夜、事務所にはまだ明かりがついていた。
二階の三つの個室は、とっくに静まり返っている。守は一人、仕事机に書類を並べていた。
行政へ提出する災害対処の報告書。ツキの救護記録。ハナの銃器使用報告書。現場では数秒で済んだことにも、日時と場所と理由を添え、所定の欄へ収めなければならない。
電柱三本については、まだ書いていない。
守はその欄を空けたまま、ほかの項目を埋めていった。
時計の数字が日付をまたいで、しばらく経つ。
「……続きは明日の私に任せよう」
ペンを置き、机の明かりを消した。
リビングの隣には、以前の持ち主が居間兼仏間に使っていた和室がある。今はそこが守の寝室だった。
敷きっぱなしの布団へ潜り込み、目を閉じる。
暗くなっても、空欄は頭に残った。
必要な措置だった。いや、三本とも必要だったと言い張るのは無理がある。だが、現場での判断を、あとから安全な机で――。
反論の途中で、意識が沈んだ。
何か、柔らかいものを抱えていた。
毛布にしては毛足が長い。腕の中へたっぷり収まり、顔を埋めると、ほのかに温かかった。
請求書も、報告書も、もう少しあとでいい気がした。
遠くで、誰かが笑った。
聞き覚えのある声だった。かつて後方から見ていた、前線で悪魔災害に対処する同僚の姿が、ぼんやりと脳裏に浮かびかける。
そちらへ目を凝らしたところで、守は目を覚ました。
暗い天井がある。
腕時計のボタンを押すと、液晶が淡く光った。眠ってから、まだ一時間も経っていない。
数字の前を、白い毛が横切った。
守は瞬きをした。
腕に抱えているのは、尻尾だった。
その持ち主が、自分のすぐ横に収まっている。布団の中に体温がもう一人分。顔を向けると、鼻先が触れそうなところで、ユキと目が合った。
「旦那様」
「業務時間外だぞ。苦情の受け付けは明日の九時からだ」
「……本日は、申し訳ありませんでした」
守は片目を閉じた。
「もういい。続きは夢の中で聞く」
「ですが」
「反省は受け取った。部屋へ戻って寝なさい」
ユキは動かなかった。
守も目を閉じ、戻ってくれるのを待った。
衣擦れがする。
布団が持ち上がり、体の両脇へ重みがかかった。
目を開けると、ユキが布団越しに守をまたいで座っていた。
眠気が引いた。
「……ユキ」
「はい」
「夜這いに残業手当はつかんぞ」
冗談にしてみたが、ユキは笑わない。暗がりでも分かるほど、真剣な顔をしている。
守は布団の中で身を固くした。
狐耳と尻尾を生やした今の姿は、女子高生くらいにしか見えない。姿が変わる前は、れっきとした成人女性だったのだが。
いや、年齢がどうあれ、うちの従業員だ。しかも、昼間に散々叱ったばかりの。ここで変な勘違いをしてみろ。明日からハナにどんな目で見られるか。ツキにはどれだけ呆れられるか。
そもそも、二人に知られるかどうかの問題ではない。社長としてどうなんだ。
ユキが口を開いた。
「ありがとうございます」
守は身構えたまま、返事をし損ねた。
「私たちを、ここで働かせてくださって」
「……ああ、ん?」
「私だけではなく、ツキも、ハナも。小隊にいたときのように、また三人でいられるとは思っていませんでした」
二階で、かすかに床板が鳴った。
ユキはそちらへ耳を向け、少し声を落とす。
「二人とも、ここを気に入っています」
「本人たちからは、小言ばかり聞かされるがね」
「私には、分かります」
言い切ってから、ユキは膝の上で手を重ねた。
「今日も、あれだけのことをしてしまったのに。ここにいていいと、おっしゃってくださって」
そんな言葉を口にした覚えはなかった。
だが、出ていけとも言っていない。
「……給料分は働いてもらうぞ」
「はい」
「電柱は抜くな」
「はい」
守は天井へ目をそらした。
何を身構えていたのか。わざわざ謝りに来た従業員を相手に、余計なことを考えたものだ。
明日になったら、空欄を埋めよう。請求についても、来る前から諦めることはない。車だって、探せば安い中古がある。
三人分の給料くらいは、何とかしなければ。
「旦那様」
声が近づいた。
ユキが両手を守の枕元につき、顔を寄せてくる。
「もう一度、お聞きしたいです」
「何を」
「お昼の、続きを」
守は眉を寄せた。
契約の話か。説教か。昼間は、ずいぶんいろいろ喋った。
「私に、言ってくださったことです」
白い耳が伏せられていく。
「愛してる、と」
守は黙った。
「そのあと、そばにいてほしいとも」
暗闇へ、長い息を吐く。
感謝の話は本当だったのだろう。だが、これを聞くまで帰る気がないのも、本当らしい。
大人同士、話せば分かると思った私が間違っていた。
「……分かった」
ユキの耳がぴくりと立った。
「少し、心の準備をさせてくれ。それまで目をつぶっていてくれないか」
「はい!」
目の前で、ユキが固く目を閉じた。口元が、どうしても緩んでしまうらしい。
守はそっと枕元へ手を伸ばした。
スマートフォンの画面を点け、従業員への一斉緊急通話を押す。
家中で、着信音が鳴り始めた。
頭上で二つ。すぐそばでも、一つ。
「旦那様?」
「そのまま。まだ準備中だ」
天井の隅から、黒い影が垂れた。
逆さまに顔を出したハナが、布団の上のユキを見て、半目になる。
「……リーダー」
廊下を歩く足音に続いて、襖が開いた。
ツキが寝間着の袖で口元を押さえ、あくびをしている。
「はいはい。明日もお仕事だからね」
「あっ、待ってください。私はまだ、旦那様から――」
「続きは営業時間内にお願いして」
ハナが影から降り、ユキの片腕を取った。もう片方をツキが抱え、二人で布団から引き離す。
「旦那様、心の準備は!」
「明日の九時までかかる」
襖が閉まった。
階段のほうへ遠ざかる抗議の声を聞きながら、守は緊急通話を切った。
布団を引き上げ、寝返りを打つ。
腕の中に、白い毛が一本残っていた。
それをつまんで枕元へ置き、目を閉じる。
思いのほか、ぐっすり眠れた。




