23話 黒木院長
短いやり取りを残して、私は病室を後にした。
扉が閉まると同時に、消毒液の匂いが濃くなる。
白い廊下は静かで、足音だけがやけに響いた。
そのとき——
「き、きみは…。」
不意に声をかけられ、心臓が跳ねた。
振り返ると、白衣の男が立っていた。
光の反射で表情は読み取りづらいが、どこか見覚えがある。
「えっと…こんにちは。」
言いながら、背筋に冷たいものが走る。
記憶の奥で、名前がゆっくり浮かび上がった。
黒木。
黒木雅信。
朔の部屋の模造紙に書かれていた、
“私を殺したかもしれない”容疑者の一人。
「あ、こんにちは。
知り合いに似てたもので驚いて。」
…知り合い。
その言葉が、胸の奥でざらりと引っかかった。
「いえ、どなたに似てるんですか?」
気づけば、聞き返していた。
聞くべきじゃないと頭ではわかっていたのに、
口が勝手に動いた。
「…亡くなった娘にね。」
一瞬、空気が止まった気がした。
「あ、すみません。
私、失礼なことを…。」
「いや、いいんだ。
もう昔のことだ。
君と同じぐらい17歳で亡くなってね。」
胸の奥がざわつく。
“17歳”という言葉が、妙に重かった。
「どうして…亡くなったんですか?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「交通事故だよ。
夏祭りの日だったかな。」
夏祭り——
その単語が、喉の奥でひっかかる。
「トラックが赤信号を無視してね。
居眠り運転だったって。」
「そ、そんな。」
黒木院長の表情は淡々としていた。
けれど、その目の奥には何か沈んだものがあった。
「すまないね。
こんな話聞かせてしまって。」
「いえ…。」
「では、失礼するよ。」
黒木院長は静かに去っていった。
白衣の背中が角を曲がって見えなくなるまで、
私はその場から動けなかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと形を成し始めていた。
嫌な予感だけが、確かな輪郭を持って。
病院の外に出ると、むわっとした夏の空気が肌にまとわりついた。
「羽瑠!」
振り返ると、朔が駆け寄ってくる。
「朔……。」
「アイス食べいこう! 暑い。」
「うん。」
二人で近くの売店でアイスを買い、木陰のベンチに腰を下ろす。
蝉の声が遠くで響き、夏休みの始まりを告げているようだった。
しばらく黙ってアイスを舐めていたけれど、
胸の奥に引っかかっていた言葉がどうしてもこぼれた。
「ねぇ、朔。」
「なに?」
私は深呼吸して、勇気を振り絞る。
「さっくんだよね?」
その瞬間――
朔の表情がふっと揺れた。
泣きそうな顔。
驚きと、安堵と、少しの痛みが混ざったような。
「思い出したんだ。」
「うん。夢を見たの。」
さっくんと出会った日のこと。
万華鏡を渡した日のこと。
でも――
私は“その先”を知らない。
「そっかー。
そうだよ。俺がさっくん。
君が万華鏡をくれた。」
「お爺ちゃんのだけどね。」
そう言って笑うと、朔も少しだけ笑った。
「10年後の朔がここにいるってことは、夢が叶ったんだね。」
余命三年と言われていた少年が、
こうして私の隣でアイスを食べている。
きっと、移植がうまくいったんだ。
そう言うと、朔は笑った。
「うん、そうだね。」
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
けれど――
私はその違和感を見逃してしまった。
あのとき、もっとちゃんと見ていればよかった。
朔の笑顔の奥に隠れていた“影”に、気づけたはずなのに。
「私のこと知ってたから。未来から助けに来てくれたんだ。」
私がそう言うと、朔はアイスの棒を指でくるくる回しながら、少し照れたように笑った。
「そうだね。ちゃんと有言実行。」
「え?」
「10年後口説きにいくって言ったでしょ? 羽瑠のこと。」
「いってたかも。」
「…7歳の俺は君に一目惚れしたんだ。
そして、また俺は君に一目惚れした。」
「うそ。」
「本当だよ。ほんと。」
朔は噛みしめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
その声は、どこか震えていた。
「だから、絶対羽瑠の未来は奪わせない。
羽瑠のものだ。」
その言葉は、まっすぐで、強くて、優しかった。
「そうだね。」
私がそう返すと、朔はふっと微笑んだ。
「あと、残る容疑者は……黒木雅信。」
朔が低い声で言う。
「うん。さっきね、その黒木院長に会ったの。」
「え? 大丈夫だった?」
「うん。
私、亡くなった娘さんに似てるって言ってた。
しかも夏祭りの日に亡くなってるって。」
朔の表情が一瞬だけ固まる。
「やっぱり……。名前は黒木沙羅。当時17歳。
15年前、夏祭りの帰りに居眠り運転のトラックが赤信号のまま突っ込んできて、亡くなった。」
「そんなに……似てるの?」
「見る?」
「うん。」
朔はスマホを取り出し、写真を見せてくれた。
新聞の切り抜きのような古い記事。
「確かに……似てるかも。」
「うん。今の羽瑠とよく似てる。
まあ、羽瑠のほうが可愛いけどね!」
「そんなこと今はいいから。」
軽口を遮ると、朔は肩をすくめた。
「それよりも、当時はアリバイがあったって…。」
朔の調べた模造紙に書いてあった。
「うん。病院にいた記録が残ってたらしい。
でも……黒木病院は大きいし、警察との繋がりもあったはず。
正直、どうにでもできたかもしれない。」
「そう……。」
黒木病院は先進医療に強く、海外での実績がある医師も多い。
黒木院長自身も、海外で移植手術を成功させてきた名医だ。
そんな人が――
もし、娘を失った悲しみで何かを歪めてしまったのだとしたら。
「だから、この件は……俺に任せてほしい。」
「え?」
朔の声は静かだった。
けれど、その奥に強い決意があった。
「俺が話してくる。」
「いや、でも……私のことだし。」
「うん。だからこそだよ。」
朔はまっすぐ私を見る。
「黒木とは、俺が決着をつける。」
その言葉は、拒む隙を与えないほど強かった。
「わ、わかった。」
そう返すしかなかった。
でも――
胸の奥がざわつく。
朔の決意の裏に、
“何かを覚悟している気配”が、確かにあったから。




