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婚約破棄の翌朝、令息は死んだ――婚約破棄殺人事件  作者: 佐山香奈
3章 二つの捜査

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3-3 二つの手掛かり

数日かけて進めていた確認がようやく一段落し、アルベルトと三人の部下は、再び近衛騎士団の会議室に顔を揃えていた。


その間、特務調査局を交えた報告の場は設けていなかった。近衛側はそれぞれの調査に追われ、向こうも独自に動き回っているらしかった。


ビオンを通じて伝わってきた情報によると、リディアからも改めて話を聞いたらしい。だが、ユリディスが誰かと揉めていたという話も、最近の様子に異変があったという話も出てこなかった。


リディア自身についても、身の回りで特に気になることはなかったという。

もっとも、これはあくまで捜査する側から見た話だ。彼女自身の生活は大きく変わろうとしていた。

彼女は、ユリディスと一緒になれば王都を離れることになるかもしれないとすら考えており、そのことは家族と親しい友人にだけ伝えていたそうだ。


他にもいくつかの確認は続けているようだった。少なくとも、馴れ初め話ばかり聞いていたわけではないらしい。とはいえ、アルベルトには双方の手を止めてまで話し合うべき進展とは思えなかった。こちらの捜査状況は把握しているはずのリゼリアーナからも、詳しい報告を求められることはなかった。


長卓の上には、貴族家や商会から取り寄せた帳簿の写し、王宮で働く者たちへの聞き取りをまとめた記録、それらを整理した覚え書きが幾つもの束になって並んでいる。

その大半は事件との関わりすら定かでない細事だったが、それらを一つずつ確かめていくだけでも、相応の手間が必要だった。


「夜会に出席していた貴族を中心に話を聞き直したが、両家の者たちの動きを新たに特定できる証言はなかった」


まず口を開いたのはアルベルトだった。


ディートリヒについても、広間を離れてから再び姿を見せるまで、その姿を見た者はいなかった。ユリディスを含め、ほかの両家の者についても新たな目撃証言は得られていない。

もっとも、いずれも夜会の広間を離れた後のことであり、それだけで不自然とは言えなかった。


「ただし、マルセリア夫人については一つ気になる話がある。夫人と親しい貴族婦人が、控室に戻る途中の彼女と会っていた。ユリディス令息への不満を、かなりの勢いでまくし立てられたらしい」

「随分とお元気だったようですね」


ビオンが呆れ半分に言うと、アルベルトはその軽口に応じることなく、腕を組んで頷いた。


「見かけただけならともかく、実際に言葉を交わしている。相手も夫人と親しい人物だ。これまでの証言を覆すものではないが、目撃そのものは確かと見ていいだろう」


倒れたあと、ほどなく一人で歩き、令息への怒りを口にしていた。思った以上に元気だったとはいえ、それ自体は不自然とまでは言えない。

だが、夫人がディートリヒを伴わず控室へ向かっていたことが確認できたわけで、その後の彼の行動にはやはり空白が生じる。


アルベルトの報告に、三人から特に異論は出なかった。短い沈黙ののち、話が一区切りついたのを見計らって、セリアが手元の資料に目を落とした。


「では、エルヴェイン家が購入していたローデンについてです」


そう切り出すと、セリアは自分の前に置いていた資料から数枚を抜き出し、アルベルトの方に差し出した。疲れは見えるが、それ以上に、ようやく手掛かりを掴んだ手応えが表情に出ていた。


「購入時の記録と、殺鼠剤として加工された量、実際に使われた毒餌、それから現在残っている分を、可能な限り照らし合わせました。購入した球根をすべて無駄なく毒餌に加工できるわけではないでしょうし、計量の誤差や記録漏れも考えられます。それらを考慮しても、購入した量と、使用済みの分や現在の在庫との間には、明らかに説明のつかない差があります」


アルベルトは受け取った紙を一枚ずつめくり、書き込まれた数字に目を走らせた。加工時の損失や現在の在庫を多めに見積もっても、なお帳簿の上では行方の分からないローデンが残る。


「もちろん、家の者が誤って処分した、別の帳簿に記していたなど、何らかの手違いである可能性はまだ残ります」

「ああ、持ち出されたと断定はできない。だがこれだけの量の行方が分からないとなれば、かなり大きな手掛かりだ」


アルベルトは資料を卓に置き、セリアに目を向けた。


「よく調べた」

「はい!」


声を弾ませたセリアは、すぐに平静を装って背筋を伸ばしたものの、褒められた喜びまでは隠しきれていなかった。


その様子を横目で見ていたヴァルシークは、口元にわずかな笑みを浮かべただけで、自分の前に置かれた布包みに手を伸ばした。


「こちらでも興味深いものが見つかりました」


ヴァルシークが布を解くと、中から掌に収まるほどの小さな銀製の容器が現れた。


表面には細い蔓草を思わせる精緻な彫りが施されている。宝石や色硝子のような飾りはなく、意匠そのものは控えめだったが、量産される日用品とは明らかに造りが違っていた。


「これは……薬入れか?」

「そのようです。中には粉末がわずかに残っていました」


ヴァルシークは蓋を外し、内側が見えるように少し傾けた。言葉どおり、底や隅には白い粉が薄くこびりついている。


「高級品ではあるでしょうが、王宮に出入りする貴族にとって、失えば大騒ぎになるほどの品でもないでしょう。拾得物を預かる部署に届けられていましたが、持ち主からの申し出もなく、ほかの品とともに保管されたままになっていました」


ヴァルシークは蓋を閉じると、薬入れを布の上に戻した。

アルベルトは、控えめながら丁寧な細工の施された小さな容器を改めて眺める。


「なるほど。これだけなら、ただの落とし物として処理されたのも無理はない」

「問題は、これが見つかった場所です」


ヴァルシークは薬入れに指を添え、集まった視線を確かめてから続ける。


「あの夜、マルセリア夫人とディートリヒ殿が入った休憩室。そのソファの下から、清掃を担当した者が見つけています」

「何だと?」


アルベルトは思わず卓に身を乗り出し、セリアとビオンも揃って薬入れに視線を戻した。


エルヴェイン家はローデンを購入しており、帳簿と在庫には説明のつかない不足がある。その家の者が使った部屋から、薬を携帯するための品が見つかり、しかも中身は空だった。まだ中身も持ち主も分からないとはいえ、これだけ重なれば無視はできない。


「それは、重大な手掛かりになるかもしれんぞ」

「私もそう思います。洗われた様子はなく、見つけた者も中には触れていないそうです。ただ、中身はほとんど残っていない。何が入っていたか確かめることはできますかね? 特務調査局なら、あるいは可能かとも思いますが……」


ヴァルシークがそこで言葉を止めた。三人とも、遺体を前に嬉々としていた毒物の専門家を思い出したらしい。ビオンはあからさまに嫌そうな顔をし、セリアも視線を逸らした。


「いや。これは王宮で確かめさせる」


アルベルトは間を置いたものの、結局はそう言い切った。


王宮医務局であれば、毒物や薬草を扱う者もいる。たとえ特務調査局の専門家の方が詳しいとしても、重要な物を最初からあちらに渡す必要はない。何より、通常の手続きを踏んだ方が、後に証拠として扱う際にも都合がよかった。


「分かりました」


ヴァルシークは素直に頷き、薬入れをアルベルトに手渡した。


「以上か?」


受け取った品を布の上に慎重に置くと、アルベルトは薬入れから視線を外し、ビオンに顔を向けた。


「特務調査局の方は?」

「リディアさんの別邸を、もう一度確かめていました」

「別邸を?」

「はい。前に見た時は、食べ物や飲み物を中心に調べていましたからね。今度は、捨てられたものがないか改めて調べて、暖炉の灰の中から、箱や布の燃え残りを見つけました」


ビオンは持参した書き付けを開き、そこに描かれた簡単な図を指で示した。箱の角と思しき焼け焦げた木片や、小さな留め金、布、飾り紐の一部など、形を残したものだけを灰の中から拾い上げたらしい。


「中身は?」

「見つかっていません。少なくとも、灰の中にはそれらしいものはありませんでした。ただ、燃え残りをオルディナ宝石店に持ち込んだところ、断言はできないが、おそらく自分たちが仕立てた贈り物の包みだろう、とのことでした」

「なるほど」


贈り物の行方が分からないことは確かに引っかかっていたし、リゼリアーナも気にしているようだった。事件に無関係とは言えないだろう。ただ、それを見つけたところで、意味があるとは思えなかった。


「ああ、店に預け直したわけでもなかったようですし、中身を取り出して包みだけ処分していたんですね」


しかしセリアが納得したように頷いたため、アルベルトはそちらに怪訝な視線を向けた。


「……待て。預け直していないことまで、わざわざ店に確かめたのか?」

「い、いえ。ローデンを納めた店を回るついでです!」


セリアは慌てて背筋を伸ばし、追及を避けるように、そのまま勢いよく話を続けた。


「ですが、これで令息の行動ははっきりしましたね! 令息は恋人に会えず、贈り物を持ち帰ることにした。けれど、立派な箱を抱えたまま帰れば、家族に見つかって取り上げられてしまう。だから中身だけを取り出して衣服の中に隠し、箱や包みは別邸で燃やしたのでしょう」

「……そうだな」


それはたしかに筋の通った説明ではあった。贈り物を持ち帰るつもりだったのなら、家族の目につきそうな箱や包みを処分したこと自体は理解できる。だが、それでもどこか説明しきれていないものが残るように思えた。


とはいえ、贈り物を巡って何か揉めた形跡でもあればともかく、その行方がローデンによる死に関わるとは考えにくい。アルベルトは残った疑問を頭の片隅に追いやり、ビオンに続きを促した。


「ほかには?」

「あとは、令息が夜会の日に食べたものを確かめていました」

「今さらか?」


思いがけない答えに、アルベルトは眉をひそめた。


夜会の間や別邸で口にしたものなら、すでに何度も確認している。なぜ今になって同じことを繰り返すのか分からずにいると、ビオンは首を振った。


「夜会の最中ではありません。八日の朝から、夜会に出かけるまでに口にしたものを、改めて聞いて回っていました」

「朝から? あの毒は、大量に口にすれば一時間から六時間ほどで死に至るという話ではなかったのか?」

「そのはずです。複数の医師や薬師にも話を聞きました」


セリアも同じ疑問を抱いたらしく、僅かに首をかしげながら補った。


「まさか、毒が効き始めるのを遅らせる方法でもあるのか……?」


口にしてみても、あまりに都合がよすぎる話だった。誰にも知られていない調合法や、別の薬との組み合わせによって効果を遅らせられるのなら、これまで想定していた時刻はすべて意味を失う。


そのような方法が実際に存在するとは思えない。それでも、あの不気味な毒物の専門家なら、常識から外れた何かを知っているのではないかと考えてしまう。


「そんな話はしていませんでしたよ」


しかしビオンは、アルベルトの懸念をあっさりと否定した。


「それに、結局のところ、令息はその日、ほとんど何も口にしていなかったんです」

「何だと。朝からか?」

「はい。朝食もほとんど残し、昼食も手を付けたのは僅か。夜会に出る前にも、食事は要らないと言っていたそうです」


ヴァルシークが腕を組み、納得できる理由を探すように目を細めた。


「その日の初めから、婚約破棄を宣言するつもりだったのでしょうか。さすがに緊張で、食事も喉を通らなかったということなら分からなくもありませんが」


あれほど大胆な真似に出る男にしては意外にも思えたが、その後に何を失うかまで覚悟していたのなら、朝から平然と食事を楽しめなかったとしても不自然ではない。


ただ、自分たちが求めているのは令息が口にしたものであって、口にしなかったものではなかった。


「まあいい。あいつらが何を考えているかは、今は関係ない」


アルベルトは考えを切り替えるように卓に掌を置き、三人を順に見渡した。


「我々は、この薬入れの中身と持ち主を全力で突き止める。まずは製造した職人か、売った店を探せ。これだけの品なら貴族向けだろう。同じ物を幾つも作っていたとしても、どこに納めたかまでは辿れるかもしれん」


セリアたちは、薬入れに向けていた視線を一斉にアルベルトへ戻した。


「分かりました!」


三人の返事が、会議室に重なった。


彼らには、これまで散らばるばかりだった事実が、ようやく一つの方向へ集まり始めたように思えた。


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