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婚約破棄の翌朝、令息は死んだ――婚約破棄殺人事件  作者: 佐山香奈
3章 二つの捜査

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3-1 二つの不審

数日後、近衛騎士団の会議室で、アルベルトは手元の書類に視線を落としたまま、この数日の調査結果を順に確認していた。


向かいにはセリア、ビオン、ヴァルシーク。長卓には各所で集められた報告がいくつもの紙束となって並んでいる。


「司法院の記録からは、両家に不審な金の流れは見つからなかった。婚約によって一方だけが大きな利益を得る事情も、互いに特別な恨みを抱くような過去も、今のところは確認されていない。もちろん、これだけで何もないと断じることはできないが」


ヴァルシークは顎を撫でながら頷いた。


「王宮に届け出ていない事柄もあるでしょうし、個人的な恨みとなれば公の記録だけでは把握しきれませんからな」

「引き続き確かめる必要はあるが、今すぐ目を向けるべきものは見つからなかった、ということだ」


アルベルトは書類を閉じ、部下たちを見渡した。それを合図にヴァルシークは手元の覚え書きを取り上げた。


「では、あの夜会に居合わせた者たちの動きを、改めて確かめた結果をお話ししましょう。まずユリディス殿ですが、夜会ではほとんど何も口にしていなかったようです。もっとも、普通の神経をしていれば悠長に飲み食いなどしていられなかったでしょうが」


呆れを込めて首を振ったヴァルシークの言葉に、誰からともなく苦い息が漏れた。


「以前にも触れましたが、婚約を破棄された側のエルヴェイン家では、宣言の直後に母親のマルセリア夫人が悲鳴を上げて倒れ、長男のディートリヒ殿に支えられて広間近くの休憩室に運ばれています」

「無理もないですね……」


セリアがその胸中を思いやるように眉を曇らせると、ビオンも珍しく軽口を挟まず小さく頷いた。


「当主のレオルド伯爵は、第二王子ラウレンス殿下に退席の許しを求め、クラリッサ嬢を伴って家の控室に戻ったそうです」

「控室、ですか? 夫人が運ばれたのは休憩室では?」

「用意された控室は広間から距離がある。気分を悪くした者を無理に歩かせるわけにもいくまい。エルヴェイン家の控室には家臣や王宮の者も待っている。伯爵が娘を連れてそちらへ戻ったのは不自然なことではない。婚約破棄を受けて今後を話し合う必要もあっただろうからな」


アルベルトの説明に、口を挟んだビオンは納得した様子を見せた。


「夫人とディートリヒ殿もしばらく後に控室で合流し、その夜のうちに一家で王宮を辞しています」

「今のところ、怪しいところはないな」

「はい。ただし、近衛の者たちの記憶を突き合わせると、控室に先に戻ったのはマルセリア夫人で、付き添っていたはずのディートリヒ殿は、かなり遅れて姿を見せたようです」


アルベルトの指が、卓上に置かれた書類の端で止まった。


「……どういうことだ?」


倒れた夫人がしばらく休み、後から控室に戻ったというなら、まだ分からなくはない。しかしそれが逆になるとは、どのような理由があるだろうか。


「エルヴェイン家ではなんと? 当然、尋ねたのだろう?」

「夫人は婚約破棄の衝撃で倒れたものの、ほどなく歩ける程度には回復し、クラリッサ嬢が心配だからと先に控室に戻ったと。ディートリヒ殿は気持ちを落ち着けるため、しばらくその場に残ったそうです」

「なるほど。あり得ない話ではないが、少々不自然ではあるな」

「近衛の者の記憶では、ディートリヒ殿が戻るまで、三十分ほど空いていたようです。ただ、誰も正確な時刻を確かめていたわけではありませんので、おおよそそれくらいだと」


アルベルトは腕を組み、夜会場から休憩室、さらに各家の控室に至る王宮内の道筋を頭に描いた。


三十分という時間は、決して短くない。一人で気持ちを鎮めていたと言われれば不自然ではないが、母親と妹を案じる兄が戻るまでの時間としては長くも思える。

しかし、その間に何をしていたのかを示すものはなく、ヴァルシークが話し終えても、誰からも確かな考えは出なかった。


しばらく沈黙が続いたところで、セリアが手元の紙を整えて口を開いた。


「では、次は私から。ローデンを扱う店を当たった結果です」


三人の視線が集まると、セリアは背筋を伸ばし、はっきりとした声で続けた。


「ローデンは薬や殺鼠剤として一定の需要がありますが、高位貴族の家に品を納める店では、あまり扱われていないようです」

「ああ。家政の細部まで把握しているとは言えないが、私も名を聞いたことはなかった」

「どうやら、ローデンには人が口にしても、すぐに吐き出すような強い刺激はないようです。調べたところ、鼠は食べたものを吐けないそうで、強い吐き気を起こす殺鼠剤でも有効なのだとか。余裕のある家では、そうしたものを使うことが多いようです」

「なるほど。同じように鼠を殺せるなら、人間には食べにくい方がむしろ都合がいいということか。誤って口にすれば危険だからな」


逆に言えばローデンが飲食物に混じっていても、口にしただけではすぐに気づかない可能性がある。アルベルトはその点を頭の片隅に留めておいた。


「念のため高位貴族との取引がある店や商会の帳簿も確かめましたが、グレナート家がローデンを買った記録は見つかりませんでした」


セリアはそこで一度言葉を切り、皆の顔を見渡した。


「ですが、エルヴェイン家では、出入りの商人から殺鼠剤として購入しています」


その一言で、今まで淡々と報告がなされていた部屋の様子が変わった。ビオンは卓に身を乗り出し、ヴァルシークも表情を引き締める。


「もちろん、一般の商店についても引き続き当たっています。今のところ確かめられたのは、そこまでです」


アルベルトはすぐには口を開かず、その事実が何を意味するのか慎重に考えていた。


実際にユリディスが口にしたローデンが、その品であるとは限らない。帳簿に残らない形で手に入れることもできるうえ、野草の球根から自ら毒を作った可能性さえ、完全には捨てられない。


だが、あえて記録の残らない経路で手に入れる者が、わざわざローデンを選ぶだろうか。


――いや。誰でも正当な理由で買える毒だからこそ、出所を辿れないようにすることに意味があったのかもしれない。


そもそも、なぜローデンだったのか。この毒でなければならない理由があったのか。それとも、本来は別の用途に備えられていたものが流用されたにすぎないのか。


そこまで考えたところで、アルベルトは自分が推測だけを先に進めすぎていることに気づき、組んでいた腕を解いた。


「高位貴族の家ではあまり使われていないローデンを、エルヴェイン家が購入していたというのは確かに気になる。もちろん、それだけで犯行を疑うことはできないが、重要な手がかりになるかもしれない」

「はい」


セリアの声には、わずかな張りが戻っていた。掴みどころのなかった事件に、ようやく追うべきものが見えてきたためか、会議室にも心なしか活気が戻っていた。


その空気の中で、ビオンがいつものように気軽な声を上げた。


「この話、リゼリアーナ嬢にも伝えますか?」


アルベルトは一瞬、その意図を測りかねたようにビオンを見返し、それから眉を寄せた。


「……あいつは、何をしていた?」



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