37話 その後の日常
羽瑠24歳。
看護師として働き始め数年たった。
朝のナースステーションは慌ただしく、
電子カルテの光が青白く反射している。
私はヴァインダーを抱え、黒木のもとへ歩く。
「黒木先生、オペ後の山田さんですが。食事があまり取れていないようで。」
「じゃあ点滴一本増やそうか。
あと、食事形態について栄養士に相談して。」
黒木は相変わらず淡々としていて、
白衣の袖を少し捲りながら指示を出す。
「はい、わかりました。」
まさかの…同じ病棟で働いている。
◇
そして、仕事終わりに
カフェでコーヒーを飲んでいたら――
「あれ、月宮さん?」
顔を上げると、見覚えのある人が立っていた。
「えっと……もしかして速川先輩?」
そう言うと、先輩はふわっと柔らかく微笑んだ。
「うん、久しぶりだね。」
「そうですね。」
速川湊先輩。
同じ高校で、私を“殺したかもしれない人物”として疑っていた相手。
……あの時は、本当にごめんなさい。
「それより、どうしたんですか?」
「ここ、会社の近くでさ。俺もよく利用するんだ。
まさか会えると思わなかったよ。座ってもいい?」
そう言われて、私は軽くうなずいた。
「はい。」
先輩は椅子を引いて、向かいの席に腰を下ろす。
「実はね……ずっと伝えたいことがあって。」
頬をかきながら、少し照れたように笑う。
「その前に……今、彼氏とかいる?」
「いないです。」
そう答えた瞬間、
先輩は目に見えてほっとした表情を浮かべ、
意を決したように私を見つめた。
「実は俺……月宮さんのこと、高校のときから好きだったんだよね。」
わあ。
まじか。
私は思わず目を丸くした。
「えっと…私と先輩って、とくに話したことないですよね?」
学年も違うし、
サッカー部のキャプテンとしてみんなから信頼されていた人気者。
私とは、ほとんど接点なんてなかったはずだ。
「そうなんだけどね…」
先輩は少し照れたように笑って、続けた。
「俺が高二の時さ、大切にしてた猫の人形を無くしちゃって。その頃、サッカーもうまくいかなくて……やめようと思ってた時期だったんだ。」
懐かしむように目を細める。
「その猫の人形、くたびれててさ。
みんな足で蹴ったり、見えてても無視したりして……」
そこまで言って、ふっと息をつく。
「でも、そんな中で月宮さんだけは違った。」
胸の奥が少しざわつく。
「拾って、洗って、踏まれない位置に置いてくれてた。
その時、友達と話してる声が聞こえたんだ。」
先輩は、あの時の言葉を思い出すようにゆっくり続けた。
「みんなが笑ってる中で、月宮さんだけが言ったんだ。」
『こんなところにいたら可哀想だよ。
誰かにとっては大切なものかもしれないから。』
その言葉を口にした瞬間、
先輩の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
「……あれ、すごく救われたんだ。」
胸の奥がじんわり温かくなる。
「それから……月宮さんのこと、ずっと好きだった。
でも高校では言えなくてさ。
ずっと後悔してたんだよね」
静かな告白だった。
でも、その静けさがかえって重く響く。
「そうだったんですね。」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
速川先輩は、少し息を吸ってから言った。
「だから…今度こそ。
俺と付き合ってもらえますか?」
「え?」
思わず瞬きをする。
「あ、ごめん。いきなり“付き合って”は早いよね。」
先輩は慌てて手を振った。
「まずは……友達からどうかな?」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
“友達から”
その言葉は軽いはずなのに、
なぜか胸の奥が痛んだ。
――朔はもういない。
あの日、未来へ帰ってしまった。
それでも、時間は進む。
仕事もある。
生活もある。
笑わなきゃいけない日もある。
でも、心のどこかに朔がいる。
消えない。
忘れられない。
だけど――
このまま立ち止まっていても、だめだ。
「……とりあえず、友達からなら。」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
速川先輩はぱっと顔を明るくして、
「ありがとう」と小さく笑った。
そのまま連絡先を交換して、
店の前で軽く会釈して別れた。




