白銀の中、光の海を渡る
フィンランドの冬は、夏とは一転して世界が漆黒と白銀に支配される。
午後3時には太陽が完全に沈み、街灯と雪の照り返しだけが世界を照らす12月。ダンの息は、吐き出すたびに白い煙となって闇に消えた。
HJKヘルシンキの屋内ドームでの練習を終えたダンを待っていたのは、大きなウールのコートに身を包んだ父マルクと、その隣で白いマフラーに顔をうずめて小さく手を振る母、真由美の姿だった。
「お疲れ様、ダン。今日のミニゲーム、最後の方ちょっと足が滑ってなかった?」
真由美がスポーツバッグを受け取ろうと手を伸ばしながら、母親らしい鋭い観察眼で尋ねた。
「あ、分かった? 冬の人工芝は夏より硬くて滑るんだ。だから、じいちゃんのノートにある『木場の丸太乗り』みたいに足の裏全体でガチッと体重を受け止めようとすると、一瞬足首がロックされちゃうんだよね。冬はもう少し、膝を柔らかく使って力を逃がさないとダメかも」
ダンは足元にある、凍った雪の塊をブーツのつま先で器用にすくい上げ、ポン、ポンと小さくリフティングしてみせた。不安定な雪の塊相手でも、軸足は凍結したアスファルトの上でピタリとブレない。
「あら、じいちゃんの丸太乗りがこんなところで役に立ってるのね」
真由美がクスッと笑う。
「ハハ、硬いピッチには硬いピッチのいなし方があるわけだ。昔の泥のグラウンドにはなかった現代のパズルだね」
マルクがダンの金髪を大きな手でくしゃりと撫でた。
「よし、フットボールの研究はここまで。凍える前に、三人でクリスマスストリートへ行こう」
アレクサンテル通り:光の海と「ホラ話」の真実
三人が歩みを進めると、ヘルシンキで最も美しいとされるクリスマスストリート「アレクサンテル通り」へと出た。
頭上には、幾千もの温かい電球で作られた光のカーテンがどこまでも続き、歴史あるレンガ造りの建物の窓からは、クリスマスを待つキャンドルの灯りが優しく漏れている。中央広場には巨大なモミの木のツリーがそびえ立ち、下町の厳かな静けさと、マーケットの華やかな賑わいが絶妙に混ざり合っていた。
「綺麗だね、母さん」
碧い瞳に、イルミネーションの光がキラキラと映る。
「ええ。でもね、ダンのひいおじいちゃんのノートにも、日本のクリスマスの話が書いてあったのよ」
真由美がダンのマフラーを直しながら、楽しそうに悪戯っぽく微笑んだ。
「あ、知ってる!『ワシは銀座のモガ(モダンガール)たちに囲まれて、クリスマスケーキを丸ごと4個平らげ、ア式蹴球部の仲間と夜通し浅草で蹴球の議論を交わした』ってやつでしょ? あれ絶対に嘘だよ。当時のケーキはそんなに安くないって、前に母さん言ってたもん」
「ふふ、ケーキ4個は絶対に盛りすぎだけどね」
真由美はツリーの光を見上げながら、少し懐かしそうに目を細めた。
「でも、あの時代に日本でクリスマスを祝うのは最先端のインテリやモダンな人たちだけだったのは本当よ。じいちゃんは実家の材木屋の財力に任せて、早稲田の仲間と一番新しいトレンドを楽しんでいたの。いつだって時代の先頭を走って、みんなを驚かせたい人だったから。……ちょうど、今のダンみたいにね」
「僕? 僕はホラは吹かないよ」
ダンが口を尖らせると、マルクが「どうかな?」と声をあげて笑った。
シナモンロールの香りに包まれて
三人でマーケットの屋台を冷やかし、ママの欲しがっていたクリスマスの飾りを買った後、ガラス窓が結露で白く曇った小さな老舗カフェへと滑り込んだ。
ドアを開けた瞬間、冷え切った体を包み込んだのは、香ばしいコーヒーと、焼き立てのコーリシンプッカ(フィンランド風シナモンロール)の暴力的なまでに甘い香りだった。
「ふぅ……生き返る」
ダンの前に、パパがたっぷりのホットチョコレートを置き、ママが切り分けてくれた大ぶりのシナモンロールを差し出す。カルダモンがピリッと効いた北欧ならではの温かい甘みが、五臓六腑に染み渡っていく。
「ねえ、パパ、ママ。冬はボールが硬くて重いから、強くキックすると足首にすごく負担がかかるんだ」
ココアの泡を口元につけたまま、真剣な眼差しで言った。
「焦らなくていいのよ、ダン」
真由美が優しくダンの口元をペーパーで拭った。
「冬は筋肉も硬くなるわ。このヘルシンキの雪景色のように、じっくりと体の中に力を蓄える時期。じいちゃんのノートにもね、『冬の寒さに耐えた根こそぎが、春に一番良い大木になる』って書いてあったわ。材木屋の格言だけどね」
「そうだな」
マルクがコーヒーカップを掲げた。
「春が来れば、お前の体はもっと大きくなる。その時に、スカウトが驚くような、本当の『懸河』を完成させればいい」
「……うん。僕、負けないよ。冬の硬いピッチにも、じいちゃんのホラ話にも」
窓の外では、音もなく大きな雪の結晶が舞い降り、ヘルシンキの街をさらに白く染め上げていく。
13歳のクリスマス。白銀の世界で、パパとママの温もり、そしてじいちゃんのレガシーに包まれて歩いた記憶が、のちに世界の最前線で戦うダンの、折れない精神のバラスト(重石)となるのでした。




