―閑話 ― ある執事の受難その5
このままでは、本当に自分は胃痛で死ぬのではないかと執事は思った。
「……お前は、小心者だから……もっと他の仕事を探した方がお前のためなのかもしれないな」
と、今は亡き父親がこぼしたことを思い出す。この屋敷での生活は、他での勤めと比較したらはるかに楽であると言うことは、ときおり会う他の屋敷の使用人達との会話でもわかっていた。
衣食住、全て、他の屋敷と比較すればはるかに好待遇だ。本来の執事の仕事ではない役割まで期待されている一面もあるが、その分はきちんと給料に繁栄されている。
執事の衣類は主からのお下がりが多いのだが、彼の主は女性ということもあり、年に三回、仕立屋を呼んで、使用人全員の衣服を仕立ててくれる。
メイドであるマギーには、彼女からのお下がりでもよいのだが、「マギーだけお下がりだなんてかわいそうじゃない」というのが彼女の言い分だ。
着なくなった衣類は、しかるべきところに送って役立ててもらっているし、もともと必要以上に着飾りたがるタイプでもないから、その数もさほど多いというわけではなかった。
夜中に客人を連れ帰って大騒ぎすることもなく、出されたメニューが気に入らないからと作り直しを求めることもない――他の屋敷で働く知人の話に寄れば、そんなの当たり前なのだそうだ。
パーティーに出かけて遅くなることもあるが、メイドを早く休ませる気遣いも持っているし、困っている人間をほうっておくこともしない。
基本的には、善良なる人間なのだろう――それは、パーカーも同意するところなのではあるが。
――あの方は、後先考えず動き回るところがあるから。
幼い頃は、もう少しおとなしやかだったような記憶もあるが、今の彼女にはそんなところは見受けられない。
早朝、一人で散歩に出るくらいならまだいいのだが、パーカーの目から見れば好ましからざる人間の間にも平気で入っていってしまう。
「……あちらにいた頃は、自分で牛の世話だってしてたんだから」
彼女の口から、あちらでの生活について語られることはほとんどない。何かの拍子に「人を殺す以外のことはやったと思う」と、ぼそりとつぶやいたことがあった。
あの時はまさか――と、それきりになってしまったけれど、今思えば、それ以上のこともあったのかもしれない。
――自分は、あの方を守ることができるのだろうか。
その疑問は、常に彼に付きまとっていた。
もう少し幼ければ、彼の権限で部屋に閉じ込めることも許されるだろう。いや、レディ・メアリがほうっておかないはずだ。
さすがに、結婚を考える年齢の女性を部屋に監禁するわけにもいかない。彼にできるのは、エリザベスをできるだけ守ることだけだ。
だが、自分は彼女を守れていると言えるのだろうか。アンドレアス商会に乗り込み、劇場から、さらにはテレンス・ヴェイリーのところにまで、彼女に引きずり回されているだけのような気がしてならない。
今日だって、今のところ、エリザベスが受け入れている唯一の婚約者候補、リチャードが一緒だというから、送り出したというのに。
――それなのに。
予定した時間を過ぎても、エリザベスは戻ってこない。単に盛り上がってしまって帰宅が遅れているのならいいのだが、不吉な予感は胸を離れようとしなかった。
いまだに服をきっちりと着込んだままのパーカーは時計を見上げた。深夜三時。
メイドやその他の使用人達は下がらせた。自分一人が起きて待っていればすむ話だからと、玄関のベルが鳴ったらすぐに出られる位置に控えているのだが、戻ってくる気配はない。
もともと、社交界では少しはずれたところのあるエリザベスだったから、社交の場に出かけても、遅くなることはめったになかった。
華やかな場を嫌いとまではいかないが、どちらかというと、それよりは商談を進めている方が楽しいと口にしていたこともある。
大陸で財を築き、生活に追われるのではなく生活を楽しむことも覚えたけれど、彼女は、いつもどこか居心地悪そうに彼の目には見えていた。
せめて、屋敷の中でだけは自由に呼吸ができるようにと、気を配ってきたつもりだし、時にはそれが、「淑女らしくない行動をとる」とレディ・メアリの眉をしかめさせる理由にもなっていた。
膝の上に本を置き、ページをめくってはいるのだが少しも頭に入ってこない。ちらりと時計を見上げるとそろそろ夜があけようとする時間帯だ。東の窓が白々と明るくなり始めている。
「……いくら何でも遅すぎる」
パーカーは立ち上がった。こんな時間になるまで連絡一つないとはエリザベスらしからぬ行動だ。
最悪の事態を想定し、すぐに出られるようにと用意を始めるパーカーは、自分の胃が痛みを訴えているのも忘れさっていた。
その不吉な予感は、最悪の形であたることになった。車は大破、一人が入院。エリザベスとロイは、軽傷だったけれど、運転していたダスティはしばらくの間、舞台に立つことはできないだろう。
――何をやっているのだ、自分は。
パーカーは唇を噛む。いやな予感はしていたのに、エリザベスの好きにさせていたのは自分の落ち度だ。今後は、こんなことがないようにもっと気を引き締めていかなければ。
エリザベスは仕事部屋に閉じこもったまま、出てこようとはしない。彼女は彼女なりに落ち込んでいるということなのだろう。
「軽食をお持ちした方がよさそうだな」
すぐに彼女は立ち直るだろう。そうでなければ、犯罪者がうろうろしている大陸で生き延びることなどできなかっただろうから。
料理人にサンドイッチを用意するよう命じる。
まだ、しばらくの間は胃薬を手放すことはできそうにない――けれど。
彼も自分の役目を投げ出すわけにはいかないのだった。




