第32話:玉座の空白と、忍び寄る影
最高評議会の中枢であった大審院の絶対戒律が、星屑の光によって「書き換え」られてから数週間。
日本の魔術社会を束ねていた東京の「本山」は今、歴史上類を見ない権力の空白と、水面下の血みどろの内乱状態に陥っていた。
旧九重家が管理していた本山の最上階、最高執務室。
分厚い防弾・防魔ガラスに覆われたその部屋の空気は、焼け焦げたオゾンと鉄の匂い(血の匂い)に満ちていた。部屋の四隅に展開された宝生家の防衛結界は、全国から飛来する無数の『暗殺の呪詛』を自動迎撃し続け、不気味な赤光を明滅させている。
「……御影家の残党部隊による自爆テロ、三件鎮圧。九重家の息がかかった法務局員たちの半数は、新体制への宣誓を拒否して地下へ潜伏……か」
執務机の奥で、宝生紫苑は血を吐くような重い溜息をこぼした。
彼女の美しい銀色の髪は艶を失い、青い瞳の下には濃い死相のような隈が落ちている。大審院を破壊したのは雫と結衣だが、その直後から始まった「五家の残骸」との果てしない政治的・物理的殺し合いをたった一人で盤面操作しているのは、紫苑だった。
「紫苑様、西の領地より急報です」
執務室の扉が開き、傷だらけの宝生家の側近が駆け込んできた。
「関西以西の霊脈を管理する西園寺家と、北の国境防衛を担う天霧家が……東京への魔力供給ラインを意図的に完全遮断しました。彼らは最高評議会の崩壊を『宝生家による不法な簒奪』と断定。新体制を一切承認しないという共同声明を出し、東京への兵糧攻めを開始しました」
紫苑は微かに眉間を揉み、万年筆を机に突き立てた。
武闘派の御影や中枢の九重とは異なり、西園寺家は日本の魔術社会の「経済と兵站」を、天霧家は「暗殺と裏工作」を何百年も牛耳ってきた底知れぬ一族だ。彼らは中央の崩壊を静観し、紫苑が疲弊しきったこの「最大の好機」を待って、最も冷徹な形で牙を剥いてきたのだ。
「……彼らの狙いは宝生家の失脚じゃない。法の縛りが消えた今、規格外の特異点である『流星の魔女』を、自陣営の圧倒的な抑止力として手なずけ、独占することよ」
紫苑が冷酷な事実を口にした、その時だった。
「紫苑ちゃーん! 差し入れ、持ってきたよ!」
その血生臭く、張り詰めた執務室の空気を、根底からひっくり返すような底抜けに温かい声が響いた。
扉が開き、満面の笑みを浮かべた結衣と、その少し後ろで大きな紙袋を抱えた雫が姿を現した。結衣が部屋に足を踏み入れた瞬間――彼女の首元に巻かれたグレーのマフラーから波及した『生活魔法』の陽だまりのような波長が、室内に充満していた呪詛の残滓や焦げ臭い空気を、春風のように一瞬で浄化《調律》してしまった。
「あなたたちね……ここは今、日本で一番致死率の高い政治の最前線よ。学園のカフェテリア感覚で来ないでちょうだい」
紫苑は呆れたように肩を落としたが、その口元は、張り詰めていた糸が切れたようにわずかに緩んでいた。
「だって、紫苑ちゃんがずっと泥を被ってくれてるから、私たちは平和に学校に行けてるんでしょ」
結衣はそう言いながら、血生臭い報告書を器用に脇へ除け、買ってきたばかりの限定タルトと、温かい紅茶を手際よく並べていく。
「ありがとう。……正直、精神も魔力も限界まで枯渇していたところよ」
紫苑が紅茶に口をつけ、ふうと息をついたのを見て、雫も静かに微笑んだ。革命のあとの残酷な日常の中で、この三人が集まる瞬間だけが、唯一の呼吸できる場所だった。
しかし――その「陽だまり」は、最も悍ましい形で唐突に破られた。
結衣が紫苑に手渡そうとした二杯目の紅茶。その水面が、一滴の波紋も立てずに「真っ二つ」に割れた。
――ピキリ、と。
宝生家が展開していた数十重の最高防衛結界が「一切の警報を鳴らさないまま」、空間の次元そのものが刃物で切り裂かれたように歪んだのだ。
「ッ! 結衣、離れて!」
雫の顔色が変わり、瞬時に結衣の腰を抱いて後方へ跳んだ。
直後、結衣が立っていた空間の「隙間」から、音もなく一枚の漆黒の折り鶴が滑り出してきた。もし雫の反応が遅れていれば、結衣の首は空間ごと切断されていた。
「天霧の『空間暗殺術式』……! 私の結界を完全にすり抜けたというの!?」
紫苑が戦慄と共に立ち上がる。
空中で静止した漆黒の折り鶴は、人間の声帯を精巧に模した、感情の一切ない合成音を発し始めた。
『――拝啓、宝生家の若き簒奪者殿。ならびに、美しき星の魔女殿』
それは、実力行使を伴う冷徹な宣戦布告だった。
『東京の旧体制を打ち砕いたその力、見事というほかない。だが、我ら西園寺と天霧は、小娘たちのままごとを新しい法と認めるつもりはない。……三日後、不可侵領域である「箱根・境界の社」にて会談の席を設ける。魔女の身柄を引き渡すか、それとも西と北の全軍を敵に回して、この国の霊脈ごと焦土と化すか。賢明な判断を期待する』
言い終わると同時に、黒い折り鶴は青白い炎を上げて燃え尽き、呪詛の灰となって執務室の床に落ちた。
完全な脅迫だった。
応じなければ東京のインフラと霊脈を完全に遮断され、宝生家もろとも兵糧攻めにされる。しかし応じれば、雫が彼らの兵器として囚われることになる。さらに、彼らは今の空間断裂で「いつでも結衣の命を狙える」という事実を証明して見せたのだ。
「どうするの、雫ちゃん……」
結衣が少しだけ震える手で、けれど決して逃げ出さないという強い意志を込めて、雫の右手をしっかりと握りしめた。その手のひらの温もりが、冷え切った空気をじんわりと溶かし、雫の内側で逆巻こうとした星の重力を優しく鎮める。
雫は結衣の手を強く握り返し、燃え尽きた灰から顔を上げて、紫苑を真っ直ぐに見据えた。
その瞳に、かつて一人で怯えていた少女の面影はない。新しい世界をその手で切り開いた「共犯者」としての、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「行くよ、箱根に」
雫の声は静かで、圧倒的な質量を伴っていた。
「五家の残り全部が相手でも構わない。私と結衣の……私たちが生きていくこの日常を脅かすものは、ここできっちり終わらせる」
第3章。
真の自由と新秩序を勝ち取るための、残された五家との容赦なき直接対決が、今、静かに幕を開けた。
第33話に続く




