第18話:星墜つる聖夜、灰色の命綱が紡ぐ奇跡
遂にクリスマスパーティーを迎えた雫と結衣。紫苑ともパーティーを楽しんでいたが、そこに五家の1人である御影の術式の奇襲を受けてしまい...?!
三日後。十二月二十四日の夕刻。
私立藤ケ丘女子学園の中庭は、無数のランタンと生活魔法の淡い光に照らされ、冬の夜に浮かぶ幻想的な光の海へと変貌していた。
モミの木の周囲には長机が並べられ、温かいスープや色とりどりのケーキが甘い湯気を立てている。生徒たちの弾むような笑い声と、校舎のスピーカーから静かに流れるクリスマス・キャロルの調べ。息を吐くたびに真っ白な靄が夜の闇に溶けていくが、生徒たちの頬は誰もがクリスマスの熱気で紅潮していた。
「雫ちゃん、これ、すごく美味しいよ! ほら、あーん」
結衣がフォークに刺した一口大のブッシュ・ド・ノエルを、私の口元へと差し出してくる。
私は恥ずかしさに周囲をちらりと見回してから、ぱくりとそれを受け取った。濃厚なチョコレートの甘さとベリーの酸味が、口いっぱいに広がる。
「美味しい。……結衣、今日はずっと楽しそうだね」
「うんっ。だって、雫ちゃんと一緒にクリスマスを過ごせるなんて、すっごく嬉しいから」
結衣はとびきりの笑顔を見せ、それから少しだけモジモジと、背中に隠していた紙袋を両手で前に突き出した。
「あのね、これ……私からの、クリスマスプレゼント」
「結衣……」
「雫ちゃん、いつも手が冷たくて、寒がりだからさ。……あんまり上手じゃないけど、毎日少しずつ頑張って編んだの。受け取ってくれる?」
私が紙袋を受け取り、中からそっとそれを取り出すと、ふわりと温かい毛糸の匂いがした。
教室で、彼女が毎日少しずつ編み進めていた、あの淡いグレーのマフラーだった。丁寧に揃えられた編み目には、彼女の温かな時間と愛情が幾重にも縫い込まれている。
「……すごく、綺麗。結衣がこれを編んでる時、私、実はずっと見てたんだよ。もしかして私にくれるのかなって、少しだけ期待してた」
「えっ、ば、バレてたの……!?」
結衣が顔を真っ赤にして両手で自分の頬を覆う。その反応があまりにも可愛らしくて、私は胸が締め付けられるような愛おしさに包まれながら、たまらず吹き出してしまった。
「ありがとう、結衣。すごく嬉しい。……今すぐ、着けてもいい?」
「う、うん……! 私が、巻いてあげる」
結衣が背伸びをして、私の首元にふんわりとマフラーを巻いてくれた。
毛糸の隙間から、結衣の陽だまりのような優しい魔力と、彼女の微かな体温がすっと伝わってくる。
首元――私の胸の奥底で極限まで圧縮されている『星の魔力』の真上、その心臓のすぐ近くで、その温もりが『絶対的な錨』となって私を深く、静かに安定させてくれた。
(これさえあれば、私は――)
――ピキィンッ!!
頭の芯をハンマーで殴られたような、鋭く冷たい音が響いた。
中庭の喧騒に紛れて誰も気づいていない。だが、私の魔力器官は瞬時に察知した。星のない夜空の『空間そのもの』に、黒くおぞましい亀裂が走ったのだ。
(限界が、来た……!)
私は即座に視線を巡らせた。少し離れた場所でクラスメイトと談笑していた紫苑も、すでに空の異変に気づき、その深海のような青い瞳を鋭く細めている。
彼女と視線が交差する。
『来ます』
紫苑の唇が、音もなくそう動いた。
メキメキメキッ……ガシャンッ!!
巨大なガラスの天井が粉々に叩き割られたような、鼓膜を突き破る轟音が中庭に響き渡った。
きゃあっ、と生徒たちが悲鳴を上げてその場にしゃがみ込む。
砕け散った学園の防御結界が光の破片となって降り注ぐ中、空にぽっかりと口を開けた『真っ黒な大穴』から、泥のように濁ったタール状の魔力が、滝のように学園へと雪崩れ込んできた。
「な、何あれ……っ!?」
結衣が私の腕にすがりつき、恐怖に震える。
地面に落ちた黒い泥は、周囲の雪や草木を瞬時に『腐敗』させながらグツグツと膨張し、数匹の巨大な獣の形を成していく。赤い隻眼。ヘドロのような体躯。ただそこに存在するだけで、クリスマスパーティーの温かい空気が、吐き気を催すような死の臭いへと塗り替えられていく。
「結衣、私から離れないで!」
私が結衣を背中に庇った瞬間、パチン、と。
静寂を呼ぶような、ひどく澄んだ指鳴らしの音が一つ、中庭に響いた。
「――『白雪』」
凛とした紫苑の声が響いた瞬間。
逃げ惑っていた一般生徒たちや教師たちの動きが、ピタリと止まった。彼らの足元から急速に霜が這い上がり、薄い氷の膜に包まれて『完全な冬眠状態』へと強制移行させられたのだ。
五家の次期当主による、広域の『時間凍結・保護結界』。惨状を見せないため、そして守るための大魔術。
だが、私の背後にいる結衣だけは、私が握った手から無意識に魔力の保護(不可侵領域)を拡張していたため、凍結を免れていた。
「し、雫ちゃん……みんな、どうしちゃったの……!?」
「大丈夫、みんな眠らされてるだけ! 絶対に怪我はさせない!」
生徒たちが氷像のように静止した中庭で、紫苑がたった一人、猟犬たちの前に立ち塞がる。
「狂犬を放し飼いにするとは。御影は、完全に狂ったようですね」
紫苑の銀髪が舞い上がり、周囲の空間が絶対零度に達する。先頭の猟犬数匹が一瞬で氷の彫刻へと変わり、砕け散った。
しかし――空の穴からは次々と新しい泥が降り注ぐ。広域の生徒保護結界に魔力の大半を割いている紫苑の顔には、明らかな疲労と焦りの色が滲み始めていた。
「紫苑っ……!」
私が叫んだ、その時だった。
紫苑の氷結をすり抜けた一匹の巨大な猟犬が、地面の雪を腐らせながら、まっすぐに私と結衣の方へと跳躍した。
その赤い隻眼が、私の中に眠る『特異点』の匂いを完全に嗅ぎつけている。結界が破れた今、結衣のマフラーの鞘だけでは隠しきれない。
猟犬が、私ごと結衣を引き裂こうと巨大な顎を開く。
「弾けろ……っ!」
私は三日前にモミの木へ飾った『星のオーナメント』へと意識を繋ぎ、遠隔で起爆させた。
――ピィンッ!!
星に込めておいた極小の重力波が解放され、空中にいた猟犬の横腹を真横から殴りつける。猟犬は軌道を逸らされ、そのままモミの木へと激突した。
メキィッ! という音と共に、中庭の象徴だった巨大なモミの木が真っ二つにへし折れる。ダミーの目印は、たった一撃で使い潰されてしまった。
そして、事態は最悪の方向へ転がる。
オーナメントを起爆した『星の魔力の波長』を感知したことで、中庭にいるすべての猟犬の標的が、紫苑から完全に私へと切り替わったのだ。
十数匹の巨大な猟犬が、一斉にこちらへ向き直る。紫苑が数匹を氷漬けにするが、防波堤はすでに決壊していた。
「……ひっ」
背中で、結衣が小さく悲鳴を上げ、私のコートの裾を力強く握りしめた。
その震える手から伝わってくるのは、圧倒的な恐怖。それでも彼女は、決して私を置いて逃げようとはしなかった。
(……ここまでだ)
頭の片隅で、冷徹な警報が鳴り響く。
ここで力を解放すれば、私はもう「ただの雫」ではいられない。結衣の瞳に映る私は、この化け物たちを遥かに凌駕する「世界を壊す怪物」に変異してしまうかもしれない。恐怖で足がすくみ、喉の奥がキュッと締め付けられる。
――それでも。
首元に巻かれた、結衣の温かいマフラーに触れた。
彼女の体温が、私の震える心臓に「大丈夫だ」と語りかけてくる。
「結衣。……ごめんね、ずっと隠してて」
私は結衣の手を優しくほどき、一歩前へ出た。
殺到来る猟犬の群れと、愛おしい少女の間に、たった一人で立ち塞がる。
「雫、ちゃん……?」
背後で戸惑う結衣の声を聞きながら、私は深く、深く息を吸い込んだ。
私は胸の奥底で極限まで圧縮し続けていた『星の魔力』の封印を――ついに解き放った。
ドクン、と。
世界が、反転した。
私の心臓の鼓動に合わせ、胸の奥から溢れ出した星の魔力は、首元に巻かれた灰色のマフラー――結衣の陽だまりのような波長という『鞘』を通過した瞬間、奇跡のような変質を遂げた。
中庭を包んでいた冬の凍てつく空気も、猟犬たちが放つ生臭い泥の悪臭も、すべてが一瞬にして真空の彼方へと押し流される。
砕け散った結界の向こうに広がる、雪雲に覆われた真っ暗な冬の夜空。
そこに、突如として『もう一つの宇宙』が展開されたのだ。
天井のない夜空に、数え切れないほどの星々が音もなく点灯する。それはただの幻影ではない。一個の恒星が持つ質量、銀河の回転が持つ圧倒的な重力場が、この学園の上空にそのまま具現化したものだった。
息を呑むほどに美しく、そして理不尽なまでの質量を伴った巨大な銀河の渦。それが、私の魔力の本当の姿――『流星の夜空』。
「ガ、アアアァッ!?」
私と結衣に襲いかかろうとしていた最先鋒の巨大な猟犬が、空中でピタリと静止した。
いや、動けないのだ。頭上に展開された星空から降り注ぐ、目には見えない超高重力の檻に捉えられ、その巨体は一ミリたりとも空間を進むことができなくなっていた。
「……消えて」
私が静かに、けれど絶対的な意志を持って右手を振り下ろす。
結衣のマフラーが放つ温かい波長が、暴走しようとする星の魔力を完璧なまでにコーティングし、私の神経の隅々まで行き渡らせている。星を砕くほどの絶大な質量は、結衣の優しさに寄り添うように細く、鋭く研ぎ澄まされ、一般の生徒や紫苑、そして氷漬けの教師たちには一切のカスリ傷もつけない。
ただ、目の前の「敵」の存在命題だけを正確に消去するために。
パキィンッ……!!
猟犬の巨体が、内部から発生した超高重力の崩壊によって、一瞬で極小の点へと圧壊していく。
断末魔の叫びすらあげる暇もない。泥の身体は粉々に引き千切られ、そのまま色彩を失った無数の光の粒――『星屑』となって、夜風の中にサラサラと溶けて消えていった。
音すらない、あまりにも圧倒的で静謐な蹂躙。
私の意思が夜空の星々と共鳴する。
頭上の銀河から、無数の『流れ星』がパラパラと降り注ぎ始めた。
それは光の矢だった。結衣の波長という鞘に包まれた極小の質量の塊が、空間を歪めながら、中庭を埋め尽くす猟犬たちの泥の身体を次々と的確に穿っていく。
「ギイ、ギャアアアアッ……!」
光の矢に貫かれた猟犬たちは、次々と内側から崩壊し、美しい星屑に変わって冬の夜空へと還っていく。
ものの数秒。
御影の当主が放った最強の索敵・戦闘術式は、藤ケ丘女子学園の敷地に焼け焦げ一つ、灰のひとひら残すことすら許されず、文字通り『夜空の幻』のように完全消滅した。
シン……と、中庭に再び静寂が戻った。
生徒たちは紫苑の魔法で氷の中に眠ったまま。破壊されたモミの木と、粉々になった星のオーナメントだけが、先ほどまでそこで繰り広げられていた暴力を静かに物語っている。
「……あ……あぁ……」
少し離れた場所で、紫苑が力なく雪の上に両手をつき、ポカンと口を開けたまま夜空を見上げていた。
彼女の深海のような青い瞳に、私が展開した星空の残光が、痛いほど眩しく映り込んでいる。
「これほどの圧倒的な質量を……まるで、愛しい人に触れるような手つきで繊細に制御するなんて……。大魔女様をも凌駕する、星の完全制御……」
紫苑の震える呟きは、私の耳にはもうほとんど届いていなかった。
猟犬をすべて消し去った今、頭上を覆っていた星空の魔法も、粉雪が舞う元の冬の空へとゆっくりと溶けていく。
戦いは終わった。
けれど、私の本当の戦いは、ここからだった。
(……拒絶される)
恐怖で足の裏が凍りついたように動かない。
私は、ゆっくりと後ろを振り返った。
一般の生徒なら一生の間に二度と見ることもないような、あまりにも巨大で、おぞましいまでの破壊の力。いくら結衣のマフラーで包んでいたとはいえ、目の前で化け物を跡形もなく消し飛ばすところを、すべて見せてしまったのだ。
彼女は今、私をどう見ているだろう。
怯えて、後ずさって、「化け物」と呼んで、この手から離れていくだろうか。それが怖くて、私は自分の両手をギュッと握りしめ、冷たい地面に目を伏せた。
「ごめん、結衣……っ」
震える声が、冬の夜空に掠れて消える。
「私、ずっと嘘をついてた。私、ただの女子高生じゃないの。みんなが使ってるみたいな、便利な生活魔法なんて一つも使えない。私の中にあるのは、世界を簡単に壊せるほどの……こんな、制御できない化け物の力だけで……!」
言葉が、涙でぐちゃぐちゃに歪む。
「五家から逃げるために、結衣の優しさを、私の魔法の隠れ蓑にしてた。私が傍にいたら、いつか結衣まで危ない目に遭うって分かってたのに……結衣が優しくしてくれるのが嬉しくて、温かくて、離れられなくなって……ごめんね、怖かったよね……っ!」
顔を覆い、膝から崩れ落ちそうになった、その時だった。
――ふわり、と。
私の首元に巻かれた灰色のマフラーの端を、結衣の両手が優しく、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、ぐっと引き寄せた。
「え……?」
涙で滲む視界の中、結衣の顔がすぐ目の前にあった。
彼女の瞳からも、私と同じように大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
怯えの色がなかったとは言わない。あんな巨大な化け物を目の当たりにすれば、恐怖で足がすくむのは当然だ。けれど、彼女が私を見つめる瞳の奥に宿っていたのは、恐怖の拒絶ではなく、それを遥かに超越した深くて熱い慈愛だった。
「……怖かったよ」
結衣は震える声で、そう呟いた。
「あんな大きな化け物が現れて、本当に怖かった。……それに、雫ちゃんがそんなに凄くて、危険な力を隠してたことも、正直、最初は頭が真っ白になって……どうしていいか分からなかった」
胸が、引き裂かれるように痛んだ。やっぱり――そう思った瞬間、結衣の温かい両手が私の両頬を包み込み、その親指が私の涙を優しく拭い去った。
「でもね、それ以上に……痛いほど分かったの」
「結衣……?」
「雫ちゃんが、ずっと一人でこんな途方もない重荷を背負って、どれほど怖くて、どれほど孤独だったか。それをずっと隠して、私の前でいつも優しく、大切そうに笑ってくれていたことの方が……私にとっては、ずっと、ずっと胸が痛かったよ」
結衣は泣き笑いのような、ぐしゃぐしゃの顔で、首元に巻かれたマフラーをキュッと強く握りしめた。
「化け物なんかじゃない。雫ちゃんは、私を助けてくれた。……私の編んだマフラーをこんな風に大切にして、命がけで私を守ってくれた。それが全てだよ」
「っ……ああ……っ!!」
私はもう、自分の感情を抑えられなかった。
堪えきれずについに堰を切ったように、結衣の華奢な身体に飛びつき、その胸に顔を埋めて激しく泣きじゃくった。
結衣もまた、私の背中に両腕を回し、折れそうなほど強く、ギュッと抱きしめ返してくれた。
彼女の陽だまりのような、どこまでも優しくあたたかな魔力が、私の内側に残っていた恐怖も、孤独も、幾年月もの冷たい呪いも、すべてを優しく、綺麗に溶かしてゆく。
「いなくならないでね、雫ちゃん」
結衣が私の肩口に顔を埋めながら、微かに震える声で、けれどはっきりと囁いた。
「私、雫ちゃんの力のこと、まだ全然分からないけどさ……でも、雫ちゃんがまた一人で闇に飲み込まれそうになったら、私が絶対に、この手で繋ぎ止めてあげる。だから……もう一人で抱え込まないで」
「うん……もう絶対に離れない。どこにも行かないよ、結衣……!」
私は結衣の背中を撫でながら、もう一度、今度こそ永遠の誓いを立てた。
五家の掟も、御影の猟犬も、この世界がどれほど私たちを引き裂こうとしようとも。
私はこの温もりを、二度と手放さない。
砕け散った結界の隙間から、本物の粉雪が、しんしんと舞い落ちてくる。
すべてを告白したクリスマスの夜。私たちは、凍てつくような冬の夜空の下で、互いの体温と魔法だけを頼りに、いつまでも、いつまでも強く抱きしめ合っていた。
19話に続く




