5-3 三人の物語
アルベルトは強い調子で問い詰めたが、リゼリアーナはそれに答えず、一見すると無関係に思える話から始めた。
「二人の馴れ初め、とてもよい話ですよね。火事で逃げ場を失ったところに颯爽と現れ、自分を助けてくれた見目麗しい男性。しかもその正体は、家をこっそり抜け出して建国祭を楽しんでいた貴族令息です。危機を脱した後には、同じ菓子を食べて笑い合った。二人が互いに惹かれたとしても、何の不思議もありません」
「……見目麗しいかどうかは、見る者の主観によるだろう」
アルベルトが事件とは関係のなさそうな部分に反論すると、リゼリアーナは僅かに首をかしげたものの、そこに拘るつもりはなかったらしい。
「では、それをネリアさんの側から見たら、どうでしょう?」
「……何?」
「彼女にとっても、颯爽と現れて助けてくれたのは同じ貴族令息です。自分だけではなく、そこにいた別の女性まで救い、最後には自分の作った菓子を食べて笑い合った」
アルベルトは、そこで初めて話の方向が変わったことに気づいた。
これまで二人の恋の始まりとして聞かされていた話を、もう一人の少女も同じ場所から見ていたのである。
「その後、令息は何かと理由をつけてベルタ菓子店に通うようになりました。ネリアさんの作った菓子を買い、嬉しそうに持ち帰る。浮かれていた令息なら、彼女の菓子を褒め、喜ばせるようなことを何度も口にしたでしょう」
「それは……」
「もちろん、本当に言ったかは分かりません。ただ、ネリアさんから見れば、命を救ってくれた令息が何度も自分の店を訪れ、自分の作った菓子を喜び、買っていく。実際には、彼はその品を持って、せっせとリディアさんのもとへ通っていました。彼女は以前、令息が見舞いに持ってきた高価な宝飾品を断っています。彼にとっても、菓子は恋人に会いに行くためのよい手土産だったのでしょう」
リゼリアーナの語る内容に、卓を囲む者たちは誰も口を挟まなかった。
三人の間には友情があった。少なくともリディアはそう信じ、令息もまた、恋人の親友である菓子職人を親しい相手として扱っていたのだろう。
だが、その親しさをネリアが別の意味に受け取っていたのなら、同じ時間はまったく異なるものになる。
「もっとも、令息にも言い分はあるでしょう。二人を助けたあと、ネリアさんは一度店に戻っています。リディアさんの話では、その間、二人きりで他愛もない会話をしたそうです。彼女はその内容までは覚えていませんでしたが、もしかしたらその短い時間が、ネリアさんとの決定的な差になったのかもしれません」
それが本当に三人の関係を分けた瞬間だったのかは、今となっては誰にも分からない。
だが、もしそうだとしたら、ネリアにとってはどうしようもないところで、二人の行く先はすでに分かれていたことになる。
「そうして三人は、それぞれ友情や愛情を育みながら十か月を過ごしました。ここから先は、捕らえた後にネリアさん本人から聞いた話です」
リゼリアーナはそう断ると、グラネが注文された日のことを語り始めた。
「婚約破棄の数日前、いつものように令息が店を訪れ、ネリアさんに頼みました。グラネを作ってほしい、と」
建国祭はまだ先であり、王冠菓子を作る時期ではない。不思議に思うネリアに、令息は照れたように理由を告げたという。
「『大事な話があるんだ。あれを食べながら話すのが、ふさわしいと思って』。そう言われて、ネリアさんは依頼を引き受けました」
リゼリアーナは、何も言わず聞いているアルベルトを静かに見た。
彼女には珍しく、その表情はわずかに曇っていた。
「さぞ、嬉しかったでしょうね」
その一言が何を意味するのか、もはや問い返す必要はなかった。
「令息は、八日にオルディナ宝石店の者が受け取りに来ると伝えて帰りました。ネリアさんは少し不思議には思ったようですが、そこに何か別の意味があるとは考えなかった。何より、そんな違和感など忘れてしまうほど幸福だったのです」
だが、その幸福は数日も続かなかった。
「今度は、リディアさんが店を訪ねてきました。彼女は親友にだけ、別れを告げに来たのです」
リゼリアーナは、その時リディアが何を話したのかを本人から聞いていた。アルベルトも、その報告は覚えている。リディアは王都を離れるかもしれないと考えており、家族と親しい友人にはそのことを伝えていたという。
彼女はその言葉を、できる限りそのまま再現するように語った。
「『彼が婚約を破棄して、身分を捨ててでも一緒になってくれると言ってくれた。そうなれば、私もこの街には住んでいられないかもしれない。でも、彼と遠くでひっそり暮らせるなら、それでいい。簡単なことではないだろうけど、私はそうする。これが最後になるかもしれないから、家族と、親友のあなたにだけは別れを告げておきたかった』」
それはリディアにとって、最も信頼する友人に向けた告白だった。
喜びだけではない。不安も恐れも抱えながら、それでも愛する相手と生きる覚悟を決め、その決意を親友に分かってほしいと願って語ったのだろう。
「そこで初めて、ネリアさんは知りました。令息が選んだ相手は自分ではないことを。そして頼まれていた思い出の菓子も、自分のために用意されたものではないことを」
アルベルトは眉を寄せたまま、しばらく言葉を探した。
「しかし……だとしても、リディアを殺したところで……」
「そうですね」
リゼリアーナは簡単に同意した。理屈だけで考えれば、リディアがいなくなったところで、令息がネリアを選ぶ理由にはならない。
「でも、そう考えられるのは、私たちがあの物語の登場人物ではないからかもしれません。ネリアさんにとって、あの火事から始まった物語には、令息とリディアさんと自分の三人しかいなかった。その三人が二人になれば、結末は変わる。そんなふうに考えたのではないでしょうか」
「本当に、それだけで……?」
「本当のところは、本人にしか分かりません。恋人を失った令息を慰めるうちに、自分を選んでくれると思ったのかもしれない。あるいは、単にリディアさんだけが幸福になることを許せなかっただけかもしれません。そこにどれほど筋の通った考えがあったのか、私には判断できません」
リゼリアーナは動機を無理に一つの形に整えることなく、その部分については推測に留めた。
「ともかく、今さら令息から頼まれた注文をなかったことにはできません。彼女はこの時、何を思って準備していたのでしょう。分かりません。ですが、周囲の聞き取りから、この期間に近所の薬屋でローデンを購入した事が分かっています」
菓子を扱う店に鼠が出ることは珍しくない。そこで働く者が殺鼠剤を買っても、疑問に思う者などいないだろう。
ローデンは殺鼠剤として広く使われている一方、人が口にすればすぐ吐き出すほど強烈な味や匂いがあるわけではない。そのため誤って口にする危険もあり、裕福な家ではあまり使われない薬でもあった。
「注文されたグラネは季節外れで、ネリアさんは普段とは違う材料を使い、香りも強く仕上げました。その中に混ぜれば、ローデンの苦味や匂いも気づかれにくい。普段の売り物でもありませんでしたし、令息から直接頼まれた特別な品です。ネリアさんが一人で作ると言っても、誰も不思議には思わなかった。家族も、材料や作業のすべてを見張っていたわけではありません」
長く菓子職人として働いてきたネリアなら、材料や香りを調整し、ローデンが混じっているとは気づかれないグラネに仕上げることもできたのだろう。
「彼女が一人で作ったグラネは、予定どおりオルディナ宝石店に渡され、特別な贈り物として丁寧に包まれました。菓子は一つずつ包まれ、もともとは保存食で、日持ちすることから祭りの土産としても好まれる品です。リディアさんがその菓子に大切な思い出を持ち、すぐに食べ切らず、大事に少しずつ食べるだろうということも、ネリアさんは知っていました」
先ほどアルベルトが引っかかった言葉の意味が、ここで明らかになった。
「毎日一つ、あるいは二つずつ食べれば、やがて病死に見える形で息を引き取る。彼女が考えていたのは、おそらくそういう殺し方です」
ローデンは一度に大量に摂取すると数時間で命を落とす。しかし少量ならすぐに害が出るものではなく、継続して摂取すれば少しずつ心臓が弱り死に至る。
本来ならリディアに渡され、何日もかけて少しずつ口にされるはずの毒だった。それを空腹の令息が一晩で平らげたため、死は予想より早く、そして狙いとは異なる相手に訪れることになった。
「……動機については、納得した。到底理解はできないが」
アルベルトは長く息を吐いてから、ようやくそう答えた。
「しかし、それでも……」
「はい。これだけでは証拠とは言えません」
リゼリアーナは、何を言おうとしているのか分かっていたように頷いた。
「もちろん、これだけ揃えば彼女を拘束する理由としては十分でしょう。ですが、ローデンを買ったのは本当に鼠を駆除するためだった、菓子に混ざったのは事故だったと主張されれば、決定的な証拠はありません。彼女が誰にも見られず一人で作った以上、殺意をもってグラネにローデンを入れたと証明できるものは、もう我々の手の届くところにはありません」
「ならば、どうやって……」
「ですから、本人に聞いてみました」
あまりにも素朴な答えに、アルベルトは問いの続きさえ忘れてリゼリアーナを見つめた。
「『あなたが用意したお菓子、ユリディス令息が全部食べてしまいましたけれど、ご存じですか?』と」
アルベルトは息を呑んだ。
その問いの意味を理解するのに、時間はかからなかった。
「令息の死と死因は最初から伏せていました。事件から二週間近く経っていますから、貴族街では何かあったらしいという噂が流れていたでしょう。けれど、詳しい事情が下町まで広まるにはまだ早い。念のためネリアさんの周囲にもそれとなく確認しましたが、令息の死を知っている者はいませんでした。彼女自身も、令息があの菓子を食べたことも、どれだけ食べたのかも、その後どうなったのかも知らなかったようです」
リゼリアーナは、その時の反応を思い出すように僅かに目を伏せた。
「彼女は半狂乱になりました。令息は無事なのか、医師には見せたのかと、こちらが尋ねてもいないことまで口にして、必死に令息の身を案じた」
令息が恋人への贈り物を自分で食べたと聞き、ただ驚いただけなら、そこまで慌てる理由はない。
菓子が腐っていたわけでもなく、危険なものが入っていたとも伝えていない。食べ過ぎで腹を壊すことは心配しても、命に関わると即座に考えるはずはなかった。
「あのグラネを一度に食べると命の危険がある。それを知っているのは、我々と、毒を入れた本人だけです」
リゼリアーナの声に勝ち誇った響きはなかった。ただ、描き上げてきた絵に最後の一筆を加えるように、静かに結論を告げた。
アルベルトの頭には反論がいくつも浮かんだ。だが、どれも口にする前に自分の中で消えていった。
結局、アルベルトは黙ったまま、長卓の向こうに座るリゼリアーナを見返すことしかできなかった。
次回が最終話になります。




