第19話:共犯者の朝と、遠雷の足音
紫苑の『白雪』と雫の魔法で何とか御影の魔法を退けた2人。しかし直ぐそこに五家の者が近付いて...
砕け散った結界の隙間から、凍てつく粉雪がしんしんと舞い落ちてくる。
藤ケ丘女子学園の中庭は、先ほどまでの圧倒的な死の気配が嘘のように、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。一般の生徒たちや教師は、紫苑が放った広域の時間凍結魔術『白雪』によって薄い氷の膜に覆われ、深い冬眠のような眠りの中に固定されている。
その静寂の中心で、私は結衣の華奢な身体を、ただ無我夢中で抱きしめていた。
彼女の首元からは、私が身につけている灰色のマフラー越しに、陽だまりのような温かな魔力が絶え間なく流れ込んできていた。それは私の胸の奥で荒れ狂いそうになっていた星の重力を、どこまでも優しく、静かな湖面のように鎮めてくれている。
拒絶されなかった。
化物だと言って、この手を振り払われなかった。
その事実があまりにも温かく、そして現実離れしていて、私は結衣の肩口に顔を埋めたまま、彼女の体温を確かめるように何度も細い息を吐き出した。
「……お二人とも、お熱いところ大変申し訳ありませんが」
静かな雪を踏みしめる足音と共に、凛とした声が降ってきた。
顔を上げると、少し離れた場所で、宝生紫苑が佇んでいた。彼女の銀色の髪にはうっすらと雪が積もり、その青い瞳には、激しい魔力行使の反動による微かな疲労と、深い感嘆、そしてほんの少しの安堵が入り交じっていた。
「紫苑……」
「広域凍結の維持と、生徒たちの深層意識への暗示の書き換え……限界ギリギリでした。ですが、これで外側からは『突風を伴う異常な冬の嵐でモミの木が倒れた』と認識されます」
紫苑は小さく息を吐き、それから中庭の地面――猟犬が這いずったことで黒く変色し、腐敗してしまった雪と芝生へと視線を向けた。その表情は、先ほどの戦闘の余韻を断ち切るように険しく引き締まっていた。
「……問題は、この『呪詛の残骸』です。御影の術式が染みついたこの汚染は、通常の浄化では消せない。生徒たちが目覚める前に、痕跡ごと完全に消去しなければならないのですが……雫さん」
紫苑の意図を察し、私は深く頷いた。
「……うん。できる」
私は結衣の手をそっと握りしめたまま、もう片方の手を地面へと向けた。
首元のマフラーから伝わる結衣の波長を錨にし、私の内側にある星の重力を、極小の、目に見えないほどの小さな『消去の点』として展開する。
――ヒュンッ。
微かな風切り音すら起きない。
地面を黒く染めていた猟犬の泥や腐敗した土壌だけが、ピンポイントで空間ごと抉り取られ、私の掌の上の極小の重力球へと吸い込まれて消滅していく。
結衣の波長という鞘を通しているおかげで、力は一切暴走しない。中庭の本来の美しい雪景色はそのままに、異物だけが完璧に、厳粛に消し去られていく。
「……相変わらず、常軌を逸した制御ですね」
その光景を見つめながら、紫苑は微かに冷や汗を拭い、息を吐き出した。
「世界を滅ぼす大魔女の力を、これほど繊細に、愛しい人に寄り添うように使いこなすなんて。……結衣さんのその『陽だまりの波長』は、五家のどんな高度な封印術式よりも強固で、そして美しい」
紫苑の言葉に、結衣は少しだけ照れくさそうに頬を染めながらも、私の手をさらに強く、決意を込めて握りしめ返してくれた。
彼女の瞳には、もう迷いはない。私の魔法が世界を揺るがすものだと知ってもなお、彼女は「私がこの人の錨でいる」という強い覚悟をその胸に宿していた。
「よし……これで、すべて消えたよ」
私が魔力を収束させると、中庭にはただ「暴風でモミの木が倒れただけの、真っ白な雪景色」が残された。
「十分です。では、生徒たちを目覚めさせます。お二人とも、表情を元に戻してください」
紫苑が静かに指を鳴らした。
パチン、という澄んだ音と共に、中庭を覆っていた薄い氷の膜が、春の雪解けのように一瞬にして気化して消え去った。
止まっていた時間が、再び動き出す。
「……あれっ? さ、寒っ!?」
「きゃあ! モミの木が倒れてる!」
「嘘、いつの間にこんな大雪……突風が吹いたの!?」
凍結から目覚めた生徒たちが、周囲の惨状を見て次々と声を上げ始めた。紫苑の暗示が見事に効いており、誰も「巨大な化け物がいた」ことなど疑いもしない。教師たちが慌てて飛び出してきて、生徒たちを安全な校舎内へと誘導し始める。
「私たちも、戻ろっか」
結衣が私の袖をキュッと引っ張った。
「うん」
私たちは、パニックになっている生徒たちの群れに紛れ、中庭から校舎の廊下へと避難した。
暖房の効いた廊下に出ると、張り詰めていた糸が切れたのか、結衣は「はぁ……」と小さな溜息をついて、壁に背中を預けた。
「びっくりしたぁ……。本当に、すごい嵐だったね」
結衣がわざと周囲に聞こえるような大きな声でそう言い、私に向かってこっそりと茶目っ気のあるウインクを飛ばす。
そのあどけなさと、直前まで見せてくれた圧倒的な強さのギャップに、私は愛おしさが抑えきれなくなり、思わずふっと笑みをこぼした。
「うん。でも……すごく綺麗な夜空だったよ」
私が小声でそう返すと、結衣の頬がほんのりと、甘い桃色に染まった。
「……うん。私も、一生忘れない」
廊下の窓の外では、朝の光を受けた本物の雪が、きらきらと輝きながら降っている。
昨夜のクリスマスパーティーは台無しになってしまったけれど、私の胸の中には、これまでの人生で一度も感じたことがないほどの、絶対的な安堵と温かさが満ちていた。
もう、嘘をつかなくていい。
私のすべてを知った上で、結衣は私の隣にいてくれる。この灰色のマフラーがある限り、私はどんな運命とだって戦える。
「……お二人とも、少しよろしいですか」
穏やかな空気を切り裂くように、いつの間にか私たちの背後に立っていた紫苑が、静かに声をかけてきた。
周囲の生徒たちに聞かれないよう、紫苑は私たちを廊下の隅の冷たい窓際へと促す。その青い瞳は、先ほどの安堵の色をすっかり消し去り、氷のように冷たく厳しい色を帯びていた。
「紫苑……? どうしたの、そんなに厳しい顔をして」
私が尋ねると、紫苑は拳を固く握りしめ、冷酷な事実を告げた。
「御影の猟犬は、あなたがすべて消し去りました。この学園の平穏は、一時的に守られた。……ですが、事態は最悪の方向へ動いています」
「最悪って……」
「あなたが最後に猟犬を完全消滅させた時、結衣さんの『鞘』を通したとはいえ、あまりにも巨大な『星の魔力』を開放してしまった。……その波長は、学園の結界の残骸をすり抜け、遠く離れた五家本山の監視網にまで確実に届いてしまったはずです」
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てた。結衣が、不安そうに私の手をさらに強く握りしめる。
「九重咲耶様をはじめとする管理派は、これまでの穏便な処置を望んでいました。ですが、あの『特異点の爆発』を本山が感知したとなれば、もはや九重の抑えも効きません。五家を束ねる最高評議会が動き出すでしょう」
紫苑の声には、明確な焦りと恐怖の色が滲んでいた。
「彼らは、御影のような野蛮な猟犬ではなく、法と絶対的な権力を執行する正規の処刑人――『特務査察官』をこの学園に直ちに派遣するはずです」
「特務査察官……」
「ええ。彼らは武力ではなく、五家の厳格な『法』と『論理』を用いて、あなたを永遠の幽閉へと追い詰める。……本当の戦いは、ここから始まるのです」
紫苑の警告が、冬の廊下に冷たく響いた。
結衣が私の手を握る手に、いっそう力がこもる。私はその温もりを自分の両手で包み込み、決して揺るがない決意を込めて前を向いた。
「……逃げないよ」
私は、紫苑の真っ直ぐな瞳を見つめ返して言った。
「五家がどれほど冷酷な査察官を送ってこようと、私はこの学園を出ていかない。結衣と、紫苑と一緒に、ここで私たちの日常を守り抜く」
私の決意を聞いた紫苑は、ふっと優雅に微笑み、静かに頭を下げた。
「その覚悟があるのなら、私は次期当主の権限をすべて使って、あなたたちを支援しましょう。……私たちは、最高の共犯者ですから」
窓の外の空はどこまでも高く、どこまでも青い。
私の長く孤独な冬は終わり、五家との知略と思惑が交差する、本当の『冷戦』の季節が、今静かに幕を開けようとしていた。
第20話に続く




