3話 愛してるぞ、ユキ。だから電柱を置け。3
守は周囲を見回した。
交差点に面した雑居ビル。その屋上が、巨人の胸に近い。
「ユキ。私をあの屋上まで運べるか」
「はい! ツキ、そちらの歩道は空いていますか?」
『大丈夫。こっちへ倒して。人は近づけない』
ユキは車内を確かめると、タクシーを道路の端へ横たえた。側面が接地して軋み、滑っていた車体が止まる。
戻ってきたユキが、守の膝裏へ手を伸ばした。
「そっちじゃない。担げ。仕事中に二度も三度も抱かれてたまるか」
「では、失礼します」
守の腹に肩が入った。
「ぐえっ」
足が地面を離れた。
文句を言う前に、ユキが跳んだ。
ビルの窓が眼下へ流れた。風に煽られた上着が頭にかぶさり、守は裾を押さえた。
着地は静かだった。
ユキは膝を曲げて衝撃を逃がし、守を屋上へ下ろした。
「着きました、旦那様」
「次から離陸前に一言くれ」
上着を引っ張って直し、守は屋上の縁へ歩いた。
手すりの向こうに、車が積み重なっていた。
道路からでは見えなかった車内が見える。垂れ下がったシートベルト。潰れたチャイルドシート。割れたカーナビの画面が、交差点を曲がるよう指示し続けている。
「私が話している間に、原因者の位置を絞れるか」
「ハナ、聞こえましたね。本人の位置を確認。ツキは避難誘導を続けて!」
『了解。話、長めにお願いね』
『こっちも任せて』
守は手すりの向こうへ声を張った。
「おい。聞こえるか」
胸のスピーカーが、一斉に鳴った。
『ジャマヲ、スルナト、イッテイル!』
「聞こえてるなら音量を下げろ! 丸腰の紳士に対して、その態度は何だ!」
雑音が途切れた。
ユキが守の隣に立った。手すりへ伸ばしかけた手を止め、巨人を見据える。
守は咳払いをした。
「株式会社悪魔災害110番の奴銭です。現在、あなたの起こした災害の対処を請け負っています。まず動くのをやめてください。中にいるあなたを出します。今なら、話し合いで済ませる余地があります」
『ボクハ、ヨクシテイルンダ!』
声量は下がっていなかった。
「いったい何をですか?」
『コノマチヲ! ミンナノ、タメニ!』
守は片眉を上げた。穴だらけの道路へ目を落とし、巨人へ視線を戻す。
「道路が穴だらけです。信号機は折れています。あなたのお腹には私の社用車が入っています。どのへんが良くなりました?」
『ミチガ、アク!』
「はい?」
『クルマガ、ヘレバ! ジュウタイガ、ナクナル!』
「は?」
守の口が開いた。
胸に埋まったカーナビが、右折を促した。
『クルマガ、ナケレバ! ダレモ、マタナクテ、イイ!』
守はしばらく、返す言葉を探した。
「……それで集めてるのか。車を」
『ソウダ! ミンナノ、タメニ!』
守は片手で顔を覆い、頬から顎までゆっくりこすった。ため息とともに、手を下ろす。
「頭の中までハッピーマンか!」
ユキの耳が跳ねた。
「車がなければ渋滞しない? そりゃそうでしょうね! 店を全部潰せば行列もなくなるし、会社が潰れりゃ通勤ラッシュもなくなる! どうです? 明日はそっちもやってみます? その調子で何もかもなくしていけば、最後はさぞ暮らしやすい更地ができるでしょう!」
『ソウダロウ! ソレナラ、ミンナ、コマラナイ!』
電子音声が得意げに跳ね上がった。
「褒めてないんですよ! しかも見てくださいよ、この道路。穴だらけだ! 車がなくても走れない! 渋滞対策のために道路を使い物にならなくするとは恐れ入った! ずいぶん思い切った交通政策だ!」
巨人の胸で、スピーカーが甲高く鳴った。
「大体お前、車が邪魔だと言いながら全部自分にくっつけてどうする! まとめれば一台とでも数えてもらえると思ったか?」
『オマエ、ナニヲイッテイル!』
「車幅を見ろ、車幅を! お前一体で何車線潰してると思ってんだ! 渋滞をなくした? 先頭の車が全部つながって歩き出しただけだろうが! 教習所もお断りだ、コースに入らん! その腹に『通行止め』と書いとけ! そうすれば初めて交通の役に立つ!」
返事が途絶えた。
巨人の指が、一本ずつ折れ曲がった。握り込まれた車の窓が、ぱん、ぱん、と割れていく。
『ダマレ!!!!』
車体の隙間で、ヘッドライトが一斉に灯った。
ユキが守の袖を引いた。
「旦那様、下がってください」
「いいや、まだだね。こいつには自分が何をやったか――」
『ボクハ、ジュウタイガ、キライナンダ!』
巨人が上体をひねると、肩の車が擦れ合って火花を散らした。何台もの乗用車を束ねた拳が、屋上を影で覆う。
守の言葉が止まった。
「おい、待て。私は車じゃ――」
ユキの腕が、守の腰をさらった。
屋上が消えた。
拳がコンクリートを突き破り、手すりも給水タンクも、砕けた床とともに階下へ落ちた。
守はユキに抱えられたまま宙を飛んでいた。背後から破片が追ってくる。ユキが身をひねり、守を胸元へかばった。
ユキは膝を深く曲げて着地し、靴底で路面を削りながら踏みとどまった。腕の中の守を覗き込む。
「旦那様。お怪我は」
「ない。ないが……」
背後の屋上からは、折れた鉄筋が突き出していた。さっきまで二人が立っていた場所だ。
「話の途中で潰すやつがあるか。お前、あそこに人がいたらどうするつもりだ」
『ボクハ、ミンナノ、タメニ――』
「そのみんなに今、お前が殴りかけた人間は入ってるのかと聞いてるんだ。まず動くな。これ以上、被害を――」
『クルマガ、ナクナレバ、ミンナ――』
ユキは守を路面へ下ろし、上着の粉を払って襟を直した。その指が、守の言葉を遮る電子音に止まる。
「こちらのお話を聞いてください」
『ジュウタイガ、ナクナルンダ! ソウスレバ――』
無線機から、ツキの声がした。
『周辺の建物も避難完了。残ってる人はいないよ』
ユキは唇を引き結び、大きく息を吸い込んだ。
「旦那様が、お話しされているでしょうッ!!」
守の肩が跳ねた。
規制線のほうから戻ってきたツキが、足を止めた。足元の影から、黒い狐耳が二つ覗いた。
巨人のスピーカーが、一瞬、黙った。
ユキは守の一歩前へ出た。
「先ほどから、何度もお伝えしています。動きを止めて、こちらの指示に従ってください」
白い耳は、まっすぐ巨人へ向いていた。
「あの方は、あなたをここから出すためにお話しされているんです」
『……ソイツノ、ハナシ?』
巨人の頭が傾いた。
『サッキカラ、クチバカリ、ウゴカシテ。ナニモ、ススマナイジャナイカ』
「お前のせいで、物理的にも進まないんだがな」
『ソイツミタイニ、クチバカリノ、ヤツガ、イルカラ! イツマデタッテモ、ジュウタイガ、ナクナラナインダ!』
「なるほど。では交通会議には君を推薦しよう。車を全部潰せば解決するそうですと。次から呼ばれなくなるぞ。会議の渋滞も解消だ」
『オマエミタイナ、ヤツガ、イナクナレバ。ミンナ、モット、スムーズニ、イキラレルノニ』
スピーカーが低く唸った。巨人の指がじりじりと握り込まれ、車体の軋む音だけが続いた。
『ジャマナンダヨ、コノ、ポンコツ』
ユキの耳が、ぴたりと動きを止めた。
「……はぁ?」
さっきの怒号より、ずっと小さな声だった。
守が振り向くと、ユキの口元にはまだ笑みが残っていた。巨人を見据える目だけが、笑っていない。
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