4-2 ディートリヒ・エルヴェイン
翌日、アルベルトは王宮内の小さな応接室で、ディートリヒ・エルヴェインと向かい合っていた。室内にいるのは二人だけで、近衛の騎士もディートリヒの護衛も扉の外で待たせている。
相手が第二王子の側近であり、エルヴェイン伯爵家の嫡男であることを考えれば異例の扱いといえる。だが人前では話しにくい内容になる可能性もあり、本人と一対一で話せる場を用意するのは当然だった。
アルベルトは挨拶もそこそこに、卓上に置いていた布を開き、中から銀の薬入れを取り出した。
「こちらに見覚えはありますか?」
ディートリヒはすぐには答えず、精緻な模様が刻まれた銀細工に視線を落とした。
突然呼び出されたうえ、いきなり何を問われているのか測りかねている様子だったが、やがて顔を上げるとためらうことなく答えた。
「私が使っているものと同じ品だ」
「結構です」
自分の物だと認めたわけではない。だがアルベルトはそこを問い直さず、薬入れを布の上に戻した。
「これは、あの夜会の後に王宮の清掃係が見つけたものです。内側に僅かに残っていた中身についても、王宮医務局で確かめました。必要な確認を終えた後、持ち主が判明すればお返しします」
何かしら疑問を抱いたようではあったが、ディートリヒは問い返すことはなく、僅かに目を細めただけで平静を崩さなかった。
その隙のない振る舞いは、第二王子の側近を務める貴公子として、多くの者が知る姿そのものだった。
「では、改めて伺います。夜会当日、婚約破棄が宣言された後は何をしていましたか?」
「以前にも話したとおりだが」
「もう一度お願いします」
それが単なる確認ではないことには、すでに気づいているのだろう。小さく息を吐いて、以前と同じ説明を繰り返した。
「母が体調を崩したため、私が付き添って広間を出た。近くの休憩室に連れていき、落ち着くまで傍にいた。その後は家族と控室で合流し、夜会を辞して帰宅した。それだけだ」
「しかし、休憩室から控室へ一人で戻るマルセリア夫人の姿が目撃されています」
「見間違いではないのか?」
「夫人をよく知る友人です。その後、令息への不満を話す姿も見ています」
ディートリヒは母の振る舞いが目に浮かんだのか、少し顔をしかめたが、動揺は見せなかった。
「体調を崩した夫人に付き添ったはずなのに、あなたは休憩室に一人で残った」
「それについても、すでに説明したと思うが」
ディートリヒの返答は、先ほどよりもわずかに硬かった。
「母は休憩室に入ると、ほどなく持ち直した。わが母ながら立ち直りの早さには呆れたが、案外ああいう場では、男より女の方がたくましいものらしい」
「そうかもしれません。しかし、夫人が休憩室を出た後も、あなたはしばらくそこに残った。その間、何をしていたのですか?」
「一人で気持ちを落ち着かせていた。あのような場にいたのだ。妹や父と顔を合わせる前に、怒りを鎮める必要があった」
「そう。あなたはクラリッサ嬢の兄です。当然、あの婚約破棄には立腹していたはずだ」
アルベルトは声を僅かに落とし、相手の反応を窺った。
ディートリヒもその意図に気づいたらしく、正面からアルベルトを見返した。互いに視線を逸らさないまま、室内に重い沈黙が流れた。
やがて、ディートリヒが絞り出すように口を開いた。
「……あいつは」
「何です?」
「ユリディスは、毒殺されたのか」
その言葉は、この場で初めて毒殺の可能性に思い至ったように聞こえた。
理想を言えば、もっと分かりやすい反応を見せてくれればよかった。
自分が毒を盛ったと疑われているのかと激高する。あるいは、薬入れを見た瞬間に慌てて否定する。そうした反応があれば、そこからさらに踏み込むこともできただろう。そのために、ユリディスの死因が毒であることは伏せてきた。
だが、ディートリヒが犯人であったとしても、今のような反応をする可能性はある。
反対に、事件と無関係であっても、夜会の後に拾われた薬入れを示され、誰にも目撃されていない時間について問い詰められれば、毒殺を疑われていると察して不思議ではなかった。
この反応だけからは、何も判断できない。
アルベルトは肯定も否定もせず、次の問いに移った。
「この薬入れは、拾われた時には空でした。中には何を入れていたのですか?」
「仮に私のものなら、中身は母の気付け薬だ」
「その薬は、誰が用意したものです?」
「そこまでは知らない」
「普段から同じものを入れていた?」
「そうだ」
「ほかのものを入れたことは?」
「ない」
「では、その薬に何が使われているかは?」
「私は医者ではない」
「ローデンという植物をご存じですか?」
ディートリヒの目が鋭くなる。
空になった容器から、本当に中身まで突き止められるとは考えていなかったのかもしれない。それでもすぐには言葉を返さず、アルベルトの真意を測るように黙り込んだ。
「エルヴェイン家は、ローデンを殺鼠剤として購入しています。しかし、その購入量と使用量、現在の在庫は一致していない。そして、この薬入れの内側からはローデンを含む試料と同じ反応と、乾燥した球根の繊維が確認されました」
それ以上ディートリヒの表情は変わらなかったが、アルベルトは卓上の薬入れに指を添え、その顔を見据えたまま、これまでの事実から組み上げた見立てを順に口にした。
「あなたは夫人が休憩室を出た後、しばらく一人で残った。その間にユリディス殿が口にしそうな何かへ、薬入れの中身を加えたのではありませんか? あるいは、ユリディス殿を呼び出したのかもしれない。婚約破棄について問い詰め、言い争いになった。場合によっては揉み合いにまでなり、その際に薬入れを落とした」
ディートリヒは視線を逸らさず、否定も反論もしなかった。アルベルトはその表情を見据えたまま、さらに続けた。
「この品が見つかったのは、あなたと夫人が使った休憩室です。落としたことに後から気づいても、あの部屋を探し回ればかえって人目を引く。中身はすでに空だったため、見つけられても用途までは分からないと考え、そのままにしたのではありませんか?」
アルベルトが話し終えても、ディートリヒは何も答えなかった。
取り乱しもしなければ、怒りを露わにすることもない。ただ唇を引き結び、何かに耐えるように沈黙していた。
「何か反論はありますか?」
アルベルトは答えを待った。
「なければ、私はここまで確認した事実を上に報告しなければなりません。近衛の判断だけであなたを拘束することはありませんが、王家と司法院に正式に話を持っていくことになります」
その言葉に、ようやくディートリヒの表情が動いた。
「……あの部屋で、私は一人ではなかった」
「それを証明できる方がいるのですか?」
「ああ」
「それは、誰です?」
ディートリヒは一度口を開きかけたものの、結局は首を横に振った。
「私の口からは言えない」
「それでは、こちらとしては……」
「それに!」
証明にならない、と続けようとしたアルベルトの言葉を、ディートリヒが強い声で遮った。
「あなたの想像では、私はあの夜、初めから毒を持って王宮へ来たことになる」
「そうなりますね」
アルベルトは、目の前の人物が何を主張しようとしているのか、すぐには掴めず眉を寄せた。
婚約破棄が宣言される前から毒を準備していたのだから、衝動的な報復ではない。そう言いたいのだろうか。
しかし、婚約破棄そのものとは別の理由で、以前からユリディスを害そうとしていた可能性もある。
「あなたが以前からユリディス殿に不満を持っていた可能性もあります。妹君を裏切り、別の女性と関係を持っていたことをすでに知っていたのかもしれない」
「同じことだ」
ディートリヒは低く言い切った。
「知っていたなら、私は毒など使わない」
「では、どうするのです?」
「まずは一発殴る」
アルベルトは思わず目を見開いた。
それは、先ほどまで崩れることのなかった隙のない貴公子の姿からは、あまりにもかけ離れた答えだった。
しかしディートリヒは冗談を言った様子もなく、膝の上で拳を握ったまま続けた。
「そして、なぜ妹を裏切ったのか、本人の口から聞く。何を考え、なぜあんな真似をしたのか、納得できるまで問いただす」
吐き出す言葉には、抑えきれない怒りがあった。
「できることなら、今からでもそうしたいくらいだ」
その瞬間、アルベルトの背に言葉にできない予感が走った。
ディートリヒの言葉と、なによりその目に浮かんでいたのは、妹を傷つけた男への怒りだけではない。
もっと深いところに、失われたものへの悲しみがあった。
それは、婚約破棄によって傷つけられた妹に向けたものだけではない。やがて弟と呼ぶはずだった男を失い、何を考えてあんな真似をしたのか問いただす機会まで永遠に奪われたことを、本気で悔やんでいる者の目だった。
それを理解した時、先ほど感じた予感がアルベルトの中で明確な形を取った。
違うのか?
冷静に考えれば、ディートリヒの言葉は何の証明にもならない。
事前に婚約破棄や恋人の存在を知っていたのなら、毒殺以外にも取れる手段があった。確かにそうかもしれないが、それは誰にも目撃されていない時間について、ローデンが入った薬入れについて、何も説明していない。
自分なら直接殴るから毒は使わないという主張も、本人の言葉でしかない。
しかし、その目にある怒りと悲しみまで偽りだとは、どうしても思えなかった。証拠も理屈も、何一つその判断を支えてはいない。それでも、胸の奥にある何かが、この男は違うと訴えていた。
アルベルトは次に何を問うべきか考えたものの、言葉は形にならなかった。ディートリヒもそれ以上言葉を重ねず、室内には長い沈黙が訪れた。
その時、扉の外で護衛たちの戸惑う声が重なり、室内から応じる間もなく扉が開いた。
「失礼するよ」
柔らかな声とともに、一人の青年が室内へ足を踏み入れた。
張り詰めた室内を見渡した彼は、その空気とは不釣り合いなほど穏やかに微笑んだ。
「ああ、ちょうどよかったかな?」
アルベルトは思わず立ち上がった。
「え……ラウレンス殿下!?」
護衛も伴わず、当然のように姿を現したのは、第二王子ラウレンスその人だった。




