第5話:ひだまりの教室と、呼吸をするような魔法
雫の朝のルーティンや、学園の何気ない日常が明らかになる!
朝。微かに開けたカーテンの隙間から、乳白色の淡い光がシーツの上に滑り込んできた。
スマートフォンの控えめなアラーム音を指先で止め、私はゆっくりとまぶたを開ける。静まり返った部屋の中で、自分の規則正しい寝息の余韻と、心臓の鼓動だけが聞こえる。
深く息を吸い込むと、私の内側で眠る『星の海』が、波を打って静かにうねるのがわかった。暴力的とも言えるほどの強大な魔力。それが私の身体という小さな器の中で、絶えず外へ出ようと渦巻いている。私は毎朝、目を覚ますと同時にその重い扉に鍵をかけ、何事もないように「ただの女子高生」としての呼吸を始めるのだ。
洗面台の鏡の前に立ち、少し跳ねてしまった寝癖を見つめる。
指先を向け、魔力を流す。頭の中にあるのは『髪の繊維を傷つけず、真っ直ぐに撫でつける』という極めて単純なイメージだ。しかし、私にとってそれは、轟々と燃え盛る巨大な篝火の中から、ピンセットで火の粉を一つだけ取り出すような作業だった。
ほんの少しでも魔力の抽出を誤れば、髪の毛どころか洗面台ごと消し飛ばしてしまう。息を詰め、神経を針の先のように尖らせて、指先に微かな温もりだけを灯す。
ふわり、と見えない櫛が通ったように髪が落ち着いたのを確認し、私はほうっと長い息を吐き出した。たかが寝癖を直すだけで、うっすらと額に汗が滲む。
朝食はトーストと目玉焼き。フライパンの下に指をかざし、繊細な火加減でじっくりと卵に火を通す。魔力操作の訓練としては最適だが、毎朝のこととなると少しだけ骨が折れた。
身支度を整え、学生寮を出る。
桜並木が続く通学路は、同じ制服に身を包んだ藤ケ丘女子学園の生徒たちで賑わっていた。
歩きながら少し汚れたローファーの爪先を魔法でサッと拭い去る子や、朝の肌寒い空気を和らげるため、首元にふわりと暖かい空気の層を纏わせている子。この世界では、誰もが呼吸をするのと同じくらい自然に、日常のあちこちでささやかな魔法を息づかせている。
その光景は、いつ見ても美しかった。誰も傷つけない、生活に寄り添うだけの優しい力。
「おはよう、雫ちゃん」
ふいに、春の陽だまりを思わせる甘い花の香りが鼻先をかすめた。
振り返ると、少しだけ息を弾ませた結衣が微笑んで立っていた。
「おはよう、結衣。今日もいい天気だね」
「うん。……あ、雫ちゃん。リボン、少し曲がってるよ。じっとしててね」
結衣が私の胸元にすっと指先を向ける。彼女の魔力は、透き通った小川のせせらぎのように穏やかで、何の淀みもなかった。見えない柔らかな手が触れたように、制服のリボンが正しい位置へと結び直される。
「ありがとう。結衣の魔法は、いつも優しくて綺麗だね」
「ふふ、これくらいお安い御用だよ。さ、行こっか」
結衣の並んで歩く歩幅に合わせながら、私は彼女の魔法の余韻が残る胸元を、そっと指で撫でた。
教室に入り、八時半のチャイムが鳴る。
ショートホームルーム。担任の教師が教卓から指を軽く振ると、黒板のチョークが宙に浮き、リズミカルな音を立てて本日の日直の名前と日付を自動で書き記した。
一限目から四限目までは、淡々と時間が流れていく。
魔法が使えるからといって、座学がなくなるわけではない。ただ、ほんの少しだけ手元が便利になるだけだ。ノートの文字を書き損じた時、生徒たちは消しゴムを使わず、インクだけを紙から浮かせてチリのように消し去る。うっかり落としたペンは、床に屈むことなく手元へと引き寄せる。
三限目の「魔法史」の授業中、教師の声が教室に響いた。
『――かくして、かつての破壊的な魔法は歴史から姿を消し、人類は平和で安全な生活魔法の時代へと移行したのです』
教科書には、それが人類の進化と選択の結果であるかのように書かれている。だが、祖母から『リミッター』の真実を聞かされている私は、教科書の文字を見つめながら密かに自嘲した。
平和な時代。その裏側で、私のようなバグめいた存在を、五家という権力者たちが今も血眼になって探し求めているというのに。
待ちに待った昼休み。
結衣と机をくっつけて、二人でお弁当箱を開く。
「ちょっと冷めちゃったね。温めるよ」
結衣が両手をかざすと、お弁当箱全体が電子レンジにかけたように、ふんわりとした温かさを取り戻した。
「いただきまーす。あ、今日の卵焼き、すごく綺麗に巻けたから一つ交換しない?」
「うん。じゃあ、私の唐揚げと交換ね」
結衣の卵焼きは、ほんのりと甘い出汁の味がした。咀嚼するたびに、彼女の優しさがじんわりと胃の腑に落ちていくような気がした。
開け放たれた窓からは、中庭でバレーボールをして遊ぶ生徒たちの歓声が聞こえる。風の魔法でボールの軌道を少しだけ曲げ合い、キャハハと笑い転げる平和な風景。私は結衣ととりとめのない話をしながら、この時間が永遠に続けばいいのにと、痛切に願った。
午後の日差しが傾き始める五限目と六限目は、穏やかな眠気との戦いだった。
五限目の英語。黒板を写すチョークの音だけが響く中、結衣がこっそりと自分の首元に冷気を当てて、必死に目を覚まそうとしているのが横目で見えた。その仕草があまりにも可愛らしくて、思わず口元が綻ぶ。
私も彼女に倣って、指先に極小の魔力を集めた。ミントのように冷たく澄んだ空気を生み出し、そっと自分のこめかみに当てる。山を吹き飛ばせるほどの強大な力を、ほんの僅かな眠気覚ましのために極限まで絞り込む。滑稽なほど不釣り合いな魔法の使い方だが、私にとってはこれ以上ないほど贅沢で、愛おしい力への向き合い方だった。
やがて、終わりのチャイムが学園に鳴り響く。
帰りのロングホームルーム。日直の生徒が魔法で一斉に窓を閉め、カーテンを束ねていく。
「それじゃあ、気をつけて帰るように。さようなら」
「「「さようなら」」」
号令とともに、教室が放課後のざわめきと解放感に包まれた。
「雫ちゃん、帰りに図書室寄っていかない? 次の課題の資料を探したくて」
カバンを手に取った結衣が、琥珀色に染まり始めた教室の中で私を振り返る。
「うん、いいよ。私も借りたい本があったから」
朝起きて、授業を受け、お弁当を食べ、放課後を迎える。
なんてことのない、ただ魔法が少しだけ寄り添うだけの一日。
私の内側で渦巻く星の濁流も、息を潜める五家の影も、ここには一切存在しない。結衣の隣を歩くこの他愛のない瞬間だけが、私の世界を繋ぎ止める確かな錨だった。
「行こっか」
結衣の歩幅に合わせながら、私はゆっくりと廊下を歩き出す。斜陽に照らされた二人の影が、穏やかに床へ伸びていった。
第6話に続く




