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婚約破棄の翌朝、令息は死んだ――婚約破棄殺人事件  作者: 佐山香奈
5章 ある令息の贈り物

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5-2 婚約破棄の夜

「でも、そうでしょう? 朝から深夜まで、ろくに何も食べていなかったのですから」


声を荒らげたアルベルトにも動じず、リゼリアーナは淡々と続けた。


「緊張の連続だった一日が終わりに近づき、なんとか約束の別邸にたどり着いた令息は、一息つくとそこでようやく空腹を自覚します。しかし別邸は無人で、中にあるのは日持ちする野菜と酒くらい。調理する者もいなければ、すぐに食べられるものもない。あなたならどうします?」

「帰る」


アルベルトが即答すると、リゼリアーナはその答えを予想していたのか、苦笑しながら首を振った。


「彼はリディアさんと約束していたんです。自分の思いを受け入れてくれるなら、二十三時に会おうと。少なくともその時間までは、別邸を離れる事などできなかった」


そこで一度言葉を切り、リゼリアーナは答えを促すようにアルベルトを見た。


「ですがそこで令息は気づきました。その別邸には一つだけ、すぐに口に入れられ、空腹を満たせるものがあったのです」


延々と話を聞かされながら、着地点を掴めずにいたアルベルトは、それだけ言われてもなお答えに辿り着けなかった。リゼリアーナはしばらく待ったものの、やがて呆れを含んだ息を吐いた。


「分かりませんか? それは、もともと別邸にあったものではありません」

「……贈り物か!」


ようやく声を上げたアルベルトに、リゼリアーナは満足そうに頷いた。


「はい。最初は、リディアさんが来たら一緒に食べるつもりだったのかもしれません。けれど、朝から何も食べていない状態で、目の前には菓子の包みがある。想像でしかありませんが、一つくらいなら構わないと、それを開けたんじゃないでしょうか」


箱の中から一つだけ菓子を取り出す令息の姿が、アルベルトの頭に浮かんだ。


「一つ食べれば、空腹はかえって強く意識されます。もう一つくらいなら構わない。まだ十分に残っている。そう考えて、二つ目にも手を伸ばしたのでしょう。人を待つ時間というのは長く感じるものです。まして、彼は自分の人生を懸けた返事を待っています。気持ちは逸るのに、することは何もない。誰もいない別邸で、時間の感覚は曖昧になります。ただ恋人が現れるのを待つ間、ずっと目の前には菓子がある」


リゼリアーナは、実際にその場を見ていたかのように、令息の行動を一つずつ辿っていく。


「手持ち無沙汰に一つ、まだ来ないのかと二つ。時間が経つほど菓子に手を伸ばす間隔は短くなり、気づけばかなりの量を食べていた。令息もそこで愕然としたでしょうね。けれど、よく考えてみれば、誰に咎められることもありません。それは令息が自分で用意した、リディアさんも存在を知らない贈り物なのですから。半端な残りを渡すぐらいならと、残りも食べてしまったのでしょう」

「だが、包みを燃やしたのは?」

「恋人に贈るつもりだった菓子を、空腹に耐えきれず自分一人で平らげたのですよ? リディアさんに知られれば、随分と格好が悪いじゃないですか」


その説明によって、暖炉から見つかった燃え残りの意味が、ようやく見えてきた。


特務調査局が別邸を確かめ直し、灰の中から贈り物の箱や布を見つけたと聞いたとき。セリアは、中身を屋敷に持ち帰るために目立つ包みだけを処分したのだと考えた。その推測には筋が通っていたし、アルベルトもひとまず頷いた。


だが、疑問は残っていた。


なぜ、恋人に渡すための贈り物を、別邸に置いて帰らなかったのか。家族に見つからないよう包みを捨てたという説明は、持ち帰る方法にはなっても、持ち帰る理由にはなっていない。


中身そのものが消えていたのなら、答えはもっと単純だった。


「そういうことか……」


アルベルトの呟きを受け、リゼリアーナは話を先に進めた。


「包みを暖炉で焼き捨てることにして、燃え残ったものまでどうにか始末しようとしているうちに、約束の時刻はすぐに来たでしょう。しかし、リディアさんは現れません。それでも令息は、すぐに諦めることができなかった。出発が遅れているのかもしれない。何か事情があって、こちらへ向かうのに時間がかかっているだけかもしれない。今にも扉が開くのではないかと考えながら、さらにしばらく待ったはずです」


恋人が来ない理由を知らない令息にとって、それは自分の求婚への答えを待つ時間でもあった。


帰れば、拒絶されたことを認めるようなものに思えたのかもしれない。あるいは単に、あと少し待てば来るはずだと信じ続けたのだろう。


「そうして待っているうちに、令息は具合が悪くなり始めました。当然です。時間をかけて少しずつ摂取させるつもりで仕込まれた毒を、一度にすべて口に入れてしまったのですから」

「……時間をかけて摂取させるつもりだった?」


それまで語られていたのは、すでに自分たちが集めた事実を繋ぎ直したものだった。しかしその言葉だけは初めて聞く内容で、アルベルトの注意を強く引いた。


だがリゼリアーナはその当然の疑問には答えず、何事もなかったように話を続けた。


「リディアさんが現れないことを、令息がどう受け止めたのかは分かりません。求婚を拒まれたと思ったのか、それとも何かあったのではないかと心配したのか。そこは想像するほかありませんが、さすがに体調の悪化を無視できなくなり、別邸を出て屋敷に戻ることにした」


どこまで恋人を待ち続けたのかは分からないが、約束の時刻から屋敷に戻るまでには二時間近くが経っている。帰路の途中でさらに体調が悪化し、戻るまでに相当の時間を費やした可能性もあった。


「屋敷の近くまで戻ったところで、伝令に出ていた伯爵家の者と出会い、そのまま当主のもとへ連れていかれます。謹慎を破り、また家の恥を重ねたことを激しく叱責されましたが、令息は言い返さず、青い顔で(・・・・)、大人しく(・・・・)奥の部屋に入りました」


それは、ヴァルディオ伯爵から聞いた言葉そのものだった。


当時は、外出が見つかった動揺や、恋人が約束の場所に来なかった失意によるものだと受け取っていた。だが、すでにローデンの毒が回り始めていたのなら、青ざめ、大人しくなっていた理由はまったく別のものになる。


「家族の話によれば、それが深夜一時頃です。菓子を食べていたのが二十二時半から二十三時頃だとすれば、摂取から二時間ないし二時間半ほど。かなり気分は悪かったでしょうが、激しい嘔吐や痙攣のような、誰の目にも異常だと分かる症状はまだ出ていなかった」


話はすでに令息の凄惨な最期に及んでいたが、リゼリアーナの声音は、それまでと少しも変わらなかった。


「家族は令息の行いに呆れ果て、厳重な部屋に入れた後は、様子を見に行こうともしませんでした。令息自身も、謹慎を破った身で具合が悪いと訴えたところで、まともに取り合ってもらえるとは思わなかったのでしょう」


監禁に使われた部屋は廊下の奥にあり、窓もなく、分厚い扉の前には見張りが立っていた。


「横になれば治ると思ったのかもしれません。ですが、やがて症状は急激に悪化し、自分で扉まで辿り着いて助けを呼ぶこともできなくなった。嘔吐や痙攣が起きたとしても、寝台の上で立てる程度の物音では、あの扉の外までは届きません」


リゼリアーナは、そこで僅かに間を置いた。


「そうしてユリディス令息は、誰にも気づかれないまま亡くなりました」


語られたことの大半は、近衛騎士団が集めたものか、すでに知っていた事実だった。それなのに、まるで見え方が違う。別々の場所に散らばっていた出来事が、一人の人間の行動として、整然と一本の道に並べ直されていた。


そして、リゼリアーナが何を言おうとしているのかも、もはや明白だった。


「毒は、その菓子に入っていた」


アルベルトは確認するように口にした。


「そうであれば、作った者を見つけるのは難しくない。オルディナ宝石店に尋ねれば、どの店から受け取ったか分かるだろう」

「ええ。それに、例の出会いの話は下町ではそれなりに知られていました。話に出てくる菓子店がどの店かも、火事のあった辺りで聞けばそう時間はかからず分かります。令息が二人の思い出に関わるグラネを注文するなら、ベルタ菓子店以外には考えにくい。そして実際に、オルディナ宝石店にグラネを渡したのも、その店でした」


リゼリアーナは、犯人に辿り着いた後の確認についても、同じ調子で説明を続けた。


「そこでネリアさんについて調べると、近所のお店からローデンを購入していたことも分かりました。名目は殺鼠剤でしたが、店や住居で使った形跡はなく、残りのローデンも見つからない。購入した量も、菓子に混ぜるには十分なものでした」


ここまで対象が絞れていれば、広範囲の捜査には向かない特務調査局でも、必要な事実を集めるのは難しくない。王都全域から一人の犯人を探すのではなく、ベルタ菓子店とネリアだけを調べればよかったのだから。


しかし、犯行の手段が分かっても、アルベルトにはまだ重要な疑問が残っていた。


「だが……動機は何だ?」


自分の中で考えを整理するほど、その不可解さは増していった。


「その話では、ネリアという娘はユリディス殿を殺そうとしたわけではない。狙っていたのはリディアだろう? だが、彼女たちは親しい友人だったはずだ。なぜリディアを殺そうとした? それに、殺すにしても何故そのグラネに毒をいれた?」


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