白夜の食卓と、ホラ吹きじいさんの遺産
フィンランドの夏は、太陽が夜を忘れたように沈まない。
ヘルシンキ郊外にあるホルトーリ家のテラスは、夜の8時を過ぎてもなお、おだやかな夕暮れのような光に包まれていた。白樺の木々が風に揺れる音が、遠くから聞こえる。
「ダン、もう色が変わるまで肉を焼かなくていい。それはフィンランド流じゃなくて、ただの消し炭だ」
父親のマルクが、バーベキューコンロの前でトングを握る13歳の弾を見て、楽しそうに声をあげた。マルクはフィンランドの環境教育を専門とする大学教授で、大柄な体躯にいかにも北欧のインテリらしい優しい眼差しを湛えている。
「だって父さん、これくらい焦がした方が、じいちゃんのノートにある『炭化訓練』っぽいでしょ」
ダンが碧い目を悪戯っぽく細めて笑うと、キッチンから大きなサラダボウルを抱えた母親の真由美がステップを踏むように現れた。彼女の祖父こそが、大正から昭和の日本サッカー界に伝説を残した本竹井助その人である。
「やだ、ダン。あのじいちゃんのホラ話をまた真に受けてるの? 炭化訓練なんてただの火の不始末よ」
真由美が笑いながらサラダをテーブルに置くと、テラスは一気に温かい笑い声に包まれた。
本竹学園の資産自体は親族の騒動で失われていたが、この家族には悲壮感など微塵もなかった。
本物のレガシーは、このフィンランドの地でしっかりと息づいている。
「でもさ、母さん」
ダンは焼き上がったシナモンソーセージを口に運びながら、転がっていたサッカーボールを、吸い付くような足裏のタッチで引き寄せた。
「ノートにある『丹沢の山篭もりで、激流の滝を睨みつけ、水流に逆らう気功を足に込めて懸河のキックを編み出した』ってやつ。サッカークラブの監督に話したら、大真面目な顔で『さすが神秘の国・ジャパンの技術だ』ってノートのコピーを欲しがったんだよ」
「まぁ! 監督にまで嘘を教えちゃダメじゃない」
真由美は呆れたように首をすくめたが、マルクはビールグラスを傾けながら、嬉しそうに髭を揺らした。
「ハハハ! いいじゃないか真由美。イスケのホラ話は、フィンランドの子供たちには最高のファンタジーだよ。実際、ダンの蹴るインステップの無回転(ブレ球)は、チームの誰も捕まえられない。あれを100年前に紐付きの重い革ボールで蹴っていたというだけで、イスケが怪物だったことは事実さ」
「それはそうだけど……」
真由美は苦笑しつつ、リビングから一冊の古い、しかし丁寧に手入れされた革表紙のノートを持ってきた。ページをめくると、大正モダンな達筆な文字で、びっしりとサッカーの理論(と、半分以上の大げさな武勇伝)が記されている。
ダンはその碧い瞳で、じっとノートの文字を見つめた。
感覚だけで蹴れる「無回転キック」。それはすでに、地元のユースチームで弾の強力な武器になっていた。キーパーの手前で不規則にブレる弾道は、大人顔負けだ。
けれど、ダンの心には、いつも小さな引っかかりがあった。
「ねえ、父さん。じいちゃんのキックは、なんで『懸河(滝)』って呼ばれたんだろう。僕の無回転は、空気抵抗で左右にフラフラ泳ぐだけ。滝みたいに、激しく一直線に流れ落ちるイメージとは、ちょっと違うんだよね」
「さあな。イスケのことだ、ただ響きがカッコいい漢文の言葉をどこかから引っ張ってきただけかもしれないぞ」
マルクが笑いながら弾の金髪をなでた。
「明日はひさしぶりのオフだ。湖のコテージ(モッキ)へ行こう。サウナに入って、冷たい水に飛び込んで、頭を空っぽにするといい。ダンの『懸河』の答えも、案外そんなところにあるかもしれないよ」
「うん、そうだね」
ダンはボールを軽く上にポンと蹴り上げると、膝できれいにクッションを入れてトラップした。
沈まない白夜の光の中、少年の右足には、100年前の日本から引き継がれたフットボールの遺伝子が、静かに、しかし確かに脈打っていた。
10/3追記:無回転キックの元祖は、ブラジルのジジだと言われています。
1950年代の事で、当時は「枯れ葉」シュートと呼ばれていたとか。
懸河よりは軌道の実態を表せていると感じます。
当時は全天然革の重いボールで、かなりキック力を要したとされています。
それより更に四半世紀前の映像、画像技術では無回転と解析できない上に、
オカルト的衝撃プレーなので、「懸河」としか表せなかったかもしれません。ホラ吹かなくても。




