16話 朔の秘密
朔side
朗読を続けていた俺は、ふと違和感に気づいた。
返事がない。
ページをめくる手を止め、耳を澄ます。
「……羽瑠?」
呼びかけても、返ってくるのは小さく整った呼吸だけ。
眠っているとき特有の、ふわっとした息づかい。
俺は思わず小さく笑った。
電話越しでも分かるくらい、安心しきった寝息だった。
『……寝たな。』
声を潜めて呟く。
ほんの数分前まで不安そうだったのに、
今はこんなに穏やかに眠っている。
そのことが、胸の奥をじんわり温かくした。
『おやすみ、羽瑠。』
聞こえないと分かっていても、
そっと優しく言葉を落とす。
『誕生日の夜に、俺の声で寝てくれたの……嬉しい。』
照れたように笑いながら、
しばらくその寝息に耳を傾けた。
切るのが惜しくて。
まるで隣で眠っているみたいで。
『……ちゃんと朝までぐっすり眠れますように。
羽瑠が俺にくれたもの、俺もちゃんと返すから。』
願いを込めるように小さく呟いてから、
ようやく通話終了のボタンに指を伸ばした。
画面が暗くなる瞬間まで、
俺の胸の奥には、羽瑠の寝息の余韻があたたかく残っていた。
そして、俺も目を閉じた。
◇
17歳の夏。
祖母が亡くなり、片付けのために海外から日本へ戻ってきた。
久しぶりの祖父母の家は、静かで、どこか懐かしい匂いがした。
押し入れを開けると、古い箱の中に、ひとつだけ色の違うものがあった。
――万華鏡。
手に取った瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
これ、昔もらったんだ。
初恋の人に。
俺よりも年上で無邪気で綺麗な人だった。
一目惚れだった。
「腎臓、あげられたらいいのにね。」
初対面の俺にそんな軽口を言ってくれた人。
懐かしさに負けて、そっと覗き込む。
その瞬間、色がゆっくりと動き出した。
映っていたのは――7歳の俺。
余命宣告を受けて、呆然とした顔。
両親の泣き声を聞きたくなくて、病院を抜け出してきた公園で
あの人に会った。
10歳で移植した手術室。
成長していく俺の姿。
まるで、誰かが“俺の人生”を優しくなぞって見せているみたいだった。
けれど、次の瞬間。
映像がふっと揺れ、逆再生を始めた。
色がほどけていき、光がしぼんでいく。
そして――止まった。
写真だ。
月宮羽瑠が笑顔で笑っている。
その下には、眠るように目を閉じている彼女。
知らないはずなのに、胸がぎゅっと痛む。
誰かが泣いている声が、遠くから聞こえた気がした。
『何で、爺ちゃんより先に死ぬんだよ……』
『羽瑠…いやよ。どうしてよ。』
『なんで…こんなめに。』
静かな部屋の中で、万華鏡だけが別の世界につながっているようだった。
映像がまた変わる。
黒い背景に、白い文字が浮かぶ。
『月の満ち欠け……やりなおしますか?』
意味がわからない。
でも、なぜか“選ばなきゃいけない気がする”自分が怖くて、
慌てて目を離した。
部屋は元の静けさに戻っていた。
ただ、手の中の万華鏡だけが、ほんのり温かかった。
それから俺は、調べ始めた。
祖父母の遺品の中にあった古い新聞。
町の図書館の縮刷版。
ネットの片隅に残っていた、誰も気に留めないような記事。
ひとつの“日付”が、何度も目に飛び込んできた。
8月13日。
羽瑠が亡くなったとされる日。
見つかったのはその一週間後。記事には、赤い薔薇が敷き詰められたボートの上で、
まるで眠っているようだったと書かれていた。
そのあとにも、同じような状況で3人の少女が命を落としていた。
世間では「花舞う連続殺人事件」と呼ばれていたらしい。
そして、同じ日付にもうひとつの記録があった。
俺への腎臓移植。
医療記録には提供者の名前はなかった。
けれど、祖父母のメモに小さく書かれていた。
「プレゼントのように届いた腎臓。」
胸がざわついた。
そんな言い方、あるかよ。
どうしても確かめたくて、俺は両親を問い詰めた。
しばらく沈黙が続いたあと、
母さんが泣きながら言った。
「殺された子の腎臓よ。…あなた宛に届いたの。あなたを助けてくれたの。」
目を閉じる。
夢だと思いたかった。
でも――違う。
万華鏡が見せた映像は、ただの幻じゃない。
“過去に起きたこと”だと、体が知っていた。
気づけば、寝汗が背中に張りついていた。
呼吸が浅くなる。
羽瑠は、俺のために死んだのか?
そんなこと、絶対に許さない。
胸の奥で、静かに何かが固まる。
俺がどうなろうと構わない。
あの日の未来を、もう一度繰り返させたりしない。
絶対に、そんなことさせない。
羽瑠を奪わせない。
万華鏡の中で揺れていた“月の満ち欠け”が、
ゆっくりと脳裏に浮かんだ。




