第3話 青銅の腕亭にて
宿屋「青銅の腕亭」の窓から差し込む陽は、後幾ばくも無く夕暮れを形作るだろう角度に迫っていた。仕方無い、明朝まで飲み耽ってから寝たのだから、そんなものだろう。本格的な異世界観光は明日に持ち越す事にする。
となると、明日の準備か。軍資金は門番モルトに貰った銀貨七枚。俺の現在の全財産だ。
……これがどれくらいの価値か分からないのが最高に問題だな。モルトは宿屋で二、三日宿泊出来ると言っていた。が、宿泊費というヤツは本当にピンキリである。飲み屋の「時価」みたいなものだ。
ちょっと宿泊予約サイトでも見てみて貰えば、俺の言っている事がすぐに理解出来るはずだろう。一体どの金額のラインが「中堅」なのか五分で分からなくなるのは保証する。
ましてや、ここは異世界である。昨日の夜に転生した俺にはこの街「エンジナ」におけるリンゴ一個の相場すら窺い知れない。
聞くは一時の恥。そう、こういう時の便利なAIもといゴーレムだった。
「カエナ、この街のリンゴの値段は一個幾らだ?」
『時期や状態によって変わります。今であれば、平均大のものでおおよそ青銅貨二枚から青銅貨一枚と黄銅貨六枚が相場です』
青銅貨? 黄銅貨? 何それ知らない。
この異世界の貨幣感覚を知ろうと思って聞いてみたら金貨や銀貨ではない別種の貨幣が出て来て混乱が加速する。
……これはもう、市場なんかを眺めた方が早いかも分から……この国の言葉が分からないという事は値札も読めないって事じゃねえか! チクショウめ!
改めて言語の壁の高さを知る俺である。まさか異世界でアラビア数字が使われている訳もあるまいし。
ああ、アレもコレも色々と不便極まりない。こうなってくると、本当にルキナさんの提供してくれる『二か月生存保障サブスクサービス』がどれだけありがたい事かよ。
人の優しさが身に染みるって、比喩表現じゃなかったんだなあ。
などと、俺が色々と考えていると、こちらをぼんやりと眺めていたルキナさんが口を開いた。
「なんだ、リンゴが食べたいのかい? 確か、棚に有ったから言ってくれればすぐに出せると思うけど」
「いえ、そういう事では無く。この街の物価が知りたかったんですよ」
「物価? そりゃなんだい?」
あ、物価って概念なのか。確かにそうか。いや、39年生きてきて初めて知ったわ。
「物の値段です。街によって何が安くて何が高いかは違うでしょう? 岩塩が取れる街では塩が安く、海辺の街では魚が安いのは当然です。また、そもそも何もかもが満遍なく高い街も有ります」
「それで、リンゴの値段をカエナに聞いたのかい。商人みたいな事を言うんだねえ、クロードは。生憎、アタシは産まれてこの方この街から出た事が無くてさ。街によって物の値段が違うなんて考えた事も無かったよ」
女将さんは感心したように頷いた。
「それなら今から……はもう遅いか。明日にでも市場に行ってごらん。ウチの前の道を左に行って真直ぐが大市の開催広場だ」
これは良い情報を聞いた。俺に値札は読めなくとも、道行く人が金銭のやり取りをしている所をチラ見する事は出来る。きっと異世界での金銭感覚を養うのに役に立つはずだ。
だがしかし、そのタスクの履行には大きな問題が一つ横たわっている。とても大きな問題が。
「街に着ていく服が無いです、ルキナさん」
「あー、確かにアンタのその民族衣裳は街中では浮くかもねえ……」
服を買いに行くための服が無い問題である。なんか前世で聞いた事の有るフレーズだな。
「やっぱり浮きますよねえ」
しかし、本当にどうでも良いが、グレーのジャケットに柄物(浮世絵。前世の職場でウケが良かったのでヘビロテ)のTシャツ、黒のカラージーンズって死ぬ前は地球規模であるあるな服装であったのに、所変われば「民族衣装」と表現されるのはかなり面白い。
異世界転生ってこんな感覚になるんだなあと感心する事、山の如し。我が懐事情、火の如しである。ついでに言えばキョドる事林の如し、周りに流される事風の如しな俺である。
「服……クロード、ちょっとそこに立ってごらん?」
「あ、はい」
言われるままに椅子から立ち上がった俺を、ルキナさんは矯めつ眇めつ。顎に拳を当てつつ、前後左右から俺を舐めるように値踏みする。なんかバーディーパットでグリーンの芝を読む女子プロゴルファーみたいだ。
「えっと、なんで俺は唐突に立たされたんですかね?」
「ああ、クロードの背丈の感じを見たくてね。……うんうん、ウチの旦那の若い頃の服とかちょうど良さそうじゃないか」
「え、バレルさんのですか?」
「ああ見えて、昔はスラッとして格好良かったんだよ。今はただの樽型髭親父だけどねえ。くっくっくっ」
「し……信じられねえ」
正直、俺には想像すら出来ないよ、細身のバレルさんという生き物が。もしかしたら、カエナの画像データとかに残っているだろうか。後でこっそり見せて貰おう。爆笑出来る自信が有る。
「男は服に流行り廃りが無いって言うけど、それにしたってデザインがちょっと古いのは勘弁しなよ。勿体無いから捨てられずに残してあるって訳で、それなりに品質は保証するからさ。それになんと言ってもタダだ。断る理由も無いだろう、クロード。さ、カエナ、クローゼットをひっくり返すよ。手伝いな!」
『了解しました』
「クロード、アンタしばらくウチに居るつもりなら、カエナ以外のウチに有るゴーレムも通訳として使えるようにしておきな。六機有るからね。アタシらが戻ってくるまでに、だ。凄腕のゴーレム技師のアンタにとっちゃ、それくらい朝飯前だろう?」
ウインクをして廊下へと消えていくルキナさんとカエナ。後十歳彼女が若ければ俺は全力で恋に落ちていたかもしれない。それくらい、魅力的な仕草であった。
「バレルさんがちょっと羨ましいかも知れん」
後に、ルキナさんとカエナの前で少し埃臭いファッションショーをさせられた際、姿見を通して俺は自分が若返っているのをとうとうこの目で確認した。見た目で言うなら17、8歳。道理で誰に会っても「若い」と言われる訳ですよ。
ついでに「若い頃の旦那にそっくりねえ」とほんのり頬を赤く染めてルキナさんが言うのには大層閉口した。
異世界初のメシは美味かった。
クリームシチューとチーズフォンデュを足して二で割ったような汁物に、薄くスライスし軽くトーストしてあるライ麦パンが非常に合う。前世では中々見ない厚みの炙りベーコンも塩加減と肉汁がたまらない。スティック野菜とそれ用のソースのセットがそっと脇に添えてあるのも小憎いね。
パンでもワインでも、好きな方で好きなだけ楽しめるだろうメニュー。これ、二か月食べ放題って……マジっすか?
はてさて青銅の腕亭のメシが美味いだけなのか、他のレストランも「そう」なのかは分からないが。このレベルの味で提供しておきながら、食堂が客でごった返す事も無いので恐らく後者だと推理する。
異世界のメシはお約束に反して美味い。前世で毎日食っていたレトルトやインスタントは正直比較対象にすらならない。
「よう、クロード。ウチのメシは異邦人のお前さんの口に合うのか?」
夜になって食堂に顔を出したバレルさんに向けて何度も頷く。口の中に物が入っている為、咄嗟に返答出来ないながらもこの感動と感謝を表現したかった。
バレルさんは満足そうに一つ頷く。
「ソイツは何よりだ。ルキナに聞いたが、お前、ウチに泊まる事になったんだって? 困った事が有ったら何でも言ってくれよ。お前はカエナの……いや、ヤング一家の恩人だ」
ヤングとはバレルさんの家名である。そして、その「ヤング一家の恩人」というフレーズは半日ちょっと前の飲みの席で繰り返し聞かされていた。
『当宿主人の仰る通りです』
面白いのは、バレルさんの口からそのフレーズが出る度に、カエナのカメラアイが一瞬デフォルトの赤からピンクに変色する点だろうか。どういう処理が内部で行われているのか気になってしまうのは、これはもう前世の職業病であろう。
そうして、右と左からステレオでヨイショされ、あわや今夜も性懲りも無く飲み会へと突入かと思われた矢先、青銅の腕亭へと来店した男に開口一番、俺は声を掛けられる。
「お、その様子だと上手くやったみたいだな、兄弟!」
「モルトさん!」
異世界における「第一村人(街)」、門番のモルトがこちらに向けて手を挙げていた。
「ああ兄弟、相席構わないか。実は気になって様子を見に来たんだよ。女将さん、俺にもコイツと同じでシチューとベーコン、酒はウイスキーをくれ! 野菜とパンは要らねえ!」
俺が相席の是非を言うよりも早く、むくつけきアラサーの門番は対面の椅子にどっかりと座り込んだ。俺に有無を言わさず、しかしてそれが傲慢にギリギリ当たらない見事なライン取りである。
「あいよ。すぐにゴーレムが持って来るさ。それにしても……聞いたよ、モルト。ゴーレムの修理費に銀貨七枚はアンタ、流石に安過ぎるんじゃないのかい?」
「いやいや、女将さん、俺はあの時銀貨八枚しか手持ちが無かったんだ。あのタイミングで支払えるギリギリまで出した事をむしろ褒めてくれよ」
「相変わらず調子が良いねえ」
こちらのテーブルへと飲み物を持ってやってきたルキナさんが、モルトの隣、バレルさんの対面に座る。四人掛けのテーブルの椅子がこれで埋まった事になる。カエナ? カエナはずっと俺の右で立ったまま給仕と通訳をしてくれているよ。
そんなカエナをモルトはチラリと見て、その後で俺をしげしげと、ニヤニヤと眺めた。
「やっぱりカエナを直してくれたんだな、兄弟。流石は凄腕ゴーレム技師だ。お前ならやってくれると思ったぜ」
本当に調子の良い男だ。どうせ「ワンチャン有るなら賭けてみるか」くらいの軽いつもりであっただろうに。ああ、ストレートに褒められているせいで怒りづらいのもよろしくない。
「その口振り、やっぱり意図が有って青銅の腕亭を俺に紹介したんですか……まあ、良いです。おかげさまで初仕事に有りつけて、無事この街でやっていけそうな、そんな良いスタートが切れました」
「ま、アタシも感謝はしてるよ。クロードを斡旋してくれてありがとう、モルト。コイツはサービスだよ」
女将ルキナのお酌で、モルトのグラスへと琥珀色の酒がなみなみ注がれる。酒の量は可視化した感謝の量。女将さんのそれはグラスから溢れんばかりだった。
「流石、女将さん。話が分かる。女将さん、クロード、そして一杯のただ酒を手にした俺と。三方良し、だな!」
エンジナの門番モルト。どこまでも調子が良く、抜け目の無い男である。ただまあ、俺にとって恩人である事は否定出来なそうだが。
飲み始めてからどれくらい経ったろうか。俺たちのテーブルはすっかり出来上がっていた。
もともと、今朝の飲みの時点で気心の知れている俺とバレルさんに裏回しの上手いモルト、気の利く美人女将のルキナさんである。こうなる事は自明であった。
「バレルさん達を見てると結婚に憧れてしまいますねえ」
「あら、嬉しい。クロード、お酒のおかわりは?」
ルキナさんはもしかして俺を酔い潰したいのだろうか。ちなみに今朝、俺を客室まで運んでくれたのはカエナであるらしい。流石はウッドゴーレム。大した膂力だぜ。
お姫様抱っこという事実だけは伏せておいて欲しかった。お姫様抱っこ「する」より「される」方が先だったのはちょっと……男としてのプライドがズタズタですよ。
「止めとけ止めとけ、兄弟。女なんて、ありゃあマジでロクなモンじゃねえぞ!」
アラサーの酔っ払いが全人類の半分を敵に回した瞬間である。当然、そのモルトの失言を見逃すルキナさんではない。
「モルト、アタシを前にして吠えるじゃないか? この程度の量で前後不覚かい? 情けないねえ」
「いやいや、世の中には女将さんやルシアちゃんみたいな良い女がそういないって事ですよ」
悪手を好手にたった一手でひっくり返しただと……どれだけコミュニケーション強者なんだよ、モルト。即座に弟子入りを検討する俺である。
「相変わらず口が上手いねえ、モルト。おかわり要るかい?」
「要ります……っあー、なぁんで俺以外のヤツと結婚しちゃうかなあ、ルシアちゃん」
注がれた酒を飲み下し、酒臭い息で爆弾をテーブルに投下する男。途端にバレルさんの目がキツくなった。そういうの、どうか俺の居ない所でやってくれませんかね?
「モルト、お前ワシの娘を狙っておったんか!?」
対するルキナさんには動揺の様子は欠片も無い。あー、そういう感じですか。そうですか。知らぬは親父ばかりなり。異世界であっても似たり寄ったりである、ホモサピエンスなんてのは。
「ああ? バレルさん、男が特定の店に通い詰める理由なんて一つしかないでしょ。大体、バレルさんだって同じ手でルキナさん落としたんじゃないですか」
あ、これは勝負有ったな。モルトによる狙いすましたカウンターパンチだった。
「ぐぬぬ……」
「良いか、兄弟。女なんてのは基本、ロクなモンじゃない。クロウラーなんてフラフラした仕事は辞めてくれないと結婚なんて考えられない、とかなんとか言いやがるから宮仕えを始めたが、そこでのストレスで鬱屈していく俺の事は、あの女見て見ぬふりしやがった」
「あら、始まったわ。モルトの昔語り。久し振りねえ」
楽しそうに、語尾に音符が付いてるみたいにルキナさんが言うが……そんな楽し気な話には絶対ならない展開ですよ、コレ? 正気か?
ところでクロウラーってどんな職業なんだろうか? 愚痴が終わったらちょっと聞いてみたい。
「腹が立って女とは別れて、流れ流れて気楽で退屈な門番よ。かつてはダンジョンにその人有りと言われたこのモルト様が、だぜ?」
血中に流れていたアルコールが、モルトの言葉に反応していちどきに蒸発したような錯覚を覚えた。
ダンジョン。
「モルトさん、ダンジョンに潜っていたんですか!?」
異世界ファンタジーのお約束が、初めて俺の前に姿を見せたのだから興奮するのは仕方が無かった。
「おうよ。三年前までは現役バリバリのクロウラー様よ。六層まで潜ったことも有るんだぜ」
胸を叩いて自慢げに酒を飲み下し、テーブルに木製のジョッキを叩き付けながら彼は言う。なるほど、クロウラーというのは要するに「冒険者」とか「ダンジョンアタッカー」のこの世界での呼び名らしい。前世のゲーマー知識が俄然、熱を帯びて励起し始めるのを感じる。
やっぱこういうのだろ、異世界ファンタジーってさあ!
「じゃあ、モルトさんはダンジョンを制覇した事が有るんですか?」
「んん? ダンジョンを、制覇? それはどういう意味だ、兄弟?」
モルトは杯を傾けたまま、首を傾げた。分かる言葉で喋ってくれ、とでも言いたげな顔だ。……いや、カエナの通訳を介しているから、お互い母国語で喋ってはいるはずなのだが。うーん、なんだろう、ここの認識のズレは。
「いや、ええと……最下層を隅々まで探索し尽くす、とかですかね。最奥の主を倒してクリアする、とか?」
こういうのはRPGの基本中の基本じゃないか。ダンジョンには必ず最深部があり、そこに鎮座するボスを撃破してクリアとなる。あるいは隠された宝箱をすべて回収して「マップ踏破率100%」にする。それがダンジョン攻略というものだろう。
まあ、たまに満足するまで無限ダンジョンをどうぞ、みたいな作品も有るが、そういうのは少数派だろうさ。
「そういうのですけど」
常識のように言った俺。けれど、モルトの顔に浮かんだのは、まるで仇敵から唐突に塩を送りつけられた武田信玄のような純度100%の困惑だった。
「最下層ォ? ダンジョンに底なんて有るのかよ」
「え?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
酒の酔いが、完全に吹き飛んだ。
底が無い? ダンジョンに?
じゃあ、この世界のダンジョンってのは一体……どういう扱いになっているんだ?




