第20話:冷徹な秤と、裁かれる日常
クリスマスの一件から数日が経った..
しかし魔の手は直ぐそこまで迫っていて...
クリスマスの一件から数日後。冬休みを挟み、藤ケ丘女子学園には新学期の張り詰めた冷気が戻りつつあった。
表向き、学園の日常は以前と何ひとつ変わっていなかった。中庭の折れたモミの木は綺麗に撤去され、生徒たちは変わらずおしゃべりを楽しみ、授業の予習に頭を悩ませている。
けれど、私と結衣、そして紫苑の三人にとっては、世界の色が完全に塗り替わっていた。
「……ねえ、雫ちゃん。今朝、校門のところに黒いセダンが停まってたのを見たんだ。すごく冷たい空気を纏った人たちが、何人もしゃがみ込むようにして敷地を調べてて……」
昼休み。教室の席で、結衣が小さな声で私に耳打ちした。その手には、私に編んでくれたあのグレーのマフラーが、今日も優しく巻き付けられている。
「うん、私も気づいた。……たぶん、もう来てるんだと思う」
私の言葉に、教室の空気は微かに凍りついた。
席の少し離れた場所で、紫苑が静かに本を閉じた。彼女の青い瞳には、昨日までの穏やかさがすっかり消え去り、底知れない警戒の色が宿っている。
「最高評議会特務査察官――『一ノ瀬 礼』」
紫苑が立ち上がり、私たちに近づいてきた。その声は、わずかに、しかし明確に震えていた。
「御影のような野蛮な猟犬とは次元が違います。彼は暴力ではなく、五家の厳格な『法』と『論理』を武器にする。最高評議会の直属として、数々の特異点を合法的かつ冷徹に処分してきた、正真正銘の『処刑人』です」
「査察って……具体的に、何をされるの?」
結衣が不安そうに紫苑を見上げる。紫苑は厳しい表情のまま、唇を真一文字に結んだ。
「彼らの目的は、雫さんの『星の魔力』を没収することではありません。それ以上に危険なのは――その制御に不可欠な『錨』である白瀬さんの存在を、法的に切り離すことです」
――引き離す。
その言葉の意味を理解した瞬間、私の背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
結衣の波長がなければ、私の胸の奥にある星の重力は一瞬で暴走し、この世界を消し飛ばす。それを「一般生徒を危険な特異点の暴走に巻き込んでいる共犯者」という大義名分を盾に引き離すということは、私を永遠の監獄に閉じ込めるか、あるいは私から人間性を奪い去るということだ。
「……そんなこと、絶対にさせない」
私が低い声で呟くと、結衣がスッと自分の手を私の手のひらに重ねてきた。
温かな生活魔法の波長が、私の冷えた指先をしっかりと包み込む。
「大丈夫だよ、雫ちゃん。私、どこにも行かないし、離れないから」
その亜麻色の瞳に宿る覚悟を見て、私は深く息を吸い込み、うなずいた。私だけじゃない。結衣もまた、自分の意思でこの戦いに立ち上がっているのだ。
その時だった。
コツ、コツ、コツ――。
静かな廊下を、規則正しく響く革靴の音が近づいてくる。
それは無機質で、一切の感情や揺らぎを排した、機械のような足音だった。
教室の扉が、音もなくスライドして開く。
そこに立っていたのは、仕立ての良い黒のスーツに身を包み、銀縁の眼鏡をかけた一人の青年だった。整った顔立ちだが、その肌は紙のように白く、瞳の奥には血の通っていない冷徹な理性が光っている。
彼が教室に入ってきた瞬間、室内の空気が数度下がったような錯覚を覚えた。周囲の生徒たちは、理由も分からぬまま息を呑み、一斉に静まり返った。
特務査察官――一ノ瀬 礼。
彼の視線は、教壇に立つ教師を一瞥すり抜けることもなく、まっすぐに私と、そして私の隣にいる結衣へと向けられた。
「雫さん、そして宝生紫苑様。……最高評議会特務査察官、一ノ瀬です」
その声は、低いがよく通り、教室中の空気を支配した。
「突然の訪問、失礼いたします。――数日前、この学園の上空で観測された『特異点規模の魔力解放』について、最高評議会としていくつかの『公式な法的確認事項』があります。同行を願えますか」
一ノ瀬の口元には、完璧に作り上げられた丁寧な笑みが浮かんでいたが、その目に笑いは一切なかった。
それは、逃げ場のない罠に獲物を追い詰めたハンターの、冷徹なまでの確信に満ちた目だった。
「……断ったら?」
私が席から立ち上がり、一歩前へ出ると、紫苑がすかさず私の斜め前に立ち塞がった。彼女の顔には、次期当主としての誇りと、隠しきれない焦燥が入り交じっている。
「一ノ瀬査察官。本山の許可なく、次期当主である私や、一般の生徒に対して権限外の尋問を行うことは許されません。ここは私の管轄です、直ちに退きなさい」
「宝生様。私は最高評議会の正規の命を受けて動いています」
一ノ瀬は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、冷ややかに言い放った。
「あなたがどれほど次期当主の権限をかざそうとも、最高評議会の決定は絶対です。法と規律の前では、私情も身分も通用しませんよ。――それに、問題なのはそこではありません」
一ノ瀬の冷たい視線が、私の隣で震えながらも一歩も引かない結衣へとスライドした。
「そこにおられる一般生徒、白瀬結衣さん。あなたには『国家機密級の特異点に対し、違法かつ危険な魔力干渉を行い、暴走を誘発した幇助および違法所持の容疑』がかかっています」
一ノ瀬の声が、教室の冷たい空気を切り裂く。
「一般人が魔女の牙城に踏み込むなど言語道断。彼女は被害者ではなく、危険な特異点を私物化する『共犯者』だ。直ちに彼女を雫さんから引き離し、個別の隔離尋問を実施します」
結衣の名前を出された瞬間、私の胸の奥で、抑え込んでいた星の重力が怒りに反応してわずかに脈打った。
――危ない。ここで怒りに飲まれれば、彼の思う壺だ。法律という名の牙を剥かれたら、感情論では押し切れない。
「……待って」
私が冷たく言い放つと、一ノ瀬は眼鏡の奥の目を細めた。
「何か、客観的な反論でも?」
「彼女は関係ない。私がすべての元凶だと言うなら、私一人で十分でしょ。法的に見ても、一般生徒を巻き込む理由はないはずよ」
「いいえ、雫ちゃん」
驚いたことに、私の背後から毅然とした声が響いた。
結衣が私の前に一歩踏み出し、恐怖の色を完全に消し去った瞳で、一ノ瀬を真っ直ぐに見据えた。
「私は、誰かに騙されたり、利用されたりしたわけではありません。私の意志で、自分の生活魔法の波長をこの人に貸しています。それが『法に触れる』と言うなら、私がしているのは、この世界が消え去るのを防ぐためのたった一つの盾です」
その凛とした言葉に、一ノ瀬の紙のように白い顔が、わずかに歪んだ。
「……愚かな。法を理解していない一般人の甘い感傷など、評議会の秤の前では何の免罪符にもなりませんよ。感情論で危険物を野放しにすることこそ、最大の人災だ」
一ノ瀬が冷酷に手を挙げ、背後に控えていた黒服の査察官たちに合図を送る。
「身柄を拘束しなさい。彼女は即座に隔離します」
逃げ場のない査察の網が、今まさに私たちを締め上げようとしていた。
私は前髪の星型ヘアピンにそっと指をかけ、結衣の温かい手をぎゅっと握りしめた。
この冷徹な法と論理の牙城に対し、私たちは静かに、しかし絶対に引けない戦いへと足を踏み出した。
第21話へ続く




