第15話:冬の屋上と、結界を撫でる猟犬の息遣い
星華祭も終わり、無事にこれから結衣とゆっくり残りの学園生活を過ごせると思っていた雫。
しかし、そこに唯一の『男性の族長』の姿が...
十二月に入り、藤ケ丘女子学園を吹き抜ける風は、刃物のように鋭く冷たくなっていた。
校舎の窓ガラスは白く曇り、生徒たちが吐く息は真っ白な靄となって冬の空に溶けていく。制服の上に指定のウールコートを羽織る生徒が増える中、転校生である宝生紫苑の存在感は、この冷涼な季節の中でより一層の際立ちを見せていた。
彼女の透き通るような銀髪は、冬の曇天に驚くほどよく馴染む。
休み時間になるたび、紫苑の席には彼女の優雅な振る舞いや洗練された魔法に憧れる生徒たちが集まっていた。紫苑は誰に対しても完璧な微笑みを絶やさず、けれど決して誰とも一定以上の距離を縮めようとはしない。
彼女がこの学園にいる目的は、ただ一つ。私という『特異点』を、五家の目から隠し通すための防波堤になることだけだからだ。
「……雫ちゃん、どうかした?」
昼休み。自分のお弁当箱を広げていた結衣が、窓の外を見つめていた私に首を傾げた。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと外が寒そうだなって思って」
「うん、今日は特別冷えるね。あ、私のお味噌汁、少し分ける? 魔法で熱々に保温してあるから」
「ありがとう。結衣のお味噌汁、すごく好きなんだ」
結衣の隣で温かいお椀を受け取りながら、私はそっと自分の前髪に触れた。結衣にもらった星型のヘアピンが、そこにある。
数日前の温室での出来事以来、結衣は紫苑に対して過剰な引け目を感じることはなくなった。私が『結衣の魔法が一番好きだ』と伝えたことで、彼女の中の不器用なジェラシーは、確かな安心感へと変わってくれたようだった。
彼女の波長が安定しているおかげで、私の胸の奥に圧縮された星の魔力も、完璧な静寂を保ち続けている。
昼食を終え、結衣が図書委員の当番で図書室へ向かった後。
一人になった私の机に、音もなく一つの影が落ちた。
「白瀬雫さん。……少し、お時間をいただけますか」
見上げると、紫苑が静かな青い瞳で私を見下ろしていた。
周囲の生徒たちが「宝生さんが白瀬さんに話しかけてる」とざわめくのを、紫苑は気にした様子もなく、ただ真っ直ぐに私だけを見つめている。
「……うん。わかった」
私は席を立ち、紫苑の後に続いて教室を出た。
向かった先は、冬場は誰も立ち入らない旧校舎の屋上だった。
重い鉄扉を開けると、凍てつくような北風が容赦なく吹きつけてくる。私が思わず身を縮ませたその瞬間、紫苑がコートのポケットから指先を僅かに動かした。
ヒュッ、と。
私たちの周囲半径二メートルほどの空間だけ、風の音が完全に消失した。寒さも、遠くから聞こえていた生徒たちの声も、すべてが薄いガラスのドームに覆われたように遮断される。
高度な『防音・防寒・認識阻害』の複合結界。それを無詠唱、かつ一瞬で展開したのだ。
「……見事な結界だね。これなら、誰にも聞かれない」
「ええ。それに、五家の探知網からも完全に隔離されています」
紫苑は屋上の手すりに背を預け、ふうっと小さく息を吐いた。その瞬間だけ、完璧な次期当主の仮面が剥がれ、年相応の疲れを見せたような気がした。
「先日の温室での火災騒ぎ。私がしゃしゃり出るような真似をして、あなたの友人に不快な思いをさせてしまったかもしれません。申し訳ありませんでした」
「……謝らなくていいよ。あの時、紫苑がいなかったら、私は結衣を庇うために自分の力を使ってた。そうしたら、確実に五家にバレてたと思うから」
「はい。ですから、私が事象ごと『消去』しました」
紫苑の青い瞳が、スッと細められ、鋭い光を帯びた。
「あの時、あなたが少しでも魔力の圧縮を解いていたら……私たちは、今頃どうなっていたか分かりません」
「どういうこと?」
紫苑は答えず、結界の『外側』――虚空を指差した。
「……目を凝らして、結界の表面を見てください」
言われるままに、私は魔力視の焦点を結界の薄い膜に合わせた。
ーーーゾワッ、と。全身の産毛が逆立った。
結界の外側。何もないはずの冬の空中に、黒くドロドロとした『異質な波長』が、這いずるように張り付いていた。
形はない。ただ、明らかに「何かを探し、嗅ぎ回る」という飢えた意思だけを持った魔力の残滓が、紫苑の張った結界の表面をズルズルと撫で回しているのだ。
「……何、これ」
「猟犬です」
紫苑の声に、微かな嫌悪と恐怖が混じっていた。
「五家の中で唯一の例外。異端の力を持つ『御影』の当主が放った、自律型の索敵術式。……あれは、学園の敷地のすぐ外側を、昼夜問わず徘徊しています」
御影。星華祭の日に紫苑が語っていた、強引な手段を取る『男性の族長』の家門。
「九重咲耶様は、極めて優秀な管理者ですが、それゆえに『学園の平穏を乱してまで強引な捜査はしない』という理性があります。しかし、御影は違います。彼は、毒を見つけるためなら、戸棚のティーカップをすべて叩き割ることも辞さないような男です」
結界の表面を撫でる黒い波長が、ビチャリ、と音を立てたような気がした。
「猟犬は、少しでも規格外の魔力の匂いを嗅ぎつければ、対象の生死を問わず喰らいつきます。……もし温室で、あなたが自身の魔力を解放してあの『真空』の魔法を完成させていたら。猟犬たちはガラスを突き破って、あなたと、そして傍にいた白瀬さんを確実に襲っていたでしょう」
「っ……」
背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
結衣が、危なかった。私の軽率な判断一つで、彼女を五家の暴力の渦に巻き込むところだったのだ。
「……でも、今は猟犬に気づかれてない。私の魔力は、完全に隠蔽されてるはずでしょ?」
私が震える声で問うと、紫苑は一歩近づき、私の胸元――極小に圧縮された星の魔力が眠る場所――を、不思議そうに見つめた。
「ええ。驚異的な制御です。大魔女様でさえ、ここまで完璧に魔力を『無』に抑え込むことはできなかった。……いえ、抑え込んでいるというより、何かに寄り添って、静かに眠っているような……」
紫苑はハッとして、私の前髪で光る星型のヘアピンを見た。
「なるほど。白瀬結衣さん。……彼女の波長が、あなたのその巨大すぎる力の『錨』になっているのですね」
「……うん。彼女の温かさがなきゃ、私は一秒だってこの力を抑え込めない。結衣が、猟犬から私を隠してくれてるんだ」
私が隠すことなく答えると、紫苑はふっと、とても柔らかく、少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべた。
「奇跡のようなバランスです。五家の厳しい修行を積んだわけでもない、ただの一般生徒の優しい生活魔法が、世界を滅ぼしかねない大魔力の手綱を握っているなんて」
紫苑は空を見上げ、銀色の髪を冬の風に遊ばせた。(結界の外の風が、彼女の髪だけを揺らしている。)
五家の人間として「強大な力は厳格な管理下にあるべき」と教えられてきた彼女にとって、私と結衣の「温もりに依存した危うい均衡」は、理解を超えた美しい異端なのだろう。
「私の防波堤がいつまで保つかは分かりません。御影の猟犬は、日々監視の目を強めています。……どうか、気をつけて。あなたのその『錨』が外れるようなことがあれば、それが猟犬に喰いつかれる最大の隙になります」
「分かってる。絶対に、結衣の手は離さない」
「ええ。……では、戻りましょうか。あまり長く二人でいると、周囲に怪しまれますから」
紫苑が指を鳴らすと、周囲の結界が音もなく解け、再び冷たい冬の風が私たちを包み込んだ。
結界が消えた瞬間、空中に張り付いていた黒い波長も、霧散するように消え去った。
教室に戻ると、図書委員の仕事を終えた結衣が、私の席の横で待っていた。
「あ、雫ちゃん、おかえり」
「ただいま、結衣」
結衣の手には、自動販売機で買った紙コップのココアが二つ握られていた。
「外、寒かったでしょ。これ、飲んで。冷めないように、ずっと手で温めてたんだ」
結衣が差し出してくれたココアのカップは、自販機から出てきた時よりも、ほんの少しだけ高い、心地よい温度を保っていた。結衣の陽だまりのような魔力が、カップ越しに私の悴んだ指先へと伝わってくる。
「……ありがとう、結衣。すっごく温かい」
一口飲むと、甘くて濃厚なカカオの味が、張り詰めていた私の神経をゆっくりと解きほぐしてくれた。
結衣のこの温もりが、私を『無』にし、外を這いずる猟犬から守ってくれている絶対的な命綱だ。
「宝生さんとは、何の話してたの?」
結衣が、隣で自分のココアに口をつけながら、少しだけ上目遣いで尋ねてくる。ジェラシーというよりは、純粋な心配と気遣いの色だった。
「ん? 次の魔法史の小テスト、範囲がどこだっけって聞かれただけだよ」
「もう、宝生さんったら、そんなこと私に聞いてくれればよかったのに」
結衣がくすくすと笑う。
その穏やかな横顔を見つめながら、私はカップを握る手にぐっと力を込めた。
学園の外には、私を探す見えない猟犬たちが息を潜めている。五家の思惑が、冷たい冬の空気と共に私たちの日常を完全に包囲し始めている。
それでも、この手の中にある結衣の温もりだけは、絶対に離さない。
例え世界中の魔法使いを敵に回すことになっても、私が、結衣のこの笑顔を守り抜く。
凍てつくような十二月の窓辺で、私は隣で笑う結衣の肩に、ほんの少しだけ自分の肩を寄り添わせた。
第16話に続く




